The Guardian
神之億錄
0.プロローグ
クルール国領の西方に位置する霊峰フラーム、その山を境に国境がひかれる。
つまり、山の頂を越えてさらに西へと下ってしまえば、そこは既に自国の影響が及ばない地である。
山頂に建てられた星見の塔。その展望台にて齢八十を超えた老人が独り。
——今宵の月はなんとも美しい。
老人は思う。おそらくは、この月に見惚れることができるのも、これが最後の刻となるだろう、と。
だが、不思議と老人の心中はとても穏やかなものであった。
ほどなくして、下層から階段をあがってくる足音のみが反響しはじめる。
ゆっくり、ゆっくりと……足音の主たちは、その老人のいる場所まで近づいてくる。
老人は、それらがこの場へ登ってに来るのを静かに待っていた。
「……ずいぶんと探しましたよ」
その場に現れたのは、老人がよく見知った顔ぶれ。男と女の騎士は、それぞれが王直属。この国にて知らない者はいない紛れもない強者である。
老人の姿を視認すると、女騎士が先に口をひらいた。
老人は自らに向けて発せられた言葉に応えず、黙って月を眺めていた。
女騎士も老人からの返答がないのを意に介さず、話を続ける。
「我々がここにいる理由は、言わずとも分かっていますね?
いまだに信じられません。剣聖とまで呼び讃えられた貴方ともあろう御方が、あのような恐ろしい事を……」
「…………」
今なお、言葉ひとつなく、微動だにせず、老人はじっと月を見上げていた。
まるで、女の騎士の声など聞こえてはいないかのように。
「我らが王より、貴方を討伐する命を受けています。ですが、貴方には先に問わねばならない。……身代わりが死んだとは言え、なぜ、王の暗殺を企てたのです?」
「…………」
「なぜ、伯爵家の者を皆殺しに?」
「…………」
「唯一、遺体がない子がいますね。何故、その子だけを連れ去ったのですか?」
「…………」
老人は、女騎士の問いに何一つとして答えない。背を向けたまま、口を開かず、微動だにせず。しかし——
「その子は今どこに?」
その問いかけに、今まで月を見上げていただけであった老人は口を開いた。
「それを知って、どうするというのだ?」
「もちろん我々が保護します。それも、我らが王より命じられておりますので」
当然のように言い張る女騎士。だが、老人はそれを鼻で笑い二人へと体を向けた。
そんな老人の態度に、女の後ろに立っていた男が舌打ち混じりに前へでた。
「おい、じじい! 何がおかしい?」
「知れたことだ。お前達は我が目を疑う事を覚えるべきだ。もはや、あれは既に王などではない」
「なんだとッ!」
「落ち着け、ソリッド」
吐き捨てるように言い放った老人に、ソリッドと呼ばれた男騎士が憤慨するが、それを女騎士が手で制した。
女騎士は、目の前の老人を静かに見据えた。
両の腰に差した双剣。老体にもかかわらず、それを感じさせないほどの存在感。
月明かりに照らされた真紅の瞳は、陽の光を閉じ込めた宝石のように輝きを放っていた。
その真紅の双眸が、二人を静かに見据えている。
「理解に苦しむ発言ですね。そのように老いるまで、王の剣として仕えてきた貴方の言葉とは。
最後の機会にしましょう。……子供はどこに?」
「……」
「……残念です」
最後、と付け加えられたその問いの返答は、老人の沈黙をもって示される。同時に、身を突き刺すような冷ややかな殺意が女騎士から放たれた。
「話は終わりです。罪人よ、王命によりその命を頂きます」
女は流れるように剣を抜き放つ。
剣と共に解き放たれた力の影響を受け、周囲の空気が瞬時に凍てついた。
「無駄な時間だったな、ミストラル。初めからこうしてれば余計な時間を食わずにすんだってのによ!
さぁ、じじいッ! 覚悟しな! 俺様がその首切り落としてやるよ!」
男の騎士も、待ちわびたと言わんばかりに剣を抜き放つ。隠すつもりなどない剥き出しの殺意が、荒々しく周囲の空気を震わせた。
「今宵はなんとも喧しい……。気を抜くなよ! 老体とてお前達の命を斬り裂くことは容易いことだ」
冷笑を浮かべた老人が、両の腰から抜き放った双剣の刃が赫く夜を照らしだす。
——それと同時に、口火を切ったのはソリッドだった。一瞬で間合いに踏込んでの一閃。
老人は片手に持った剣でそれを受けるや、流れるように相手の剣を払い除ける。そして、もう一方の剣で鋭い刺突を放った。
「——ッ!」
瞬時に後方へ退き、男騎士は、老人の間合いから抜け出し刺突を回避した。
「ッぶねー! ジジイのクセしてよく動くじゃねーか! ————らッ!」
老人の間合いより外側。男が床に向かって剣を叩きつけた。
——途端、老人の足場一帯が一瞬で崩れ去ったるが、老人はすぐさま飛び退り近くの足場へと着地。
そこへ間髪入れず、女騎士が斬り込む。が、老人は瞬時にそれに対処した。
——音を置き去りにした高速の剣撃攻防。女騎士の斬撃が一撃毎に早く重くなってゆく中、老人は的確にそれを打ち落としてゆく。
「しッ!」
五十合もの斬撃を打ち合った直後、老人の心臓目がけて放たれる鋭い刺突。
しかし、彼女が放ったその一撃は、老人の突き出した剣先一点にて、その動きを止められる。
「————ッ!」
同時に振り返りもせず、老人のもう一方の剣が背後へ向けて鋭く突き放たれた。
「——ぅッ!」
放たれた一撃は、背後から斬りかかる男の肩を容赦なく貫いた。
僅かに動きを止められたものの、男は強引に剣を振り下ろした。が、老人の攻撃はそれでは終わっていなかった。
「爆ぜよ」
刹那、老人の持つ双つの刃が赫く閃光を放った。
「ぐッ……!」「……がァ……!」
放たれた爆炎が二人を襲い、男と女は勢いよく後方に吹き飛ばされた。
男騎士は、貫かれた左肩にうけた爆炎の傷を庇いながらも老人を睨めつけ、女騎士は、地肉の焦げた片腕を力なくぶら下げたまま、しかし、老人からは決して目を離さない。
そんな二人を見据え、老人の口元が僅かに綻んだ。
——それは自身の余裕の現れか? もしくは勝利を確信してなのか?
奥歯を強く噛みしめ、痛覚を頭から振り払い、男と女は剣を構えなおす。
——眼前の罪人を殺す事のみに、意識を集中し、再び地を蹴った。
「「――——ぉぉおおお!」」
甲高い無数の金属音が鳴り響く……
既に空が暁に染まりつつある頃。それほど長い時間も死闘は続いているのだ。
二人がかりですらも……この老人の命には今一歩、剣が届かない。
満身創痍の中、自らの持ち得るあらゆる剣技を用い、男と女は老人の命へと刃を向ける。
長引く攻防で既に体力が尽きる寸前、一手遅れをとれば斬り裂かれる死闘。
しかし、予想を裏切るように突然の決着は訪れた。
「――——!?」
幾重にも斬撃を斬り結ぶ中、突如として身体を蝕む感覚に、老人は堪らず動きをとめた。
「……ッ……!」
老いという人が生まれ持つ呪い。それは当然のように老体を蝕んでゆくのだ。この激しい死闘の最中、老人の体力はとうに尽きていた。
今まで圧倒的な技をふるっていたこの老人の隙を見逃すほど、この二人の騎士は未熟でも愚かでもない。
――刹那。肩から下、二本の腕が宙を舞う。その痛みに気づいた時には老人の胸と背へ二振りの剣が深々と突き刺さっていた。
「……カ……ッ…………」
身体の力が失われ、膝が崩れ落ちた時、自らがこの死闘に敗北したことを老人は理解した。
剣が引き抜かれた体からは、夥しく噴き出す生温かい血飛沫。肺は既にその役割を失いつつあり、呼吸すらままならない。
老人は死闘の覇者である二人の騎士に、既に視界の霞み始めた視線を向ける。
……死にかけの老人から向けられる真紅の瞳を見返しながら、二人は老人の前に片膝をついた。
大罪人とはいえ、かつての師。その死に最後の敬意をはらうためであった。
「……じじい。何か言い残すことがあれば聞くぞ?」
「…………」
老人は何も語らない。双眸を閉じて沈黙だけがそこにあった。
「……大罪人よ。全ての勲章および爵位は剥奪とし、この場にて斬首の刑に処す」
女の騎士はゆらりと立ち上がると、片手で剣を高々と掲げる。
かつて師と仰いだ者の首へと、その刃は振り下ろされた——……
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