みえてるよ

M

第1話

 煙草を深く吸い込んで、長く細くゆっくり煙を吐き出す。私の一日はここから始まる。

 目が覚めてベッドから起き上がり眼鏡をかけるよりもトイレに行くよりも顔を洗うよりも朝食の支度をするよりもまずベッドサイドに置いてある煙草に火を点けるのだ。睡眠により飛ばしていた意識を自身の身体に定着させるように、精神と身体を一体化させるように、欠かしてはいけない私の習慣。

 煙草を一本吸い終わったら胡座をかいて背筋を伸ばし目を閉じ自分は地球に貼り付いていることを意識する。どこにも飛んでいかないように、私はこの世にまだ生きているのだと言い聞かせる。その後軽くストレッチし、寝ている間に身体に憑いた浮遊霊たちを取り込んで浄化させていく。昨晩は左手を握られて金縛りにあった。まだ掌に残っている冷たい感覚と背中に刺されるような痛みを残し、仕事へ向かうべく支度を始める。

「綾ちゃん、この伝票今日までにお願いできるかしら」

 先輩社員に出勤してすぐ声を掛けられた。私の脳裏には一週間ほど前に部長からこの伝票を今週中にやっておいてほしいと頼まれていた先輩社員の映像が写真のようにパパパッと映し出される。余裕もってこっちにお願いしてこいよって言いたい気持ちをぐっと堪えて、わかりました、と返すけれど、やっぱり少しいらっとする。

 私には霊感がある。それもかなり強めの。声からその人の真実や経緯を覗いて見るくらいは日常的に無意識にやってしまうほどの。

 私の霊感は幽霊をはっきり目視できる類のものではない。幽霊はぼやっと、景色に違和感としてしか見ることができない。あの人の肩に黒いの憑いてるなとか、あの人ピカピカ光ってるから近くに寄ったら気持ちいいだろうなとかその程度。

 けれど声や音楽家たちの奏でる楽器から、その人たちの本心や過去が映像として写るのだ。

「あ、近藤さんおはよう」

 同期の美和さんが隣のデスクに座りながらパソコンを起動させた。あ、美和さん昨晩彼氏さんからプラポーズされたんだ。婚約指輪を渡されて驚く美和さん、そして二人で笑い合う姿が脳裏に映し出される。私は何食わぬ顔でおはようと返しつつ、

「美和さん、どうしたの、何か良いことあった?」

「えっ、別に何も無いよ、どうして?」

「なんとなく、今日の美和さん機嫌良さそうだなと思って」

 美和さんはふふふと含み笑いをし、小声で私に耳打ちしてきた。

「実はね、昨日彼からプロポーズされたの」

 私はわくわくしながら、おめでとう、と笑顔を向ける。

「すごーい」

「まだみんなには内緒ね。なんだかまだ実感無くて」

 美和さんは頬を赤らめつつ照れ笑いをした。

「でも近藤さんすごいね、そんなに私顔に出てる?」

 手鏡で顔を確認しながら前髪を直す彼女に、

「今日は一段といきいきしてるなと思って」

「どういうことよ」

「そういうことよ」

 私たちは互いに顔を見合わせて、くくく、と笑い合った。

 物心ついた頃にはすでに人の意識が自分に入ってくる感覚があった。当時は何故だかわからないけれど毎回この人を見ると頭が痛くなるとか、ある特定の人に対して執拗に懐いたりを繰り返していた。けれど小学生の頃だったか、同じクラスの子に朝会っておはようの言葉を交わしたとき、その子の家で飼っている猫が亡くなった映像と、その子の途方もない悲しみが私の中に流れ込んできて、自分でも訳がわからないくらいに大泣きしてしまったことがあった。何故泣いているのか周りに聞かれ、その子の猫が死んで悲しいことを伝えるとクラスが騒然となった。

 どうして遙ちゃんがそんなこと知ってるの。

 クラスの女の子たちは私の悲しみに同情はしてくれないどころか訝しむように集団で私を疎外した。私はみんなも自分と同じように他人の感情が共有できているものだと思っていたのに、それが私特有のものであることを思い知らされた。

 私はそれからしばらくの間学校に行けなくなった。両親の心配する声から感じられる戸惑いや病院へ連れて行った方がいいのかと相談していることに恐怖を覚えた。人の声を聞くことが苦痛だった。他人の感情を自分に入れることに怯えた。

 ただ、私のその閉じこもった行動は私の能力を更に強くしていった。それまでは人の声からしか何も感じなかったのに、母が歩く足音や、父の帰宅したときに開閉する扉の音からも、彼らの意識を捉えてしまうようになった。

 唯一私に理解を示してくれたのは、父の姉、私の叔母にあたる人だった。当時を振り返りながら母が言っていた。ある日突然叔母がうちに訪ねてきて、遙ちゃんと会わせてほしい、と理由も言わずに懇願したそうだ。お願い、遙ちゃんに会わせて。あの子に会わないといけないの。

 私たちは千葉に、叔母は神戸に住んでいて、一人で新幹線を乗り継いで駆けつけてくれたのだ。

 叔母を初めて見た瞬間のことを、今でもはっきり覚えている。顔を見た瞬間に、既視感があり、彼女が私を呼ぶ声からは一切何も感じられなかった。それはまるで宇宙人に初めて遭遇したような驚きと、私はこの人とどこかで会ったことがあるという仲間意識が混濁した奇妙な出来事だった。

 父の家系の先祖は巫女だということ。代々その血筋が女性に受け継がれていくということ、最近ではその力も弱まり自分の娘にはその兆候が無いこと、そしてそれが私に色濃く現れたこと。叔母の口から聞かされる話に私は真剣に耳を傾けた。

「まさか、遙ちゃんがこんなにも強い力を持ってるなんて。私がもうちょっと早く気付いていればよかったんだけど、私もそんなに力が強くなくてね」

 叔母が私の頬に触れた。全身が温かく、まるでぬるま湯に浸かっているかのような感覚に陥り、涙が止まらなかった。

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