一人酒

夢美瑠瑠

一人酒




掌編小説・『一人酒』



日本髪を結いあげた、それなりに洒落ている和装で、ちょうど「小股の切れ上がった」というような形容がぴったりはまる、小粋な熟女、しかしよく観察してみると非常な美女にも見えないことのない、そういう女が場末の酒場で一人で杯を傾けていた。女はもう人生の酸いも甘いも噛み分けていて、恋の遍歴も数限りなかった。心中しかけたこともあるし、苦労して開いた小料理屋が左前になって、債鬼に追われたこともある。商売の才覚も、男を誑す手管も、まあ一流という夜の街に暮らすにはうってつけの華のある女の人生だったが、悪い事に深酒が祟って肝臓を病んだ。もう今日限りでピッタリお酒をやめないと、命の保証をしかねる、そう今日かかりつけの医師に宣告されたところだった。女は愛酒家だった。酒は涙かため息か、という演歌も好きだった。喜びも悲しみも、いつも酒とともにあった。愛しい男と祝言をあげたときの酒。男が車に轢かれて、不帰の人となった時に涙と一緒に呑み込んだ酒。小料理店を開店した時の皆と乾杯した祝い酒。借金で首が回らなくなったときにもう死ぬつもりで末期の酒と念じて呷った酒。こうやってこの、少し苦いような、甘い毒のような、罪の匂いのする液体を苦労ばかりの人生の折々に、女はいつも唯一の慰めとしてまた明日を生きていくためのカンフル剤みたいにして、掛け替えのない忠実な友人として慕い、いわば琴瑟相和すかのごとくに呑んでは呑まれてきたのだ。酒に酔って、高揚して、薔薇色の酩酊に浸る時、人生には何の問題もないように思えた。それは錯覚だが、その儚い虹を追いかけて、人々はまた一杯の盃を傾ける。コップのビールを天からの贈り物みたいにおしいただいて喉を鳴らす。酒は裏切らない。誰にでも、いつでも慰安と快さと気分転換をくれる。しかしもう、女はその黄金にも代えがたい宝ともいえる酒と訣別せねばならない・・・

最後の一滴をぐっと呑みこんだ。狐の絵が描かれているお猪口も空になった。「お愛想」と言って、勘定を済ませて、女は暖簾をくぐった。哀切な親友との別れだった。夜の裏町の喧騒も、今日は妙によそよそしく思えた。もうこうやってお酒でやっとのことで人生と和解できるという日々のおなじみの習慣に逃避することもできないのだ。心は空っぽになっていた。女は少し蹌踉(よろ)けて、草履の鼻緒が切れた。しかしもうそのまま、びっこをひきながら歩いて行った。


<終>

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