(3)

 駿は文子との子を欲しがっている。それは、文子も同じだった。


 子供は授かりものとの言葉を信じ、自然に任せていたが結婚して数年経っても文子が妊娠する気配はない。


 ふたりで外来にかかったりもしたが、結果は双方ともに生殖能力に問題はなく、子供ができないのはタイミングの問題かもしれませんという回答を得た。


 それは、言いかえれば「相性が悪い」ということではないだろうか。自身が気がつくこともなく追い詰められていた文子が、そんなネガティブな考えに支配されたのは、当然と言えば当然の流れだった。


 タイミング指導など、妊娠に向けてなにかしら医者の助言を受けるべきかどうか。そう話し合っているあいだに有香が妊娠し、同時に家庭内もごたごたと騒がしくなってしまったため、左記の件は結局宙づりになったままである。


 しかしそれを今さら文子から言い出すのも気が引けた。駿への愛情がなくなったからではない。彼への愛ゆえに、自身が家庭内の厄介な問題となっていることに気づいていた文子が、ただその身を引くべきではと考え始めた結果である。


 駿との子供が欲しくないわけではない。愛するひととの子を欲するのは、文子の中ではごく自然な感情の発露であった。


 けれども周囲の期待が重いのも事実。駿が文子を一番と思うように、駿の両親もぽっと出の他の妻たちより、文子をひいきしているのを肌で感じている。


 もちろん、それは表に出ているものではないが、長年の付き合いからなにより文子との子を期待されていることを、彼女はしっかりと察してしまっていた。


 文子の両親だってそうだ。孫の顔を見たいと思うのは、さして傲慢な願いではないだろう。


 しかし文子の両親は駿や駿の両親とは違って、やはり彼女の「親」であった。


「辛いんだったらやめてもいいと思うのよ」


 娘の家庭内の騒動は、どこからか母も聞き及んでいたらしい。不意にかかってきた電話でそんな言葉を投げかけられて、張り詰めていた文子の糸はぷつりと切れた。文子が家を出てマンションの一室を借りたのは、それからすぐのことだった。


 ――辛いんだったら、やめてもいい。


 それは文子にとっては天啓とも言える言葉だった。目からうろことでも言おうか。とにかく、袋小路に入っていた文子には思いもつかなかった言葉だったのだ。


 文子は駿を愛している。駿も文子を愛している。


 けれどもそこに、限界を感じているのもたしかだった。


 文子は、いわば駿の家庭において大きな岩のようなものである。規則正しい流れを大いに疎外する、そんな存在なのだ。


 それを取り除けば万事つつがなく回るというのに、駿がそれを許さない。


 ならば、文子自身が抜け出るべきなのだ。――それが、最善の選択なのだ。


 駿はもう、文子だけのものではない。有香たちの夫であり、沙知歩の父である。


 だから、文子がわがままを言ってはいけないのだ。愛の名のもとにすべてが許される世界など存在し得ないのだから。


 駿と一枚のシーツを共有する。文子が身じろぎすると、そのうちに溜まった熱がそろそろと抜けて行く。まるで文子の心のように。


 ただ愛を伝えあうだけで完結する世界であればよかったのに。


 薄暗い部屋。文子は駿の隣でその寝顔を見ながら、まなじりに涙が溜まって行くのを感じた。




 日曜日の昼下がり、文子が住まうマンションの一室にドアチャイムの音が執拗に鳴り響いた。


 その原因の主は今この厚くないドアの向こうにいるのだろう。急いで部屋を借りたマンションには、エントランスに電子キーの類いがついているようなものではなかったのだ。


「文子!」


 ドアチェーンをつけたまま扉を開けば、ビン! とチェーンが目いっぱいまっすぐにその身を伸ばした。突然の訪問者――駿はすぐにドアチェーンに気づくと、苦々しい顔をして文子を見た。


「文子、これを外してくれ」

「……どうして? あの件なら代理人を立てたはずだけれど」

「……文子と直接話し合いたいんだ」


 黙り込んだ文子に駿はもう一度その名を呼ぶ。それでも動かない文子に、駿は焦ったような声を上げた。


「結婚を解消したいだなんて――納得できない!」


 同時に、右隣の部屋の玄関扉がそーっと開く音が聞こえて、文子は折れた。ここで騒げば近隣の迷惑になるだけでなく、文子の私的な事情も筒抜けになるに違いなかったからだ。


「……お願いだから、騒がないって約束して」

「――すまない。ただ……文子が結婚を解消したいと聞いて、取り乱した。……騒ぎにしたいわけじゃないんだ」

「……うん、わかってる」


 ドアチェーンを外すと、駿の表情が少しだけ明るくなった。直接会えばどうにかなると――つまり、離婚は回避できるだろうと彼は思っているらしい。


 けれども文子の決意は固かった。残念ながら、駿の希望が通る光りはない。駿がどれだけいやがっても、文子は別居を続けて裁判離婚にでも持ち込むつもりだった。


「コーヒーでいい?」

「ああ。ありがとう」


 駿をいつもの定位置――ローテーブルの前、青いクッションが置かれた場所――に座らせて、文子は食器棚からマグカップをふたつ手に取る。同じデザインのそれは、駿が勝手に置いて行ったものだ。青が駿で、黄色が文子。そう言って駿が笑った姿を、どこか他人事のように文子は思い出していた。


「代理人のひとから話は聞いたよね?」

「聞いたよ。でも信じられない……というか、信じたくない」


 マグカップに注がれたコーヒーがふたりの目の前にある。けれどもふたりとも、それには口をつけなかった。


 今までに感じたことのない、奇妙な空気がふたりのあいだに沈滞しているようだった。


 思えば、文子は駿と喧嘩をしたことがない。文子は内向的で争いごとが苦手だったし、駿もそれは同じだった。似た者同士であるがゆえに嗜好も似通っていたから、今まで大きく揉めるようなことはなかったのである。


 ――これが最初で最後の「喧嘩」になるのかな……。


 ふと文子はそんなことを思う。気分はどこかふわふわとしていておぼつかない。ありていに言ってしまうと、現実感がなかった。まるで夢――それも、悪い夢――でも見ているような気分だ。


「……他に好きなひとでもできた?」

「まさか! そんなわけない」

「じゃあどうして?」


 そう改めて問いかけられると言葉に詰まる。あなたを愛しているから。そんな戯言で駿が納得してくれるはずなどないということは、文子もよくわかっていた。


 なにかひとつの理由だけではないのだ。様々な……ひとつひとつはささいな出来事や、事情が積み重なって、文子は駿と別れることを選んだ。それを口で簡潔に説明するのは難しい。


「……駿が、嫌いになったからじゃないよ」


 本当は離婚なんてしたくない。けれどもそうしなければ、いつか自分がバラバラになって壊れてしまいそうだ。それは、駿の家庭にも言える。


 どうしてこんなことになってしまったんだろう? そう思うと声が震えた。


「じゃあ、どうして! 嫌いになったわけじゃないなら、別れる必要なんてないだろう!」

「あるよ……だって、駿の家庭にわたしは必要ない。それどころか……邪魔になってる」

「邪魔? そんなこと、俺は一度も思ったことなんてない! ……もしかしてだれかにそう言われたのか?」

「違う! 他のひとは関係ないよ。全部わたしひとりで決めたことだから」


 言葉を重ねれば重ねるほど、すれ違って行くのが肌でわかる。それは駿も同じなのか、ときが進むほどに彼の焦りを目に見えるようになっていった。


「駿の家庭のためにも――」

「――家庭なんて!」


 やり場のない憤りをぶつけるように、駿がローテーブルを叩いた。その音に、思わず文子の肩が揺れる。


 ローテーブルに叩きつけられた駿の拳は、震えていた。ぐっと指を抱き込んで、ぶるぶると震えていた。


「家庭なんて――文子がいなければ意味がない」

「そんなことないよ……」

「そんなわけあるか! 文子が……文子がいないなら俺の家庭に価値なんてない。あいつらのせいなのか? 文子が……離婚だなんて、そんなことを言い出したのは」

「だから、違うっていってるじゃない!」

「じゃあどうして?!」


 文子は駿の目を見た。白目の部分がかすかに赤く充血している。肌も心なしか紅潮しているような気がした。荒く、速い呼吸を繰り返しながら駿は文子の目を見ている。文子の心のうちすべてを推し量らんとするかのように。


 それが心地悪くて、文子は駿から視線をそらした。


「文子が離婚するっていうなら、俺もあいつらと離婚する」

「あいつらだなんて、そんな言い方しないで。奥さんでしょう?」

「俺にとっては、文子との結婚生活を続けるための道具でしかない」

「……沙知歩ちゃんはどうするの? 可愛い盛りじゃない」

「いらない。文子がいなくなるなら、必要ない」


 先ほどとは打って変わって冷めきった駿の声に、文子は人知れず背を震わす。


 実の娘ですら道具としか思っていない駿に、文子はショックを受けた。同時に、彼にそんな考えを抱かせるに至ったのが自分自身なのだと気づき、どうしようもなく情けない気持ちになる。


「だめ。そんなこと言わないで」

「無理だ。文子を手放すなんて無理だ。文子が俺の妻じゃなくなるなんて気が狂いそうだ」


 まるで感情をどこかに落として来たかのように、駿は淡々とそう言ってのける。それが逆に恐ろしくて、文子は思わず口をつぐんでしまう。


 緊迫した空気の中、遠くから自動車の走行音や子供の泣き声が響いて来る。


 その奇妙な沈黙を破ったのは、駿だった。


 駿は肩を動かして大きなため息にも似た呼気を吐き出すと、いつもの優しげな気づかいの見える目で文子を見た。


 けれども文子はそれを形のままに受け取ることはできなかった。なんだか先ほどからの変わりようが恐ろしくて、また駿から視線をそらしてしまう。


「――ごめん。ちょっと顔洗ってくる」

「……うん。そうだね。ちょっと、息抜きしたほうがいい」

「うん……」


 駿がわずかばかりでも離席することに、文子は心の中で大いに息を吐いた。


 今、ふたりにはちょっとばかりクールダウンする時間が必要だ。冷静に話し合えば、きっと彼だってわかってくれる。


 文子はそう信じて疑わなかった。


 しばらくして、廊下から足音が近づいてきた。


「文子……やっぱり俺――」


 そこから先の言葉は音として認識しながらも、文子の頭には入ってこなかった。


 体が恐怖に強張る。


 耳はキーンという音を拾うばかり。


 目は駿の姿に――その右手に、釘づけになった。


 駿の右手には、洗面所とリビングのあいだにある台所から抜いてきたのだろう、包丁が握られていた。

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