火星編 コンタクト
第10話 苦難の始まり
日本列島が転移する15000年前 【太陽系第3惑星衛星軌道上 マルス派遣調査ラボ『ルンナ』】
永いスリープモードに入っているプルト級楕円宇宙船『ルンナ』は、外宇宙から猛烈なスピードで飛来する白い巨大彗星の接近を探知した。
その巨大彗星は第3惑星付近を約370年周期で通過しており、『ルンナ』の人工知能航法装置にも入力されていた。しかし、太陽からの放射圧と熱量により、彗星の核が変質し、周回軌道とスピードが頻繁に変化した。
『ルンナ』の人工知能航法装置は緊急回避行動をとったが、変則を繰り返して加速する彗星の予測針路計算に手間取り、僅かに回避行動が遅れ、巨大彗星のダストテイル(尾)に巻き込まれた。
無数の金属塊と岩石が『ルンナ』居住区と調査・観測ラボ・管制区画を直撃して大半の搭乗員が死亡した。『ルンナ』統括AIは危機管理プログラムに則り、生き残った搭乗員をスリープカプセルごと脱出シャトルに搭載し、最寄りの惑星大気圏突入針路へ射出した。
そして『ルンナ』統括AIは、一部の機能を除き、沈黙した。
♰ ♰ ♰
『ルンナ』から射出された脱出シャトルが、第3惑星上に無事着陸すると、搭載したスリープカプセルが覚醒モードに移行し、搭乗していた調査隊長のイワフネは眼を覚ますと、脱出シャトルの外に出た。
脱出シャトルから荒れた地面へ降り立ったイワフネの双眸に、どこか高い山脈の尾根から地上を俯瞰する光景が飛び込んできた。
太陽が山脈の間から昇ろうとしていた。夜明け前の薄暗い空は蒼く、白い雲海が眼下を埋め尽くしている。
イワフネは大きく深呼吸をすると、冷たく新鮮な酸素が体内に送り込まれ、銀色の鱗に覆われた肌が寒気を感じた。イワフネはまだ冷凍睡眠から目覚めたばかりでぼうっとした頭を振ると、他の搭乗員の様子を診るために脱出シャトルへ戻っていった。
脱出シャトルが着陸した場所は、現在の宮崎県高千穂町を含む1000m級の山々が連なる九州山地の一角にあたる。
現地語では『高天原(たかまがはら)』と言う。
♰ ♰ ♰
2021年(令和3年)4月3日午前11時【東京都千代田区丸の内 角紅本社】
総合流通営業部の大月は、早朝から溜まっていた売買注文の処理がひと段落ついたので、社員食堂で今日も一足早い昼食を取っていた。
「春日くん、今日はエトロブルクで魚の買い付けらしいですよ。お土産は蟹かな?チーズ鱈かな?」
何故かタイミング良く早番休憩に入った西野が、オヤジくさい事を言いながら大月の向かい側に座るなり、いそいそと手提げ袋の中から昼食の入ったバスケットを取り出す。
赤い空が始まった夜に大月の部屋に春日と来襲した西野は、大月に絡む事が多くなっていた。40代に入ってから若手女性社員の婚活対象圏外となった大月に話しかける者は居なかったので、久しぶりの会話に内心ときめきながら全神経を費やす大月。
「あいつ、極東ロシアの島を廻っているんだったな。もう10日になるか。蟹や魚は日持ちしないからあまり期待しないほうがいいんじゃないか?」
春日のハードワークぶりに感心する素振りをしつつ、取りあえず常識的な応えを試みる大月。
日本国国家非常事態宣言から3ヶ月、数週間前から日本列島に降り注ぐ宇宙放射線の値が下降し、屋外での被曝影響がほぼ許容値に達したことから、食料・燃料統制下にあるものの、民間航空会社や通信事業者の営業が徐々に再開され、製造業の工場も稼働を始めた。
中堅総合商社である角紅は、極東ロシア連邦での穀物地帯開発、インフラ整備、生鮮食料品の買い付けなど、新規事業が目白押しで社員の多くが極東ロシア連邦と対岸の北海道東北地方を行き来していた。
大月が所属する総合流通営業部は、現地へ出張した彼らが買い付けた品を速やかに取引先の売買情報とマッチングさせて営業担当者へ連絡する役割を担っていた。
極東ロシア連邦の生鮮食料品は、食糧不足と物珍しさ、極東ルーブルの貨幣価値が比較的安い事もあって、引く手数多だった。また、極東アメリカ合衆国や英国連邦極東の農産物も、実質日本国内の生産にもかかわらずブランド力を持ち、外国産に目がない一部の富裕層や流行に敏感な若者に高値で売れていた。
西野もちゃっかり"極東アメリカ合衆国産"の沖縄パイナップルやちんすこう、"英国連邦極東産"の長崎県五島列島で水揚げされたイワシパイやカステラを買っていた。
「大月さん、昼ごはんにイワシパイを食べませんか?」
テーブルに広げたバスケットから切り分けたイワシパイをフォークに刺した西野が大月にあーんをさせようとするが、独特の料理センスを持つ英国料理のイワシパイを知る大月は、身体をよじって西野の差し出すイワシパイから逃れた。
「なんですか、その反応は!」
ぷくっと頬を膨らませた西野が大月に食べさせようとしたイワシパイにかぶりつく。
「ふあっ!?」
口の中一杯に拡がるイワシの腸が醸し出すえぐみを感じるとカッと目を見開く西野。
その光景を見つめた大月は、ため息をつくと慰めるように自分の皿に有る鳥の唐揚げを差し出そうとするが、
「懐かしい、独特のこの風味!たまりませんなあ」
頬を緩ませてイワシパイを堪能する西野。
大月は、初めて西野に尊敬の念を抱くのだった。
♰ ♰ ♰
極東アメリカ合衆国、極東ロシア連邦、英国連邦極東、ユーロピア自治区での食糧生産が軌道に乗ると日本列島の食料自給率は徐々に改善され、火星転移直後の68%から75%に急上昇した。しかし、米以外の小麦など穀物は依然として不足しており、家畜用の飼料も伸び悩んでいることから国内の耕作廃棄地、都市部での大規模プラント水耕栽培の拡充へ向けて官民共に人的資源を集中させるのだった。
♰ ♰ ♰
---同4月3日アメリカ東部時間午前5時【地球 アメリカ合衆国フロリダ州 ケープカナベラルNASA(アメリカ港空宇宙局)宇宙センター】
その日、雪雲や火山灰を降らす噴煙が一時的にメキシコ湾岸からの南風で流されると奇跡的に宇宙センターに数か月ぶりの青い空が顔を覗かせた。
この機を逃すまいと、未明から多くの地上職員がシャトルの打ち上げ準備に奔走していた。
火山灰が薄く降り積もった打ち上げ施設で職員たちが地球衛星軌道上に避難する人々を乗せた軍用シャトルの発進準備を行っていた。
『燃料注入完了。
打ち上げ施設上空は雪雲が散見されるが、あと数時間はこの好天が続く模様』
「了解、シャトルX34-B。計器システムに異常はない。いつでもいけるぞ。
次の地震が来る前に、もう一度宇宙に行きたいものだ」
シャトルの機長が管制官に応えた。
『了解X34-B。打ち上げ秒読みを短縮。300から始める。人類の希望を頼む』
5分後、久しぶりに晴れたフロリダ半島上空の青空を真っすぐに宇宙へ突き進むシャトルの姿がニューオーリンズからも見る事が出来た。
♰ ♰ ♰
衛星軌道上に無事到着したX-34Bは5時間後、ISS(国際宇宙ステーション)にドッキングし、地球から避難してきた欧米の科学者や軍人がISSの居住区画に移動した。
シャトルのカーゴが開くとISSからロボットアームが伸びてきてカーゴ内にあるステーションの追加ユニットを慎重にシャトルから取り出す。
この追加ユニットはISS居住区画であり、一つ当たり10人が生活できる設備が付いている。ISSにはそのようなユニットが既に数十個取り付けられており、ロシアや中国からの宇宙船も同様のユニットを装備してドッキングしていた。
「こちらISS船長。
久しぶりだな。地上の様子はどうだ?」
『昨日、ニューヨークが大西洋からの巨大ツナミで水没した。ウオール街や国連本部は海の底だ。そして、アフリカと南米からの通信が途絶えた。電離層が異常な状況なのもあるがね。ところで、帰りはどこの基地になる?』
シャトルの機長がISS船長に答えた後に訊く。
「フロリダがベストだが、あそこも最近群発地震が増えている。ハワイの観測所によると、そろそろでかいのが来るそうだ。……地球上で安全な場所など無くなってしまったな」
『ああ。北半球はほとんど火山灰の厚い雲に覆われて気温が急激に低下している。南半球も時間の問題だろう。そうだ、オーストラリア内陸部はまだ安全そうだな
』
「あそこにはシャトル用の滑走路がないだろう?」
『生き残りの海兵隊がスコップ持って向かっているようだ』
「そうか。エアーズロックの観光でも楽しんで来てくれ。また会おう」
『ありがとう。ISSにも幸運を』
30分後、アメリカ宇宙軍所属のシャトルはケープカナベラル基地には戻らずに、オーストラリア大陸内陸部にある秘密基地に帰還した。
フロリダの基地が巨大地震と津波で潰滅したためである。
地球の苦難は始まったばかりだった。
――――――
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。m(__)m
【このお話の主な登場人物】
・大月 満 = 総合商社角紅社員。
・西野 ひかり= 総合商社角紅社員。
・春日 洋一= 20代前半。総合商社角紅若手社員。魚捌きは上手い。
・イワフネ=マルス人。月=マルス・アカデミー 観測ラボ『ルンナ』が彗星により損傷した時、基地管理システムによって自動的に地球に降ろされた。
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