異世界悪魔は魂を、人工天使は脳みそを支配する。 ~異世界で少女に憑依されて戦わせられる少年の物語~
樺鯖芝ノスケ
間劇 ‐天使の随に‐
「はぁ、はぁ、はぁっ……! あっ、うわあッ!」
脇目も降らず走って角を曲がったら、自販機横のゴミ箱に膝がぶつかって倒れてしまった。投入口から無理やり詰め込まれていた空き缶やペットボトルが、枷を外された猛犬のように道路に散らばって派手な音を立てる。
空き缶に吠え立てられるのに呼応するかのように、これまでずっと感じていた鐘を鳴らすような頭痛が、さらに深さを増していった。
「あぐ……いだいぃ、なんで、たったこれだけのことで、こんな……!」
アキラ本人にもその激痛の理由と原因はわかりきっている。アキラという平凡だったはずの一人の高校生が、ゴミを道路にぶちまけたからだ。
「なんでこんなとこにあんだよ。僕じゃない。僕が悪いわけじゃない!」
悪態をつきながら、派手な音を立てて転がる空き缶を耳の後ろに置き去りにし、足は止めなかった。逃げることを優先した。だがそのせいで、一層突き刺さるような頭痛が断続的に襲ってきた。
「痛い、痛いよ、ちくしょうっ。なんで、僕がこんな目にっ!」
アキラは走りながら頭だけで振り返る。
ゴミの行く末が気になったわけではない。今まさにそこを通り過ぎようとしている、無音の追跡者との距離を測るためだ。
(もう数百メートルは走り回ってるのに、他の人には向かわず僕だけを追ってきてる……)
灯りもまばらな夜の住宅街。すれ違うのは帰宅途中のサラリーマンばかりだが、彼らが奇異の目を向けるのは、追跡者ではなく叫びながら走り去るアキラにばかりだった。
(僕にしか見えてない。じゃあ、あれはやっぱり、天使の……)
いまだ尾を引く頭痛の波間に、アキラは片手で頭をおさえながらそんな推測を立てた。
自分だけが視認できる追跡者。
誰もいない暗い公園でばったり出くわしたアレは、アキラから離れず、かといって近づきすぎもせず、ひたすら背後についてまわってくる。
逃走劇が始まってからおよそ十分間、二者の距離はほとんど変わっていない。
足を止めれば向こうも止まるだろうか?
それを試すだけの勇気が湧かない。手足は恐怖に支配され、自分が考えるよりも先にその場の座標を変えようとする。
あれに捕まれば終わりだ。もう二度とここにはいられなくなる。その直感だけは揺るがなかった。
死ぬことが怖いわけじゃない。自分の意思が無視されることが怖いのだ。
自分の意思が無視されて、自分が制御できない状況に巻き込まれるのが怖いのだ。
何が悪かったというのだろう。何が原因だったのかすら、もうわからなくなってきている。
自分はただ、天使から逃げるために自殺を試みたり、電子レンジに頭を突っ込んだだけではないか。
それだけなのに、なぜあんなものと遭遇しなければいけないのか。
理不尽がアキラを苛み冷静な判断を奪っていく。
人から後ろ指を指されるようなことをした覚えはない。
むしろ逆だ。アキラは教師から絶賛されるくらい、規律を重んじて生きてきた。
正しさを愛していたはずだ。悪しきを嫌悪していたはずだ。
報われるどころかその結末がこれだなんて、あんまりじゃないか。
「なんでだよっ! 僕は嫌だっただけなのに、なんでこうなるんだよ!」
誰に向けているのかもわからない悪態も、ただつむじ風のように家々の間を通り過ぎてゆくだけ。
身体に働く慣性を緩めず、壁にぶつかって、角にぶつかって、ゴミ箱をぶちまけても、走る速さだけは落とさなかった。
思考の伴わない我武者羅な逃走は、後先を顧みず目についた路地にアキラを運ぶ。
やがて辿り着いたのは、三方を集合住宅の壁に阻まれた袋小路。
唯一の出口は、全身が黒い靄に覆われたような追跡者が塞いでしまっていた。
「来るな、来るなよっ。僕が何をしたって言うんだよ! 誰か、助けてっ!」
見上げても目に入るのは自らの寿命を伝えるように繰り返し明滅する電灯のみ。
自分を囲む古い集合住宅には、異変を察して窓から覗いてくれる住人も偶然巡回してくれるような警官も、どこにもいない。アキラと追跡者だけが、今この場にいる全てだった。
じわじわと迫ってくる追跡者に、アキラも後ずさり最後の抵抗を示すが、今になって痛みを覚えだした疾走による足への疲労が、ついにアキラに尻餅をつかせ倒れさせた。
「もういやだっ! こんな天使はいらない。僕には必要ない! だから、来るなああぁっ!」
この一日で起きたいくつもの衝撃的な事実がアキラを混乱に陥れ、交雑された感情がそんな拒絶を叫ばせる。
しかしわずかに残っていた冷静な部分で、アキラも理解はしていた。
逃げる場所はない。逃げようがない。ということを。
だって、自分の意識から、頭から、身体から、魂から、
どうやって逃げようというのか。
視界を覆うほどに迫った追跡者はその黒い腕をアキラに伸ばし――
「それでも僕は、僕には――天使なんかいらないんだ」
――そんな呟きを残したアキラを、真闇の中に連れ去った。
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