最終話
「あのさ、なんで歌が全部ハミングなの?」
「フォルクローレってスペイン語だろ。俺達スペイン語しゃべれないし」
「なんで練習しないの?」
「マスターするのに何年かかるんだ? 留年しちゃうぜ」
「すれば」
「るせー、お前がしろ」
成吉君と有泉は、当然ながら対立していた。
成吉君一人でも大変だったのに、そこに有泉が加わって、大人しい僕と幸二はなす術がないのだった。僕にも酒井君みたいなスマートさがあればいいのだが。
主は幸二がお気に入りのようで、幸二が来ると「にゃあお」と部室に入ってきて、彼の膝に飛び乗っている。幸二は黒猫が大嫌いだった。彼曰く、猫に変えられた人間に見えるらしい。一度床に放り出そうとしたら、「先輩に何してんのよ!」と、有泉にえらい剣幕で怒られた。それ以来、彼は泣きそうになりながら主のお守りをしている。主、ひょっとして性格悪いのか。
事件のせいでうやむやになってしまったが、結局「ケンちゃん」とやらが誰なのかはわからず仕舞いだ。彼女はあれから何事もなかったかのように振舞っている。僕が彼女を裏切っていたことについても、何も言ってこなかったし、態度にも出ていない。が、果たして本心ではどう思っているのか。
「なんでいつもハーブティー飲んでるの? それって、やっぱ何かの儀式なのかな」
そう尋ねる幸二に、有泉は、
「儀式とか魔術とか生け贄とか、君たちそういう単語好きだよね」
と答える。胸元には青い石のペンダントがぶら下がっている。それはもちろん、僕が直したものだ。
「気、気のせいじゃない? ははは……」
有泉がどう頑張っても魔術や妖術など使えないことは、わかりきっているのだが、それでも僕らは時折、無意識のうちにこんな過ちを犯してしまうのだった。
無意識のうちに、か。無意識のうちにハーブを口にしている有泉。僕はそのことに漠然とした不安を覚える。彼のことを忘れないようにとか、彼がくれたものだからとかいうことで、彼のことを忘れないために、意識的にやっているのならいい。それだったら、いつか飽きる。しかし、彼女はそのことに気づいてすらいないのだ。彼に対する思慕は彼女の中ではもはや当然のことで、何の疑いもない。つまり、彼女は自分の気持ちを考えるまでもなく、どっぷりとそのケンちゃんとやらに囚われているのである。由々しき事態である。
そうして、ばたばたしているうちに例の映画は公開が終了してしまった。次回見る機会があるとしたら何年先かはわからないが、そのとき有泉は誰と観る約束をするのだろう? そうして、次回こそ無事観ることが叶うのだろうか?
陽子は、僕が成吉君たちとつるんでいるのを見て、何故か安心したようだった。いつの間にか、よりが戻ってしまった。もう有泉のことは何も言わなかった。少しの間離れていたせいか、彼女との時間はまた新鮮さを取り戻したが、有泉のことも気になるのは確かだった。最近二人きりになることは減ったので、前ほど話す機会もないのだけれども……。ああ、どうしたものやら。
「幸三君、最近顔色いいね」と酒井君。
「ああ、それはね、プラシーボ効果っていうんだよ」
「は?」
そこで僕は、酒井君にわけを話した。
「そうかなあ、それってハーブティーのせいじゃないと思うな」
「じゃあ、なんなんだろう?」
「幸三ちゃんって、有泉ちゃんのこと好きでしょ?」酒井君は意地悪く囁く。「あ、ますます顔色がよくなった」
そんなわけない、僕には陽子がいるのだ。どうして、あんな、あんな……。
部室につくと、リーダーが数的処理の問題集に取り組んでいた。真面目に考え込む彼は、奇怪な空気を放っていた。
「ねえ成吉君、有泉ちゃんって、けっこう可愛いと思わねえ? ミミズとお話してるところなんかは珠に傷だけど」
「そんなことしてるのか? あいつは。困った女だな。そんなんじゃ嫁の貰い手いないだろうな。仕方ない、こうなったら……」
このいかれた奴らのふざけたサークルは、これからどうなってしまうのだろう。何も起きないわけがない。どうしよう、またイヤッサーとでも叫べば何かが変わるのか? でももうあんなの嫌だ…。
そんなわけで、僕らの物語はまだ始まったばかりだ。書かなければいけないことは山ほどあるのだが。
しかしながら、あの猛練習のおかげで、そろそろ学生の本分である勉強しないと留年する危険性が出てきた。申し訳ないのだが、とりあえずこの辺で一度幕を下ろすとして、詳細はいずれまた第二部に綴りたいと思う。
「俺ダンゴムシ大嫌いなんだよう。No2、外に出してくれ!」
部室の中からは、今日もやたらと元気のいいリーダーの声が響いてくるのだった。
(完了)
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