(2)
文子があの大きなシェアハウスタイプの家を出てから二ヶ月が経つ。それで没交渉になったのは他の妻たちだけで、駿は物理的な距離が開いたのもなんのその。足しげく文子の住むマンションへと通っていた。
議論は平行線をたどったまま、文子が逃げるような形で無理やり終わらせたようなものだ。であるからして、なにも根本的な解決を見せていないのは、当然と言えば当然であった。
駿は文子がひとり家を出ることになったことに心を痛めながらも、どこかでそれを喜んでいる風だった。
「これなら文子とふたりきりでいられる」
そう言って微笑む駿を見て、文子はなんとも言えない気分になったものだ。
最初からこうしていればよかったとすらのたまう駿に、文子は呆れよりも一種の恐れを抱いた。
駿は文子が他の妻と和解しなくてもいいと思っているのかもしれない。家庭円満がいいのだという考えはあるのだろうが、そこに必須なのは文子であり、他の妻ではない。ゆえに外に家庭を作るような形になっても、この男はちっとも堪えていないのではないか。
文子には、駿の心情をよく理解できるだけの素地があった。
けれども今はまったく彼の心の内などわからない。まるで煙にでもまかれたかのように、文子は惑うばかりだ。
その日も当然のような顔をして駿は文子の元へとやってきた。
新婚さながらにふたりで狭い台所に立って夕食を作り、風呂の時間になれば駿はいっしょに入ると言って聞かなかった。もちろんそれは丁重に断ったのだが。
風呂上がりのさっぱりとした気分の中で、ふたりはカーペットの上のクッションに座り、ぼんやりとバラエティ番組を観ていた。特に興味のそそられる内容ではない。それは駿も同じようだった。
それでもチャンネルを変えたりテレビの電源を落としたりしなかったのは、ひとえに間が持たないからだ。
家庭の問題は長年の友人関係を構築していたふたりに、確実に影響を及ぼしていた。
以前であればこんなことはなかった。わざわざ話題をひねり出さなくたって、いつまでも会話は続いたし、沈黙を居心地悪く思うことなんてなかった。
それは、心の距離が開いていることを、なによりふたりが理解しているからだろう。そしてそれを解消するには、結局のところ気の重い議論を再開するしかないのであった。
「ねえ、駿」
「どうしたの」なんて、すっとぼけた言葉は口にせず、駿は黙って文子のほうを見た。さきほどまで明るかった秀麗な容貌に、憂いの影が差す。文子と同じように、彼も気が重いのだ。他の妻を迎えなければ起こりえなかった問題を解消せねばならないのが。
けれどもいつまでも能天気にふたりならんでいるわけにもいかない。それを思うと、文子は泣きたくなった。
いや、本当はずっとみっともなく泣き叫んで、子供みたいに駄々をこねたかった。けれども文子はもう齢二〇を超えて久しい。世間的には立派な大人というやつなのだ。そんな詮無い行いをするわけにはいかなかった。
一拍置いてから、文子は言いたくもないセリフを口にする。
「いつまでここに通うつもりなの?」
言ってから、どこか駿を責めるような口調になってしまったと後悔する。けれども当たり前だが、一度口から出した言葉は戻ってこない。
「いつまでって。いつまでも」
駿の目は、どこか挑戦的だった。まるで「どうしてそんなことを聞くのか」と言いたげな目で文子を見ている。
「今の状態がベストとは言えないけれど、収まるところには収まっているだろう」
「そう……かもしれないけど。子供はどうするの?」
「子供?」
そう、子供だ。そもそも文子が他の妻と大いに仲たがい――現実には文子が一方的に排斥された形だが――した原因は、文子以外の妻のひとりが妊娠したからだ。
そして彼女はこのごたごたとした期間の中で、無事に女児を産んでいる。
駿はもう、文子たちの夫であるだけでなく、ひとりの人間の父親なのだ。
その父親が夜な夜な家を出て他の妻にかかりきりの状況が、生まれたばかりの彼女にとってよろしくないのではと文子が考えるのは、当然の流れと言える。
文子は、もう一度息を吸った。自身を落ちつかせるように。そうやって間を設けないと文子は泣き出してしまいそうだった。
「子供には、愛してくれる親が必要だよ」
「……文子には俺は必要ないってこと?」
「話をすり替えないで。……片親だと愛情が足りないとか、そういうことが言いたいわけじゃないの」
「わかってる。でも、俺はきちんと
駿が娘の名を口にしただけで、文子は平静でいられない自分に気づいた。同時に、そんな自分がひどくいやになった。
思い描く中でベストな自分は冷静に物事に対処する姿だというのに、現実はそこからは程遠い。ヒステリックにわめきたくなる気持ちをどうにかこらえる。
「毎日のようにこっちに泊まりに来てるのに?」
「……疑っているの?」
「仕事もあるでしょう。他にも……することはたくさんあるはず」
「そうだね。でも、沙知歩の親は俺だけじゃない」
「
「そうは言ってないだろう」
「そう聞こえた」
「娘を愛するのは父親としての重要な役割だって、わかってるよ。けれども他の妻を平等に愛するのも俺の義務のうちだろう?」
「平等?」
してはいけないとわかっているのに、文子は思わず泣き笑いとでも呼べそうな顔をして、おどけたように言い放つ。
駿はそんな表情に怒るでもなく、ただ眉をしかめて傷ついたような目をしばたたかせただけだった。
「なにが不満なんだ」
「駿が家庭を顧みないこと」
「顧みてる」
「うそ。有香さんたちや沙知歩ちゃんを放ってわたしのところに来てる」
「当たり前だろう? 文子は不誠実な不倫の相手とかじゃないんだ。俺の妻なんだから」
「それじゃあもっと平等に接してあげて」
「してる」
「そこにわたしも含めて」
駿は妻たちを平等に愛している。――文子以外の妻たちを。その、「平等」の中に文子は含まれていない。文子はいつだって一等背の高いイスに座らされて、駿の愛を独占している。
そのことがいやなわけもない。文子は駿を愛しているのだ。愛しあって、想いあって、結婚して夫婦になったのだ。だから、いやなわけがなかった。
けれどもそれとこれとは話が別だ。一夫多妻を維持するためには平等であることは必要不可欠だ。たとえ結婚前に「文子だけが特別」なんていう誓約書を交わしていたとしても、文子は不平等であることに納得できない。
それは文子に自信がないことの表れでもあった。駿にちやほやされて、他の妻を差し置いて愛される自分に、自信が持てない。だから文子はまるで逃げを打つように駿を遠ざけようとして、「平等」の名のもとに彼の行いを是正しようとしているのだ。
そこに駿の意思がないことに、文子は気づかない。
「無理だ」
はっきり、きっぱりとした口調で駿は言い放つ。そこには微塵の苦悩や迷いは見えない。
「俺にとって一番は文子で、それ以外は二番でも三番でも――とにかく、どうでもいい」
「……沙知歩ちゃんも?」
「ああ」
逡巡などない駿の物言いに、文子はショックを受けた。それが決して文子の機嫌を取るための言葉ではないとわかっているからこそ、なおさら文子は衝撃を受けた。
自分の血を分け与えた娘でさえ、文子の足元には及ばないのだとでも言いたげな、傲慢な駿の態度に文子は動揺を隠せない。
「文子との子供ができたら、文子といっしょに一番になるんだけどね」
朗らかな笑顔すら浮かべて見せる駿に、文子はなにを言っていいのやらわからない。
「……そんなこと、言わないで」
うめくようにやっと言葉を口にしたが、駿には文子の衝撃が理解できないらしい。不思議そうに首をかしげて、無垢の目で文子を見る。
「どうして?」
「おねがいだから……そんな」
「無理だよ。文子が一番だって、俺はずっと言い続けた。それこそ最初の最初から、ずっとね。彼女たちはそれを了承して妻になったんだ。文句なんて言わせないよ」
駿の手が伸びて、そのごつごつとした男の指が文子の頬に触れる。ついで首筋を滑って、肩に触れたあと、駿の胸へと引き寄せられた。
文子はされるがまま、駿の胸板に耳をつける。規則正しく鼓動を刻むその音を呆然と聞いているうちに、駿の腕が体を回ってその手が彼よりもずっと小さい文子の背中を撫でた。
まるで幼子をあやすかのように、駿は文子を優しく抱擁したまま、その背を撫で続ける。
「なんだったら離婚しようか。もちろん文子以外と」
「やめてよ」
文子の声が震える。けれども駿は気にした風でもなく、歌うように軽やかな口調で言葉を続けた。
「どうして?」
「沙知歩ちゃんはどうするの?」
「文子が引き取りたいんだったらいいよ。いやなら親権は放棄する」
ちぐはぐな会話に文子はめまいを覚えた。
はっきり言って、離婚は現実的な手段ではない。特に夫を得ることが女としての――いささか品のない――ステータスとなっている今の社会では、あのプライドの高そうな他の妻たちがおいそれとそのことを了承するなどとは思えなかった。
それ以前に、文子にとってもその選択肢は「ナシ」であった。たかがたったひとりの女のために、小さな子供から父親を奪うなどとはあってはならないと、文子はそう考えたのだ。どちらが沙知歩にとって不幸であるか、深くは考えずに。
「言ってるだろ、俺の一番は文子だって……それはなにがあっても変わらない。――変えられない」
骨がきしみそうなほどにきつく抱きしめられる。文子が思わず顔を上げれば、そこに駿の口づけが降ってきた。
最初は触れるだけの、たわむれのようなキス。そのうちに上下の唇をついばむような口づけに変わり、ぴったりと隙間なくくっつくようなキスへと変わって行く。
同時に駿の手が文子の服のすそからその内側へと入り、誘うように指の腹が皮膚を撫ぜる。その淫靡な動きに文子の体がびくりと揺れる。
「……文子との子供……かわいいだろうな」
うっとりと微笑む駿の顔を見上げながら、文子は背筋を震わせた。
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