ふたり〈後編〉

 ギョクの肩越しに見える顔、それから頭の毛並みに咲く大輪の花。見間違えようはずもない。彼は――


「タイバ?!」

「やった、やったのね?! タイバ!」


 ウバラのおどろきの声にかぶさるように、狂喜に満ちたミナテの声が上がった。


 そのときにはもう、ギョクは自分に抱きついて来たタイバを振り払っていた。水狼であるギョクには体格で負けるタイバはいとも簡単に振り落とされたが、その顔には不敵な笑みが浮かんでいる。


 見ると、タイバの体は黒ずんでいた。――まるで、泥沼で遊んだかのように、どこもかしこも。


「これで私をパートナーにしてくれるんでしょうね?!」


 その言葉にウバラは瞬時にギョクがハメられたことを悟った。


「ギョク!」


 ギョクの名を呼ぶと同時に、彼は苦しげな顔をしたまま、その場に崩れ落ちるようにして地面に突っ伏した。その体はタイバのように黒ずみ始めている。


 ――呪いだ。


 ウバラは看破した。


 ――「狂い神」の呪いを移されたんだ。


 ミナテの言葉を鑑みると、恐らくのだろう。破壊しつくされていたせいで、ギョクとウバラはそれを見抜けなかった。


 ミナテとタイバがどの時点でいっしょになったのかはわからない。「狂い神」に出会った時点で二組のパートナーはいっしょだったのかもしれないし、途中で出会したのかもしれなかった。が、今はどうでもいいだろう。


 互いにパートナーを失ったミナテとタイバのうち、タイバはあの「狂い神」に触れたか、その汚泥に触れてしまったに違いない。呪いを受けたタイバはパートナーになることと引き換えに、ミナテに呪いを移す協力をさせた。おおむね、こんなところだろう。


 ミナテとの会話に気を取られて、うしろから着いて来たであろうタイバの足音に気づけなかったのは、不覚としか言いようがなかった。


 ウバラはキッと鋭い視線でタイバとミナテを見やるも、ふたりはまったく動じていないようだった。


「タイバ……呪い移しなんて、どうして」


 震える声でそう問うも、タイバは悪びれた様子も見せず平然と返す。


「どうしてって、そんなの死にたくないからに決まってるだろ。バカは治ってないみたいだな、お前」

「えー? タイバの知り合いなの? この子」


 ウバラはギョクに駆け寄ってその容体を見た。息は浅く速い。「狂い神」の汚泥の呪いとはギョクは相性が悪いらしく、その心身を蝕む速度はおどろくほど速い。


「運が悪かったんだって、恨むなよ」


 嘲りの声をかけられても、ウバラの耳には入らない。


「ちょっと無視ー?」

「食糧庫漁って行こうぜ」

「――それ、やめないと呪い返しするから」


 ウバラ自身もおどろくほど低い声が出た。


 ここに至って初めてタイバとミナテはたじろいだような目でウバラを見る。


「はあ? 呪い返しってなんだよ?」

「タイバは知らないの? わたしはおばあちゃんから教わったよ」

「は、はあ? そんなのネクラなの知らねーし! つか、トロいお前にそんなのできるわけないだろ!」

「できるよ」

「はあ?!」

「できるよ」


 タイバが黙り込んだのを見て、ミナテもにわかに焦り始める。


「ちょ、ちょっとどういうことよ?! 呪いって移したらもうダイジョウブなんじゃないの?!」

「知らねーよ! もう行くぞ!」

「ちょっと、待ってよ! 置いて行かないでってば!」


 ふたりの背を見送ることもせず、ウバラは腰に提げた袋からつげ櫛を取り出した。ぴかぴかに磨き上げられた、美しい一品である。


 この櫛は花鼠の一族でも女系にだけ伝えられるお守りだった。肌身離さず身につければ、苦難の身代わりになると言われている。そしてそれは単なる言い伝えだけではなく、実際に身代わりとして使えるのだと教えてくれたのはウバラの祖母であった。


「今、助けてあげるからね」


「狂い神」の汚泥の呪いは触れるだけで感染うつってしまう。それを理解した上で、ウバラは――ギョクの体に触れた。


 途端、ギョクの体を蝕む黒ずみがウバラの手が触れている部分へと集まって来る。次いでウバラの指先から吸い込まれるようにして黒ずみが彼女に移って行く。


 体の内からえぐられるような不快な感覚がウバラを蝕む。けれどもかろうじてギョクのように倒れるハメにはならずに済んだ。それでも、いつまでもつかはわからないが。


 ウバラは肩で息をしながらも、自身の毛並みから一本毛を引きぬくと、手早く櫛の歯に巻きつけた。祖母の言葉に従えば、あとはこれを川に流すと身に降りかかった厄災を水が流してくれると言う。


 本当かどうかはわからない。なにせ厄流しなど今までにやったことがないのだ。


 けれども、失敗したとしてもそれでいいとウバラは思った。


 ギョクが助かるならそれでいいと。


 おぼつかない足取りで立ち上がる。目指すは川。そこへ向かってウバラは歩き始めた。



 *



「ウバラー! ウバラ! いたら返事をしろー!」


 ギョクはただひたすら、森の中を駆けていた。愛用の銛を片手に、木々のあいだを縫うようにして走りながら、パートナーの名前を呼ぶ。


「狂い神」を見てミナテと出会って、ウバラたちがタイバと呼ぶ花鼠に抱きつかれて――そこから記憶がない。


 目を覚ましたとき、ウバラはそばにおらず、またミナテと謎の闖入者も姿を消していたのだ。


 ヤモリの木の周囲を捜してもウバラの姿が見えないことに気づいたとき、ギョクは血が凍るような感覚に陥った。


 もしかしたらミナテたちがウバラになにかしたのかもしれない。あるいは、もっと別のなにかがあって、ウバラはどこかへ行ってしまったのかもしれない。


 言いようのない焦燥感がギョクの体を突きあげた。そしてその衝動のままにギョクは銛を片手に木々の迷宮へと飛び込んで行ったのである。


「ウバラ……! ウバラ!」


 何度もウバラの名を呼ぶ。それが森の中に響き渡る。喉が痛くなっても、その名を呼ぶことをやめはしなかった。やめてしまうことは、できなかった。


 やがて水の匂いがして、ギョクは川辺に出た。小川というには少々幅の広い川である。ここには何度か水遊びに来たことがあった。


 さっと周囲に視線をやる。するとよく見知ったウバラのにおいがして、ギョクは飛ぶようにそちらへと向かった。


 川辺の藪近く、そこにギョクの求めるあの小さな花鼠がいた。


 ――ただ、彼女はまるで息絶えるようにして、うつぶせに倒れていた。


「――ウバラ!」


 あわてて駆け寄る。心臓はバクバクとこれ以上ないほど脈打ち、銛を持つ手はともすれば力が抜けてしまいそうだった。最悪の想定すら頭をよぎって、滅多なことでは出ない涙すら浮かんできた。


「ウバラ!」


 震える手でウバラの肩をつかむ。その体はまだ温かい。肩を引っ張ってあおむけにしてやる。それから耳を彼女の口元に近づけた。


 ――息を、している。


 ギョクは、全身から力が抜けるような感覚に陥って、その場にへたり込んだ。



「――ギョク?」


 しばらくそうして呆然自失としていると、ウバラが目を覚ました。そのことがとてつもなくうれしく、この上なく安堵して、ギョクは口元が奇妙ににやけてしまうのを止められなかった。


「ギョク、無事だったんだ……」

「それはこっちのセリフだって……。心臓が止まるかと思った」


 それは嘘ではない。もし、もしもウバラが息をしていなかったら、きっとギョクの心臓は本当に止まってしまっていただろう。それくらいの気持ちがギョクにはあった。


「櫛、流したからね、もう大丈夫だよ」

「櫛?」


 そうしてギョクは自身が意識を失ったあとになにがあったのか、ミナテたちの目的が――推測ではあったものの――なんだったかをウバラから聞いた。


「そうか……ウバラがいなかったら、かなりマズかったな」

「そうかな?」

「そうだよ。っていうか櫛……大事なものだったんだろ? 俺が油断していたばっかりに……。ごめんな」


 ギョクの言葉に、ウバラはしっかりと首を横に振った。


「……ギョクより大事なものなんてないよ」


 ギョクはぐっと、胸が詰まるような感覚に襲われた。どくどくと心臓が脈打って、胸がいっぱいになって、喉が詰まってしまったような、そんな感覚だ。


「お、俺だって」


 だから、そんな感覚に突き動かされてギョクもなにか言わなければという気になったのだ。


「俺だって、ウバラが大事だ。だからこんなに心配して――って、倒れてたやつがこんなこと言ってもカッコつかないか」

「恰好なんて、どうでもいいよ。……そう言ってくれてうれしい」

「……いや、恰好がつくかどうかは重要だ」

「ええー」

「重要なんだ。……ウバラの前では、カッコつけたいんだよ」

「……そっか」

「ああ」


 起き上がれるほどに回復したのか、ウバラが肘を突いて上半身を起こそうとする。それを見てギョクは彼女が上体を起こすのを手伝った。


 ふたりとも川辺に座り込み、向かい合う。


 なんだか妙にむずむずして、ギョクはたまらなくなった。


「なあ、ウバラ」

「あ、ごめん。まだ立てなくって……」

「いや、まだ夜になるには早いし。大丈夫だ。――えっと、そうじゃなくってだな」

「?」


 不思議そうな顔をするウバラを前に、ギョクは視線を泳がせる。それでも決断を下すのが早い彼のことなので、その腹はすぐに決まった。


「――ウバラ、抱きしめてもいいか?」


 ギョクの言葉にウバラは何度か瞬きをしたあと、少し恥ずかしそうにして、ただうなずいた。


 ウバラの華奢な体にギョクの腕が回る。そのままぐっと力を入れて抱きしめる。見下ろす形になったウバラの首筋を見て、ギョクは細くて白いし、ちょっとすれば折れてしまいそうだと思った。


 そうしているとおずおずとギョクの広い背にウバラの小さな手が触れる。指先が冷たいことに気づいて、温めてやりたいとギョクは思った。


 ふーっとウバラが吐息を吐く。熱い呼気がギョクの肩に当たって、なんだかくすぐったかった。


 どれほどのあいだ、そうしていただろう。そのあいだに会話はなく、ただ互いの熱と呼吸音だけをふたりは感じていた。


 どちらともなしに身を離す。向かい合って、見つめ合う。ギョクは鋭い金の目で、ウバラは大きな黒の目で、互いを見た。


「……帰るか」


 いつものように、ギョクはウバラの左手を取った。ギョクよりも小さくて、ほっそりとした手だ。


 ウバラは捉えられた手で握り返す。ウバラよりも大きくて、豆のある、ごつごつとした手を。


「うん、帰ろう」


 ウバラの微笑みにつられて、ギョクも知らずの内に口元に笑みを浮かべていた。

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