白い壁
日南田 ウヲ
第1話
はぁと息を吹きかけた掌の上に一片の雪が落ちて、やがて静かに消えていった。
腕時計を見ると午前7時を少し過ぎている。
鴨井陸は手をコートのポケットに入れて空を見上げた。
中之島公会堂のアーチ型の屋根が見える。
その屋根に向かって息を吐くと白い息が少し曇った二月の空へ上り、そして雪がまだらに落ちてきた。
鴨井は黒いコートの襟を立てると雪が首から入り込まないようにして背を曲げた。そして急ぎ足で川にかかる石畳の橋を渡った。
中之島公会堂と川を挟んだ向かいの場所は画廊が多く集まる場所だ。その入り口ともいえる御堂筋に面した通りから小路を入れば自分の画廊がある。この画廊街界隈のいわば入り口に自分の画廊はある。
平日は静かなところだが週末ともなれば絵画を見るために若い人達が訪れ、平日には少ない客足も少しは伸びる。
今日はその週末だ。だからいつもより一時間ばかり早く画廊を開けて客を待つのだが、その途中に雪が降って来た。
(それでもまだ雨よりは良い)
真っ直ぐに伸びた白い鼻を両手で押さえると冷たくなった手の中でまた息を吐いて手をさすりながら交番横の角を曲がった。角を曲がるとコーヒー豆を挽いた香りがした。
(さすがにカフェは朝が早いな)
画廊の隣に小さなカフェが最近オープンした。鴨井は歩きながら横目でガラス越しに店の中を見ると奥で準備をする女性とガラス越しの壁に100号の赤い大きな薔薇の絵が見えた。別段この界隈では絵を一緒に飾っているカフェは珍しくない。ギャラリーを兼任しているカフェもあるぐらいだ。
(赤い薔薇の絵のあるカフェか・・、今度暇を見て伺おう)
そう思って画廊のドアの前に立ち鍵を差し込んだ。そしてドアを開けると壁の電気スイッチを押した。
暗い部屋が一瞬で明るくなる。
鴨井は部屋を見渡した。左の壁にはマティス、正面はカンディンスキー、右の壁にはクレーのエッチングが掛けられていた。そしてその下にいくつかの梱包された作品があった。
梱包された作品は鴨井が自分で主催した公募で集めた作品だ。テーマを「白」として作品を募集した。
別段賞金などはないが画廊に作品が展示されると言うだけで幾つかの応募があった。幸い10点ほどの作品だったので狭い画廊でも十分作品を掛けることはできた。
週末は壁にかけられた巨匠達の作品を外して公募作品を代わりに掛ける。週末はそれを見に来る学生やその友人たちで画廊は人が溢れるだろうと思っている。
そう思いながら足元の作品の梱包をほどいて作品を取り出した。
(ほう)と思わず心の中で声を出した。
取り出した作品は30センチ四方のキャンバスに描かれたものだが雪の降る街とその通りを歩く人々を描いた風景画だった。
(モーリス・ユトリロのようだ)
フランスで活躍した画家ユトリロは風景画を主に描いた。作品の多くは風景画でパリの身近な風景を描いた。その作品には白い壁を取り上げた風景が多く、その頃の作品は「白の時代」と言われていた。
(東京のギャラリーで働いていたころユトリロの本物を見たことがあるが、それにしてもこの作品はなかなか良い)
鴨井陸は美術大学を出たわけではない。将来は弁護士になるため東京にある私立大学の法学部に通っていたが学生時代にスペインを旅行した時、そこで見た一枚の絵画に驚いた。
それはピカソの「青の時代」の作品だった。
その絵の前に立った時、経験したこともない感動に身震いした。その為暫くその作品の前から動くことができず、日本に戻ってからもピカソの作品を見た感動が自分の身体から離れることはなかった。
そして大学を卒業する時、既に司法試験には合格していたが法曹の道を捨て、芸術の世界へ身を投げた。
後悔はない。大学を卒業した後、東京の有名画廊に入り現場で10年程学んだあと大阪へ戻り画廊を開いた。
そして二年が過ぎた。
コートを脱ぐとマティスの絵を壁から外し、ユトリロ調の絵を壁にかけた。そして腕を組んでもう一度絵を見た。
(良い絵だ)
頷くと梱包の中に同封されている出展者の履歴に目を通した。
大阪市 加藤新次郎 82歳
(地元の作家か。ご高齢の方だな)
鴨井は履歴を机に置くと他の作品の梱包をほどき始めた。画廊が開くまであと二時間しかない。その間に残りの作品の梱包を解き、壁に展示しなければならなかった。
(急がないと)
そう思った時冷たい風が画廊に吹いた。
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