第8話
あれは、ある晴れた午後のことだった。
あの頃の君は、ようやく僕に心を開きかけてくれたところだった。少なくとも、僕はそう考えていた。それとも鋭い君のことだから、やがて二人は別れなければいけないことを予感していたのだろうか。たしかに、後から見れば、ああなってしまうことは時間の問題だった。
僕はなんて愚かだったんだろう。なんだかんだ言いながらも、ずっと平和な日々が続くのではないかと、心のどこかで高を括っていたのだから。
あれは午後も三時を過ぎた頃、暑い盛りだった。あまりに野生の植物が元気なため、腹を決めた君とともに除草作業をしていたときだった。
「それにしても、すげーよな、有泉さんにハーブをくれた人って。よくこんな色んな種類のを持ってたよな。僕、たまに園芸センター行くんだけど、ハーブのコーナー見ても、せいぜい五、六種類しかないよ。その人、よほどのコレクターで、さぞかし金持ちだったんだろうね」
ハーブの値段の相場など全く知らない僕なので、極めて適当な発言だった。「今日は晴れてて暑いね」という程度のどうでもいい会話のつもりだった。しかし、彼女は驚きおびえたような態度を取った。「何でわかるの?」と目で訴えながらも、あくまでも平静を装おうとしている。
「まあ、金持ち、だったわよ」
「今でも交流あるわけ? その金持ちと」
「ないよ、それに、多分今は金持ちじゃないし。夜逃げしたくらいだから」
僕は何を言われたのか一瞬よく飲み込めないでいた。
「高校のとき、園芸同好会を作ったって言ったよね? でも私はお小遣いが少なくて苗や種もろくに買えなかったから、同級生が、家にある苗を持ってきてくれたの」
彼女は平静を装いながら、黙々と手を動かしながら話を続ける。さすがに僕の顔を見て話すのは、気がひけるのだろうか。
「ある日突然学校にこなくなって、そのうち夜逃げしたってうわさが立った」
僕は答えることができなかった。夜逃げって、今の時代にもあるんだなあなんてぼんやりと思っていた。
「お父様の事業が失敗したとかなんとかで。でも、ちょっとびっくりした。だって、その前日も、草むしり手伝ってくれてたのよ。またねって言って別れたのに」
彼女は淡々と話し続ける。
「気の合う人がいないから一人でいる、なんて言ってたけど、実のところ、あんまり仲良くなって、裏切られたりするのが嫌なのかもね」
「裏切られたの?」
「だって、手紙一枚くれないし」
ぞっとした。もしかしてそいつ、もうこの世にいないんじゃないか……?
「きっとそれは……」だめだ、「もうこの世にいないんだよ」なんて、とても言えない。
「それは?」
「貧しくて切手が買えないんだよ、切手だけじゃない、封筒も、便箋も、鉛筆も、消しゴムすら買えないんだ。電話代の十円すら払えないに違いない」
有泉はきょとんとした顔で僕を見た。
「平林君って、真面目な顔して冗談言うよね、いつも」
「へ?」
「変なの」
有泉のに笑顔が戻ったので、ちょっとほっとする。
「裏切ったんじゃないよ、きっとそいつは、連絡したら君に迷惑がかかると思ったんだ。君が借金取りに責められるといけないから、連絡できなかったんだよ」
「はいはい」
「本当だよ、有泉さん。なぜなら僕がその男なんだ、整形したけど」
「はいはい」
有泉は興味なさそうな顔をしていたが、どこか悲しそうだった。
低木の茂みから、主も心配そうに彼女を見守っていた。
主の視線が僕に向けられる。
――おまえ、部長を悲しませたら承知しないぞ。
――主……。
そのとき僕は決めたのだ。僕だけは、もう何があっても有泉を裏切ったりしないって。
リーダーとも、陽子とも、あれ以来連絡は取っていない。このまま待てば、やがて自然消滅、いい思い出で終ることだろう。未練がないと言えばうそになるけれど。彼らだけが悪いわけではないけれど、僕だけが悪いわけでもない。
彼らと別れて、やっとわかったことがあった。僕は有泉さんと会えなくなるのが嫌だった。ハーブクッキーが食べられなくなることや、主に嫌われることだけを心配していたわけでははない。雨の中、夢中で彼女の背中を追いかけたあの日から、僕は有泉という人のことを信じてみようと思い始めていたのだ。
部室に入り、冷たいレモンバームティーで喉を潤す。日陰に入ったせいか、体がほっと休まった。
頃合を見計らって、話を切り出す。
「有泉さん、あの」
「何?」
僕は鞄の中をまさぐって、一枚の紙切れを取り出した。
「これ……あれ?」
「ああ、入部届けね。はいはい」
それは、けっこう前に渡されていた入部届けだった。書いてはみたものの、ずっと出しそびれていたのだ。違うものを出すつもりだったのだが、まあいいか。これもどうせ出すつもりだったことだし。
タイミングを逃してしまい少し怖気づいたが、気を取り直すと、再び鞄から一枚の紙切れを取り出した。
「有泉さん、これ。今度一緒に行かない?」
今度こそ、ちゃんとした映画の券だ。
「友達に、行けなくなったからあげるって言われて」
「何の映画?」
彼女は券を見た。
「その友達、いい趣味してるじゃない」
彼女は乗り気だった。当然だ、この映画の原作を愛読しているのなんて、チェック済みなのだ。もちろん、もらい物などではなかった。僕の友人は生憎みんなけちなので、人にくれるくらいだったら、まず金券ショップに売るはずだ。
「これ、数年前に一度流行ったやつだよね」
「うん」
「そのときも観にいこうとしてたんだけど、相手が急に行けなくなっちゃったの。だから私も観てなくて、一度観たいと思ってたんだよね」
「そうか」
誰と観にいく予定だったんだろう。マイペースの有泉が、相手が行けなくなったからといって、自分も行かなかっただなんて不思議だ。
「それと、有泉さん、これ直しておいたから」
僕は数日前に預かったトルコ石のペンダントを取り出した。
「ありがとう!」
有泉は、普段冷静な彼女に珍しく、ちょっと浮かれ過ぎていた。このときの彼女は、彼女の普段の言葉を借りれば、そう、調子に乗りすぎていたのかもしれない。
「ケンちゃんこういうの得意だもんね」
言わなくてもいい一言を言ったのである。とたんに彼女ははっとして表情を変えた。
もし単なるいい間違いだったら、表情を変える必要なんてない。「ああ、間違えちゃった」などと取り繕っておけば済むことである。しかし、この動揺ぶりは何だ?
ひょっとして、ひょっとして君は、僕のことを誰かの代わりとしてみていたということか? 例えば、ハーブや青い石を君にくれたという知人の……。
「有泉さん」
僕はその後に何か続けようとしたのだったが、何を言うべきか忘れてしまった。言葉が出てこない。
しかし、気難しいはずの彼女が、会ったばかりの僕をなんなく受け入れた理由が、その時やっとわかった気がした。彼女は、僕にそのケンちゃんとやらを重ねて見ていたに違いない。
君は、そんなやつだったのか? 君はもっと、正直な奴だと思っていたのに。無愛想な分、無理にお世辞なんて言わない分、常に本音で人に接する人だと思っていたのに。見損なったよ!
僕は青い石をそっとひっこめた。「ケンちゃんって誰?」その問いを口にしようと思った、丁度そのときだった。
何の前触れもなしに、部室のドアが開いた。
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