(9)

「そんな……急に言われても」

「急だろうがそうじゃなかろうが、どっちでも関係ない。そもそもお前が間違えたせいなんだぞ」

「それは……」


 そこを責められてはマウヤはなにも言えない。


 それでもすぐに気を取り直して、メワンに仕える相手がクナッハでも問題はないのだと説明しようとした。


「クナッハ様は豊穣神だから、今のままでも問題ないはずだよ」

「そんなわけないだろう。じゃあどうして日照りが続いているんだ。それはそのクなんとかっていう神が力のない神だからだろう」


「――ほう。貴様、今私を侮辱したな?」


 地を這うような声が耳朶を打った途端、マウヤとメワンのあいだを一陣の風が吹き抜けた。声のしたほうを反射的に振り向けば、屋敷の玄関口にクナッハが立っている。その秀麗な顔は険しさを隠そうともせず、柳眉をぐっと寄せて、夜色の双眸がふたりを――否、メワンだけを射抜いていた。


 先ほどまで威勢の良かったメワンも、さすがに当の神を前にしては言葉を紡げない様子であった。やや及び腰になって、もごもごとなにかしら言い訳でもしようとしているのか、口を動かしている。


 クナッハはと言えば、一応はメワンに弁明の機会を与えてくれるらしい。しばらくのあいだ沈黙を保ってくれたが、彼が口にしたのはまただしてもクナッハへの侮辱の言であった。


「ぶ、侮辱じゃない。事実だ! 力がないから御しやすいマウヤを騙して侍者にしたんじゃないのか?!」

「――騙す、だと?」


 クナッハの双眸が不機嫌に細められる。マウヤはクナッハの気迫を前に、腰が引ける。そんな中でメワンがクナッハに歯向かえるのが、信じられなかった。


 愚鈍なマウヤでもこのままでは「まずい」ということくらいはわかる。具体的になにがどうなるかまでの予測は立てられないが、神であるクナッハを怒らせて、良いことがあるはずもないということはわかる。


「メ、メワン! クナッハ様はわたしを騙したわけじゃ――」

「お前は黙っていろ」


 硬い声でそう命じたのはクナッハだった。主たるクナッハの言葉には、マウヤは逆らえない。なぜなら彼はクナッハに魂を握られている。神の侍者になるというのは、そういう契約をするということを意味していた。


 ぐっと喉が詰まるような感覚がマウヤを襲い、彼はクナッハの言うとおりに口を閉じるよりほか、なかった。


「私が騙すとはよく言う! こやつを騙くらかして侍者に仕立てたのは貴様らのほうだろう!」

「な――」

「一度神と契約し、侍者となった人間を元の徒人ただびとに戻せばどうなるか、貴様、わかっているな?」


 また反論しようとしていたメワンは、クナッハの言葉に口をつぐんだ。


 成り行きを見守るばかりのマウヤには、なにがなんだか、理解が追いつかない。


此度こたびもこやつを騙せると思ったら大間違いだ。もはやこやつは私のもの。手を出すことは何人なんびとたりとも許しはせん」


 不意に空が不気味に轟いて、マウヤはハッと頭上を仰ぎ見る。さきほどまで晴れ渡っていた空は、いつの間にか暗い雲がクナッハの屋敷の上でとぐろを巻いている。ごろごろと、また空が不機嫌そうな音を立てた。


「帰れ。まっすぐにな」

「そ――」

「帰れ、と私が言っている!」


 クナッハが吼えた瞬間、くうを引き裂く大音が鼓膜を震わした。次いでマウヤの視界に閃光が走り、まばゆい白に支配される。


 おどろきに肩を震わせて、思わずまぶたをきつく閉じた。ごろごろ。空がいっそう不機嫌そうな音を立てる。


 ふたたびまぶたを開けたとき、マウヤのそばにいたメワンは恐怖の表情に顔を引きつらせ、尻もちをついていた。


 そして焦げ臭いにおいに振り向くと、黒こげの木とかち合う。無惨に焦げついた一本の木は、真ん中から綺麗に裂けて、色白い木目をのぞかせている。


「あ」


 マウヤがその声を出したときには、メワンは奇妙な悲鳴を上げて門から遁走していた。


 残されたクナッハはひどく不機嫌そうなため息をつく。


「くだらん客に時間を取られた」


 忌々しげに吐き出された言葉に、マウヤは反射的に謝罪の言葉を口にする。


「すいません、クナッハ様」

「なぜお前が謝る。悪いのはお前を騙そうとした村の連中だ」

「あの、その騙すっていうのは……?」


 クナッハはちらりと門の向こうに視線をやる。メワンが立ち去ったのか、確認したのだろう。


 それからマウヤを見て、手で彼を招く。


「掃除はもういい。またお前がに騙されんよう、話しておいてやる」


 そう言われてしまっては、侍者であるマウヤが否やを唱える道はない。


 ほうきを納屋にしまいに言ったあと、屋敷に戻れば居間の大机の前にクナッハがすでに座って待っていた。机上には湯気を立てる茶器がふたつ。珍しいことにクナッハがわざわざ淹れてくれたようである。


「クナッハ様、お茶ならわたしが」

「そういうのはいいから、早く座れ」


 向かいの席を示されて、マウヤはおずおずと上等な椅子に腰かけた。


「どうせまたお前が市場などへ出たときに、あやつは甘言を弄して契約を破棄させようとしてくるだろう。一度した契約を破棄すればどうなるか、お前は知らんな?」

「はい」

「そうだろうな。……個人差はあるが、概ね契約を破棄し、徒人へと戻ることで良いことはない」


 そこで言葉を区切って、クナッハが茶器に口をつける。それを見てマウヤも茶器を手に取った。少しだけ口に含み、のどを潤す。そこで始めてマウヤは自身ののどが渇き切っていたのことに気づいた。


「『徒人へ戻る』と形容するが、『ただのひと』に戻れるわけではない」

「戻れないんですか?」

「そもそも侍者になるという契約は、破棄を前提としていない。破棄は出来るには出来るが、そこにはおのずと無理が生じる。その結果、『徒人』に戻れども、『ただのひと』には戻れん。……一生だれかしらの世話を受けねば生きていけない体になることも、珍しくはない」


 契約を破棄すれば、一生だれかの世話を受けなければならなくなる。クナッハのその言葉は、マウヤにとって衝撃的なものだった。


 マウヤは侍者になるという神との契約について、深く考えたことはなかった。なにせ試験なり、あるいは体を傷つけるというような、そういう試練はまったくなかったわけであるから、それは無理もないことである。


 それでもまさかになろうとは、微塵も思ってはいなかったのだから、マウヤのその衝撃はかなりのものであった。


 そして、メワンら庄屋の一家がそれを知っていて、マウヤに契約の破棄を迫ったことも。


「案ずるな」


 いつのまにかうつむいていたマウヤに、クナッハが声をかける。それは先ほどまでの緊張した様子とは違う、穏やかなものだった。


「お前はもう、私の侍者ものなのだ。そのような酷な目には遭わせん」

「クナッハ様……」

「ああいうのが来たからと言って、お前の村にも悪いことはしない。だからまたやつが来たとしても、あのような要求は撥ねつけるのだぞ」

「……はい」


 マウヤはクナッハの言葉に、知らず知らず、安堵の表情を浮かべていた。


 そして件のメワンであるが、クナッハの予想に反してマウヤがひとりになったときを見計らって説得に訪れる、というようなことはなかった。


 彼は再びクナッハの屋敷を訪れたのである。ラーエウトとナナトを連れて。

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