極夜
いありきうらか
極夜
そういえばこんな時期か。
カーテンを開けるときの開放感に期待することもない。
外にはアスファルトと水滴がぶつかる音が響いている。
太陽が姿を消し、私の頭からも幸福感を奪っている心地がする。
もうこれ以上、お願いだから私から何も奪わないでほしい。
私は、右腕だけ挙げた状態で、うつ伏せで、顔を左側に向けて寝ている。
地球上の重力が何倍になったかのように、体はマットレスに沈み込んでいる。
視線の先には私と彼の写真がある。
写真の中の人は満面の笑みを浮かべ、世の中の幸せを独り占めしているようだった。
今の自分との差に、胸が苦しくなった。重力に逆らい、体を持ち上げた。
重い体を引きずり、なんとかキッチンにたどり着く。
蛇口を上に上げる。
気泡が混じった水がコップの中に入っていく。
一つ一つが億劫で邪魔だ。
コップに水を溜め、一杯をゆっくり飲み干す。
体内に冷たい何かが流れている心地がする。
コップをシンクに置く。
台所には皿が積まれたままになっている。
体は依然として枯れたままだ。
ベッドに戻る。
写真を見ないように、今度は逆側に顔を向けた。
左腕を畳んで顔の下に敷き、足はくの字に置く。
白い壁を見つめたまま、右手で反時計回りでお腹をさする。
水を飲んだ時のような、体内における確実な動きはそこには存在しない。
これまでに何百週もしたその動きを、ひたすら続ける。
右手の動きに合わせて、脳内で感情がぐるぐると加速して止まらなくなる。
頭を空っぽにしようとしても、感情が顔を見せる。
涙が出てくる前に体を起こす。
ぼさぼさになった髪に白い櫛を通す。
櫛が途中で引っかかる。
少し櫛を戻して、また下に動かす。
部屋を漠然と見つめながら、髪に櫛を通し続ける。
この間は、多少なりとも脳内を空にできる。
何かに没頭することでしか、依存することでしか、現実逃避はできなかった。
もうすぐ、正午になる。
どうせすぐ消すとわかっていてテレビの電源をつける。
テレビの登場人物が、現実世界での出来事を押し付けてくる。
テレビの中の人間は、淡々と、感情もなくニュースを読み上げていく。
ニュースを眺めていると次第に苦しくなっていく。
自動車の正面衝突、津波、殺人。暗いニュースばかり。
やめて。物騒な言葉ばかり見ていると、吐き気を催してくる。
また、台所へ向かう。
先ほどシンクに置いたコップを持ち、液体をまた口に放り込んだ。
正午を迎え、画面は明るい雰囲気のバラエティ番組に姿を変えていた。
テレビの中だけで成立している言葉のやりとりに、私は価値を見出せなかった。
耳障りな音を消すために、予想通り、リモコンを使ってテレビを消した。
また、ベッドに横たわる。
何も入っていないお腹を触る。
いつから洗濯をしてないだろう、洗い物をしていないだろう、お風呂に入っていないだろう。
でも、そんなことはどうでもいい。
今はわざわざそんなことをしなくてもいい。
かといって、他に何か優先すべきことがあるわけでもない。
また、感情が頭を駆け巡る。
言葉たちが意図せず、脳内を駆け回る。
誰も悪くない。
じゃあ私は何を憎めばいいのか。
運命?神様?どれも信じられない。
心が折れている。
取り戻すには、どうすればよいのか。
いい加減に忘れないと。
そんなことできるわけがない。
鬱屈とした感情はどこかに吐き出したい。
電車の中?燃えるごみ?ネットの掲示板?
幸せって何。
お母さん、なんでそんなことを言うの。
忘れられる訳がない。
どこに行くの、助けて。
どうして。
全部わたしのせいだ。
私の何が悪かったの?
どうしてこうなったの。
私が一体誰に迷惑をかけたの?
どうして選ばれたのが私だったの?
摩擦を無視して、思考はとめどなく回転し続けた。
何度も無駄だと、ブレーキをかけても、言うことをきかない。
私は自分のことばかり考えていた。
それが精一杯だった。
あなたのことが何も見えてなかった。
あなたは、精一杯家族の形を保とうとしてくれていた。
どうして平気な顔で会社に行けるの、いや、平気じゃなかった。
どうして笑っていられるの、いや、心の中ではたぶん泣いていた。
どうして私を支えてくれないの、いや、背中を何度も何度もさすってくれた。
あの日だって、涙が枯れるまで一緒に流してくれていた。
あなたはずっと私のそばにいてくれていたはずなのに。
寄り添っていてくれていたはずなのに。
手を差し伸べてくれていたはずなのに。
それを跳ね除けたのは、無視していたのは、私だった。
この世の全てを、悲しみや憎しみに繋げることしかできなかった。
崩れていく私を見て、あなたも悲しそうな目をしていた。
それくらいは私にもわかっていた。
私もどうにかしたかった。
でも頭も体も言うことは聞いてくれなかった。
そう、失ったのは私だけじゃない。あなたもだったのよね。
何百回もたどり着いた結論にまた帰ってきた。
取り返しのつかない現実を直視するには私は弱すぎる。
彼の笑顔を頭に浮かべてしまうと、枯れたと思っていた涙がまた流れてくる。
失うくらいなら、最初からいらなかった。
人を絶望させるために存在するのであれば、希望などいらない。
カーテンの隙間から光が漏れてくる。
雨が止んだ。
止まない雨はない、でも私の天気予報に晴れの予想はない。
延々と降り続ける雨に傘もささず、身動きが取れなくなっている。
そしてこの雨が、私を傷つけ続ける。
この憂鬱さが、悲しみが、全て消え去ればいいのに。
それが無理なら、私ごと世界から消えてなくなればいいのに。
これは期待じゃない、願いだ。
私はまたベッドの上で目を閉じた。
極夜 いありきうらか @iarikiuraka
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