ふたり〈前編〉
「じゃあ、行くか」
森に入るには手を繋がなければならない。それは半ば習慣化されたもので、そこに他意はない。そんなことは、わかりきっているというのに、ウバラは自身の手に重ねられた、ごつごつとした手の感触に胸を高鳴らせてしまう。
そんな気持ちをギョクには悟られたくなくて、自然口数が多くなる。おかげで逆に体調が悪いのかとまた心配される始末であった。
今日の行き先は昨日見つけた花畑である。そのなかに食用にできる花をいくらか見つけたウバラが、たまにはこれを食べてみようと言い出したのだ。
花畑も森の一部であるので、もちろん蝕の季節のあいだは移動する。けれどもなぜか花畑だけは一度見つけると数日は同じ場所に留まるようで、一日で煙のように消えてしまうということはないのだった。
ちなみに湧水によって形成される泉は花畑と似たような性質だが、森の民も入れないような切り立った山から流れてくる水は、どういうわけか移動しないのである。
もうすぐ花畑、というところまで来て、急にギョクが足を止めた。
「待て」
そう言ってウバラを自身の背に隠すようにして一歩下がらせる。ウバラはギョクの肩越しに向こうを見やった。森を抜けた先に花畑が見える。そして花畑でなにやら蠢く物体も。
ふたりはそっと足音をたてないようにして近くの藪に身を隠した。息を潜め、葉と葉の隙間から花畑の様子をうかがう。
そこにいたのはつるりと毛のない、サルに似た獣だった。
「『神』だ」
サルには毛があるが、「神」には毛がない。妙に赤白く気味の悪い肌を、なんの防護もなしに晒しているのが「神」の特徴だった。
「神」はサルのように背を丸めて座り込み、一心不乱になにかをしているようである。ギョクとウバラに気づく様子もないのは、幸いであった。
「どうして……」
「神」が森を徘徊するのはもっぱら夜の話である。昼に闊歩する「神」もいないでもないのだが、それは――
「『狂い神』――なんだろうな」
季節外れの時期に花を咲かせることを「狂い咲き」と呼ぶように、本来ならば夜に徘徊するはずの「神」が昼間に姿を見せた場合、それは「狂い神」と呼ばれる。森の民が強く忌避し、恐れるもののひとつであった。
「狂い神」がなにをしているのかはふたりとも薄々ながらわかっていた。
この距離でははっきりと見えなかったものの、むせかえるような花の芳香に混じって、隠しようのない血なまぐさい臭いが漂って来るのだ。
ウバラはぎゅっとギョクと繋いでいる手に力を込める。その恐れを理解してくれたのか、ギョクも握り返してそれに応えた。
森の民たちは助け合って生きてはいるものの、無駄に命を散らせることは良しとしない。つまり、今助けに入っても手遅れであるどころか、自身の命をも危険に晒してしまうような状況下では、傍観に徹するのである。
今のふたりがまさにそうだった。
今、この瞬間にふたりの目の前でだれかが食われている。ふたりはそれを理解していたが、もはやうめき声すら聞こえないということは、彼か彼女かは絶命してしまっているのだろうと判じたのだ。
もしも助けの声がかかったならば、年若いふたりは助けようとしたのかもしれない。けれどもすべてが手遅れである現状では、ふたりになすすべはないのである。
どれほどの時間が流れただろうか。「狂い神」は
ふたりは、それでもしばらくのあいだ息を詰めて様子をうかがった。戻ってくる可能性も鑑みて、動けなかったのである。
けれどもいくら時間が経っても「狂い神」は再び姿を見せることはなかったし、その巨体が動くたびにもたらされる振動は、遠くへ消えてもうこちらへ伝わっては来なかった。
「……ウバラ」
ふーっと長く息を吐いたあと、ギョクがウバラの名を呼んだ。ウバラは、ぎこちない動きでギョクの顔を見た。狩りもしていないのに、ひどく疲れたような顔をしている。恐らく自分も同じような――いや、きっともっとひどい顔をしているだろうとウバラは思った。
「もう、だいじょうぶかな?」
「ああ、たぶんな」
「もう足音とかは聞こえないね」
「臭いも……残ってはいるけど、だいぶ薄くなった」
ふたりで危機が過ぎ去ったことを確認し合って、やっと藪から出ることができた。
このまま家に帰ってしまおうかとも考えたが、今日はまだ時間も余っていることだし、食われた森の民を葬送してやろうとふたりは花畑に足を踏み入れる。
天に向かって花弁を開かせた花々からは、とっておきの芳香が発せられている。けれども今ばかりはそれにうつつをぬかすような気分にはなれなかった。
花の芳香に混じって、隠しきれない鉄錆のにおいがふたりの鼻まで届く。穏やかな陽光の下、足が早くも腐り始めたのか、死臭まで漂って来る。
それは、ひとことで言うと肉塊だった。
なにもかもが粉砕され、ただのひき肉にされていた。肉の中にはところどころ脂肪とは違う白いものが散っていて、それは破壊されつくした骨なのだとわかった。
そして周囲には悪臭を放つ黒い泥のようなものが飛び散っている。
「泥には触らないほうがいいと思う」
「マズいのか?」
「こういう泥に触ると『狂い神』の呪いが移るって、前におばあちゃんが……」
ウバラがそう言ったあと、ふたりは改めて凄惨な現場を見やる。
「……埋めてやろう」
しばしの間のあと、ギョクとウバラはせめて土をかけてやろうという話になった。幸いにもここは柔らかい土が多い。ふたりは手分けして土を掘り返したあと、それらを彼かあるいは彼女かにかけてやった。
そのうちに肉塊は姿を消して、代わりに土饅頭ができる。ウバラはそこに花を添えてやって、ふたりでしばし黙祷した。
明日は我が身。そんな言葉がふたりの脳裏をよぎり、なんとはなしに暗い雰囲気を引きずってしまう。
現実問題、あの昼に徘徊する「狂い神」がふたりの住居からそう遠くない場所に現れたことを考えると、暗澹たる気持ちになってしまうのは仕方のないことであった。
不意にぴくり、とウバラの耳が動いた。さっと顔を背後へと向けたウバラに気づいて、ギョクもすん、と鼻を鳴らす。
「――だれかいるな」
「生き残ったひとかも」
ふたりがそんな会話を交わしているあいだに、その当人のほうから向かって来たので、わざわざ捜しに行く手間は省けた。
「そ、そこっ! そこのひと! おねがい、そこで待ってて!」
森の奥から聞こえて来る甲高い雌の声に、ふたりは大人しくその場で待つことにする。それでも警戒は怠らず、ギョクはウバラを背に隠し、愛用の銛を隙なく構えた。
「はあっ、はあっ、そ、そこのひとっ……はあっ、た、たすけて……」
全速力で走って来たのか、花畑へ出るや、そのオオカミの雌は膝に手をついてぜいぜいと肩を上下させる。そうして息を整えると彼女はようやく顔を上げた。
「お前は……」
「えっ……」
ギョクとオオカミの雌は互いにその顔を確認すると、言葉を失っていた。知り合いなのだろうかとウバラは考えるも、ふたりのあいだに流れる空気はそのような親しさはなく、すぐにぎこちないものへと変わって行った。
「……どうしたんだ?」
ギョクのひどく冷たい声音に、彼の後ろに控えていたウバラのほうがびっくりしてしまう。逆に、オオカミの雌は急にふてぶてしくなってギョクの言葉に答える。
「見てなかったの? 『狂い神』よ、『狂い神』! アレに私のパートナーがやられちゃったのよ!」
「なんでそんなことになったんだ?」
「なんでって、わかんないわよ。帰って来たらヤモリの木の前にアイツがいて……そのまま追いかけられたのよ、半日くらい! で、とうとうパートナーのほうがやられちゃったの!」
「ってことは随分離れたところから来たのか?」
「当たり前でしょ? こんな辺鄙な家しか確保できない雄なんて、こっちからお断り!」
たったそれだけの会話であったが、ウバラは早くもギョクが彼女に対して冷淡な理由を察していた。
当初の哀願ぶりはどこへやら、今では高飛車な態度に変じて、なぜかギョクに対し高圧的な言葉で応対している。ふたりがどういう関係かはわからないが、自分であったら進んで仲良くしたくない相手だなと、ウバラは心の中でひとりごちた。
かと思えばオオカミの雌は急にこちらにおもねるような、媚びた声色で話しだす。
「……ねえ、ここからヤモリの木までちゃんと戻れるかわからないの」
「ウチには入れられないからな」
「そ、それはわかってるって! ……ただ、ちょっと食糧をわけて欲しいの。三日分だけで構わないから……。ねえ、お願いギョク。私たち、知らない仲じゃないでしょう?」
その物言いに、ウバラはなぜかひどく心がささくれ立った。しかし流し見たギョクの顔には彼女にほだされた様子もなく、その感情はすぐにどこかへ流れて行く。
「三日分だけって言ってもな、その食糧は俺だけのものじゃない。俺と――こいつの食糧だ」
急にふたりの視線がこちらへ向けられたので、ウバラはびくりと肩を震わせてしまった。そんな彼女を見て、オオカミの雌の鋭い瞳に嘲りの色が浮かんだのを、ウバラは見逃さなかった。
こういう目を、ウバラは良く知っている。相手が御しやすい相手だと見とって、見下している目。今からいいようにしてやろうという、強者の目だ。
けれどもオオカミの雌はギョクの手前、そんな色をすぐに引っ込めた。
「――ねえ、お願い。大事な食糧だっていうのはわかってる。でも哀れなオオカミをひとり助けると思って――ねえ?」
「……ギョク」
ひとりで結論は出せない。そう思ってウバラはギョクを見た。決断を相手に委ねてしまうのは悪い癖だとわかっていたが、ギョクの言う通り、貯蔵してある食糧はふたりのものなのだ。まずは話し合うべきだとウバラは思った。
ギョクはウバラを見る。いつもの、ぱっと見恐ろしげではあるものの、決して冷たくはない目だ。
ついで、知り合いらしいオオカミの雌を見る。じっと見つめていたかと思うと、ギョクはハーッと深いため息をついた。
「……三日分だけだ。いいか? ウバラ」
「うん……」
オオカミの雌の顔がパッと明るくなった。
「ありがとう! ギョク!」
「礼ならこいつにも言ってやれ、ミナテ」
「ありがとう! ええと――」
「……ウバラです」
「ウバラね……。本当にありがとう!」
飛び上がらんばかりに喜んでいる彼女――ミナテを、ギョクは少しだけ鬱陶しそうな顔で見ていた。そのことにウバラはなぜかほっとして、すぐにそんな自身の心情がよくわからず、戸惑った。
ギョクとミナテの間柄はよくわからなかった。
やたらとミナテが馴れ馴れしいのはそういう性格、で流せる。解せないのはギョクのほうだ。妙にミナテに対して淡白というか、冷淡というか――とにかく彼女の馴れ馴れしさとは反比例するように、ギョクは距離を置いているようだった。
道中の会話の中で、ミナテがギョクと同じ水狼だということが知れた。
「水狼のひとはみんな銛を持ってるのだと思ってました」
とウバラが素直にそう言えば、
「こいつは狩りをサボってばかりだから持ってなくてもおかしくはない」
とギョクが刺々しく返すので、帰路の途上の空気は妙、としか言いようがなかった。
ちなみにミナテによると「狂い神」から逃げる途中でなくしてしまった、とのことだったが、その話が真実であるかどうかは、彼女のひととなりが未だに良くわからないウバラには判断できなかった。
「――じゃあ、食糧は俺が見つくろって来るから」
ギョクとウバラが暮らすヤモリの木へ辿りつくや、彼はそう言ってミナテを見た。
ウバラはその言葉に少しのあいだだけでもこのミナテとふたりきりにされるのだと思うと、ちょっと胃が痛くなる思いである。
道中でのやたらに馴れ馴れしいミナテの態度に、ウバラの彼女に対する好感度は下がりっぱなしだ。
それが好意から来るものであれば、まあ仕方ないと困りつつも我慢できる。しかしミナテがウバラを見下していることは視線や態度から明らかだった。
なにせ「綺麗な白い手ね。料理はできるの?」だの「体が小さくて可愛いわね。狩りはできるの?」だの、褒め言葉のようなもののあとに、必ず「どうせできないんでしょう?」とばかりの言葉を続けるのだ。ウバラでなくとも、聞いているほうは辟易するだろう。
ちなみにギョクもギョクで黙っている性質ではない。「ウバラの料理は美味い」「ウバラは耳がいいし気配にも敏感で助かってる」と、いつになくぶっきらぼうな口調ながら、ウバラを庇うような言葉を口にしてくれた。
ウバラはそれをくすぐったく思ったものの、それ以上に喜びが勝った。
ミナテは美しい笑顔を作りながらも、目は面白くないと雄弁に語っていたが。
「三日分だけだからな。それだけで足りなくても恨むなよ」
「感謝こそすれ、恨むなんてとんでもないことよ」
ギョクが食糧庫にあるウロへと入ったのを見送ると、ミナテは急にウバラのほうを振り返った。
「――ねえ、私のお古ってどう?」
「……お古って、どういう意味ですか?」
やたらに高い声がなりを潜めたその声音を聞いても、ウバラはあまり動じなかった。こうなることは、目に見えていたからだ。
にたにたと嫌らしい笑みを浮かべるミナテを見て、ウバラは綺麗な顔をしているのにもったいないひとだな、と思った。
「ええっ、やだ、聞いてないの?」
ミナテは大仰なほどにおどろいた顔をする。
「なにをですか」
「私とカレって元パートナーなの。そっかあ、聞いてないのかあ」
憐れみの眼差しで見られては、さしものウバラもむっとしてしまう。
「……それがどうかしましたか」
「ええー? 気にならないかなって思って。私、途中でやっぱりダメだなーって思ってパートナーを替えたのね。で、そのカレとパートナーになっちゃったんだから、なにか不満とかないのかなって」
ミナテの言わんとしていることは理解できたものの、言ってる意味はさっぱりわからない。それがウバラの素直な感想だった。
「ありませんよ、不満なんて。わたしにギョクはもったいないくらいです」
「ふーん? 本当に?」
「ええ」
「じゃあ私が貰ってあげようか?」
「――は?」
絶句。絶句であった。その口でギョクをけなしておいて、次には「貰ってあげようか」とは。
ウバラは頭の中が真っ白になった。そこに感じたのは、今までに抱いたことのない、憤怒の情だった。
「――ギョクのパートナーはわたしです! あなたじゃない!」
急に大きな声を出されたことにおどろいたのか、ミナテは目を丸くする。
と、同時に食糧を見つくろい終えたギョクがウロから顔を出したので、ミナテはまた媚びるような声を出して微笑んだ。
「そ、そうよね~。ごめんね、ちょっとした冗談よ~」
「……そうですか」
しかしウバラはにこりとも笑う気にはなれず、いつにない仏頂面で返す。
「おーい、戻ったぞ。――ほら、三日分の食糧」
そう言ってギョクはミナテに袋包みを渡す。ウバラの様子にはギョクも気づいているようだったが、彼が特にそのことについて触れようとする様子はなかった。
「わあっ! ありがとうね、ギョク!」
大げさなほどに喜ぶミナテを、ギョクもウバラも冷めた目で見ていた。
そんな視線にミナテが気づかないはずもなく、取り繕うように笑顔で何度も礼を言う。
「ギョク、本当にありがとう!」
「礼はもうじゅうぶん聞いた。早くここを発たないと帰れないぞ」
「……ねえ、ギョク、途中までついてきてくれない?」
ミナテの言葉にギョクはぱちぱちと何度か瞬きをしたあと、また長いため息をついた。
「……そこまで面倒は見られない」
「そんな、ねえ、お願いよ」
ミナテはそう言ってギョクの右腕を両手でつかむ。
「お前ももう成年のオオカミなんだ。自分の面倒くらい自分で見られるようになれ」
「でも、でも」
「でもじゃねえよ」
そんな言い合いをしているとき、不意にウバラの耳が異音を拾った。
「――ねえ、ギョク、だれか来てるよ」
「え?」
「――! ギョク! うしろっ」
ガサガサッと茂みをかきわける音が響き渡ったかと思うと、そこから飛び出したなにものかかギョクの背に抱きついた。
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