蛇足 ‐コロロピ〈対話〉‐
――半年後
「それは一般に、天使と悪魔と呼ばれるものだよ」
ころころとした少年のような声の主に、対話の相手は深く頷いた。
「異世界にも同じような概念があったんだな。通りで彼女たちが俺に天使が何なのかって聞いてこないと思ったんだ」
「当然の話だったわけだね。天機導師ゲルンヒルトと極魔業獣アヴィエナス。対立する二つの神格。そしてその配下たる天使乙女カーレンと悪鬼魔獣アヴィエラ。人間の善性と邪悪性を象徴するキミの言う天使と悪魔は、こちらではそう呼ばれているよ」
「その話は初耳だったな。俺の世界では天使は羽の生えた人間で、悪魔は角や尻尾の生えた獣のような姿で表現されることが多いが、こっちでも似たような形で伝えられているんだな」
「ある意味でどこの世界でも普遍的な発想だろうね。人間は二面性を持っている。人間の中には天使と悪魔が同居している。そう言い換えてもいい。天使と悪魔はこちらの人間にも普く信じられている存在だが、しかしキミにとっての天使と悪魔とは、ある種それらを越えた存在なんだろう?」
「ああ、俺は天使と悪魔が、何よりも恐ろしかった。特に悪魔はいつだって俺を甘い囁きで誘ってくる。いかに悪魔の囁きを撥ね除けるかが俺の平穏には肝要だった」
「わかるとも。ふとした瞬間に悪魔が悪さをして、取り返しがつかない展開になってしまうことだってある。天使を追いやって起こした行動の結末は、いつだって悪い方向で自分に返ってくるものさ」
相手は喉の奥で声を出すように静かに笑う。
「つい楽しさに負けて校則で禁止されているマンガやゲームを教室に持っていってしまったり、つい遊びほうけて家の門限を破り暗くなってから帰ってしまったり」
「怒りの激情に駆られてつい相手を殴ってしまったり、とかね」
冗談めいた追随の声に、相手は肩を竦めたようだった。
「結局はしっぺ返しを喰らって、没収や停学などのペナルティで自分が思っていた以上の手痛い損失を被ってしまうわけだ」
「意外だねぇ。今ではあの騎士団すら返り討ちにしてしまえるほどのキミが、ほんの少し前まではそんな小さく可愛いことに怯えていたなんてね」
「怖かったさ。場所が変われば倫理も当然変わる。住み慣れている場所でさえ悪魔に傾いてしまうことが度々起こるんだ。全く倫理観の異なる場所に来てしまったとき、そんな悪魔の囁きから自分を守るにはどうすればいいだろうかと、そんなことばっかり考えていた。例えば、他国に行ったときは」
「他国と聞けばボクはボクの故郷に近い隣国のアランガルを思い起こすけれど、確かに文化はこことは大きく異なっているね」
「自分では常識だと思っていたことが、その国では他人に対する侮辱だったりして思わぬ反感を買ってしまうこともある。自分が知らないルールを、自分が知らないうちに破ってしまう。そんなルールは知らないと弁解しても、既にしてしまったことは消し去ることはできない。それがただ人を小馬鹿にする程度の意味合いだったとしても、逆上されて殺されてしまうなんてことは、現実に起こっていたんだ」
「だから見知らぬ土地ではいつもよりも細心の注意を払って天使の声を聞く必要があるというわけだね」
相手は頷いてから、また切り出した。
「では、他国よりも遙かに自分の常識が通用しない場所では? 文化どころか、そこに働いている物理法則すら自分が知っているものと異なっている場所では、どんな行動が理想的か」
「ふぅむ。果たしてそんな場所があるのだろうか。そんな場所は体験したことのないボクには想像すらつかないよ」
「そう、例えば、異世界に転移してしまったときは」
「また突飛な発想だね」
くすくす笑う声には馬鹿にした印象よりも、納得したというようなニュアンスが多く含まれていた。
「人間集団の中で安全に生き延びるために最も重要なことは、そこに共通認識として横たわっている倫理や道徳を知り守ることだ。自分が元いた世界よりも文明が遅れているからといって、傍若無人な行動は許されない」
「心外だなあ。そんなに遅れているように見えるかい?」
声の主はからかう色を含ませていたが、相手は「悪かった」とでも言うように両の掌を声に向けた。
「あのときはそう見えていた。俺の世界の発達した知識で、この世界の無防備な人々を俺はどうにでもできるんじゃないかって傲慢な考えが浮かんでいなかったと言えば嘘になる。まあ結局は天使のおかげでそんなことができるはずもなかったんだが」
「キミがそうして理性を保って婦女子を襲うような行動を起こさなくてよかったよ。特に彼女たちのような麗しい女性たちをね。いや、この場合はキミの身の安全が、という意味でだけれども」
「全くだ。彼女たちの力に人間は抗えない。騎士団は副団長の離反のせいで多少の弱体化をしていたとはいえ、それでも脅威には変わりない」
「心から同意するよ。……話が脱線してしまったね。天使と悪魔に戻ろうじゃないか」
「簡単な話だ。だから俺はこの異世界においても常に悪魔の囁きを撥ね除け、天使の声だけを聞き入れて振る舞う必要があった」
「ふぅむ。まあ、そこには別段特に反論すべきことはないね」
「いや、それだけでは物足りない。自分は天使の声だけに耳を傾ける側の人間だと、周囲に印象づけなければいけない」
「おやおや。慎重を越えてどこか強迫観念すら感じるようになってきたね」
わざとらしく戯ける声に、相手は自虐的に短く笑う。
「特にそこが自分の倫理が通用しない異世界であるなら、命の価値観すら異なっていることだってあるかもしれない。俺の安易な行動で、命に関わる出来事に発展することだけは避けなければいけなかった」
「なるほど。ともすれば些細なことで危険人物扱いされ投獄、最悪処刑、なんてこともあり得ないとは言い切れないからね」
「一番怖いのは、知らない世界で知らないルールを知らないうちに破ることだ。そのせいで自分の身に危険が及んだらそれほどつまらないことはない」
「それがキミがあのとき持っていた恐れの正体だったのだね。合点がいったよ」
声は腑に落ちたというように自らの顎を撫ではじめた。
「この異世界であんたに会えたのは俺にとっても幸運だったよ。命すら救われたからな。あの頃の俺は――」
対話の相手はそこで一呼吸置いて、また静かに語り出した。
「〈正しいこと〉を盲信しすぎていた。愚かだった。悪魔を恐れること自体が、天使の恐ろしさに根付いたものだったのに」
「それが天使の効用というものだったんだろう? キミに責任はないさ」
「どうかな。俺は自らを強く律し、無害であり善良であることを全力でアピールしようとした。それこそが異世界で安心安全に暮らしていく極意だと信じていたからだ。だがまあ、結局のところ、上手くいっていたとは言えないな」
「キミがこの異世界と呼ぶ地に立ち、己の状況をスムーズに理解した上で出した不動の行動原理。天使と悪魔から自分を守るための。ふふっ、まるで世界全てを敵に回すような態度じゃないか」
「ああ。俺には何でもかんでも全てが危険を孕んでいるように見えていたよ。そう、例えば、あんたと出会ったときも――」
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