始まる前に失くした気持ち、帰還

 


「えっと、どこか行くの?」


「はい、飲み物を買いに行こうかと」


 どうやら夕弦は自販機に向かう為部屋を出たようだ。 そして、その理由を赤らんだ頬が語っている。


( ああ、お風呂上がりだからか。 ―――って俺、偶々湯上りに遭遇しちゃったんだ……! )


 丁度考えていた湯上りの夕弦を見た新は、少し気恥しそうに視線を逸らした。 するとその先には―――


「ん?」


 帽子を深く被った清掃員が目に留まった。

 その人物は清掃道具らしき物を持ち、新達の方へ歩いて来ている。


「………あ、れは――――ゆ、夕弦さんっ! 中に入って!」


「えっ、えっ!?」


 慌てた様子で夕弦を部屋に押し込み、ドアを閉めると急いで鍵をかける新。



( や、奴だ……まさか、こんな所にまで…… )



 背中を気にする表情は、まるで窮地に追い込まれた逃亡者のように汗を滲ませている。


「あ、新さん……?」

「しっ……!」


 声を出してはいけない、そうジェスチャーする新に困惑する夕弦。



( ……どうする? 多分夕弦さんは沙也香さんが来ている事を知らない。 言った方が……? いや、言えば気にしちゃうだろうし、それでなくても他の生徒より楽しみが少ない修学旅行が…… )



 沙也香もお忍びで来ているのだろうが、今部屋を出れば夕弦に存在を知れてしまう。



( ダメだ、今は出す訳にはいかない! )



「……どうしたんですか?」


「ああ、えっと、ちょっと奥でお話したい……な」


 小声で話し掛けてくる夕弦に、とりあえず玄関から離れる為理由をつける。


「はい、わかりました」


 快く応じてもらい中に入り、上手く玄関から遠ざけるのに成功した新は溜息を吐く。



「一人部屋で椅子が一つしかありませんので、ベッドでよろしいですか?」


「い、いやそれは……」


 今日夕弦が眠るベッドに腰掛けるのを気にしてか、新は座るのを躊躇している。 だが夕弦は、


「立ち話もなんですし、私は気にしませんから」


「は、はぁ」


 にこやかに促されて二人、ベッドに腰を下ろした。 当然隣からは湯上りの美少年ではなく、稀に見る美少女のそれが鼻腔から脳を溶かしてくる。



「お話というのは?」


「う、うん。 話は、ね……」


 玄関から離れる為とも言えず、その内容を探す新。



( 話か、どうしよ。 うーん……―――あっ、そうだ…… )



「修学旅行なのに、一人でお風呂入って一人で寝るの、可哀想だと思って……」


 探し当てた内容は話というよりも、新が思っていた事だった。


 それを聞いた夕弦は微かに微笑み、


「自分の都合でしている事ですから、寧ろ学校側には無理をきいてもらっているので」


「そう、だけど……」


 理解はしているが、胸に受け止め難い。

 そう顔に表れている新を、夕弦は愛しそうに覗き込んできた。


「そんな顔をしないでください。 私は、楽しんでますよ?」


「……うん。 でも、気になっちゃって」



「優しいひと……。 でも、私のことで気に病まれるのは、私も望みません」


 柔らかい口調で言い聞かせる夕弦も、覇気の無い新に少し表情を曇らせる。



( 優しい……から、なのかな。 なんか、違うような…… )



「今も、とても楽しいです。 だから、新さんも楽しんでほしい」


「………」


 夕弦がこの旅行を他の生徒と同じように楽しめないのではないか。 そして今は沙也香の事もある。 確かに気を揉んではいた。


 だが―――



「俺も……楽しいよ」



 新もまた、今に胸が高鳴っていた。

 二人で居る今に。



 それを聞いた夕弦が微笑むと、新の中で気付いていなかった気持ちが、段々と形を成してくる。



( 気になる……そうだ、俺は夕弦さんが気になる )



「……なんでだろう」


「はい?」



( 夕弦さんなんて、俺とじゃ現実味の無い相手なのに……。 恋愛っていう現実からいつの間にか離れていた俺が、現実味の無い程かけ離れた存在のこのヒトに…… )



「……戻された?」



 一人呟く新に首を傾げる夕弦。



( こんなにキレイなのに、平凡で、平穏な未来を望むこのヒトのことを、思えば……――――会ってない時も考えてた。 それは…… )



「……好き、だから……?」



 声に出した呟きは、自らへの問い掛け。


 しかしそれは、当然傍に居る夕弦に伝わる。 彼女は切れ長な瞳を広げ、自然と口元が微かに開く。



 新は茫然としていた目を夕弦に向け、記憶を取り戻したような、不安定な表情で―――




「俺……夕弦さんが――――好きなんだ……」


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