(11)

 臀部と尾てい骨を痛めた馬車の旅は一週間ほどで終わった。


 ティルダードからのを引き受けたのは、碧の決意の表明でもあった。自身が役に立てることならなんでもしよう。――この世界で生きていこう。そう、心に決めたのだ。


 それでも不安はある。碧には天に手をかざして雨雲を呼ぶといった芸当は出来はしない。そうであるから馬車の中ではずっと、いるのかどうかよくわからない月の女神に祈りを捧げた。それも形式ばったものではなく我流のものだ。果たしてこれで雨は降るのか、やはり引き受けなかったほうが良かったのではないか、と情緒不安定気味に後悔の念すら覚えることもあった。


 幼いころの夢を見たのは離宮を発って六日目のことであった。黄色いレインコートに、リボンのモチーフがついたぴかぴかの赤い雨靴。お気に入りの水玉模様のピンクの傘。新しく買ってもらった赤い雨靴を履くのが楽しみで、雨が降るのを今か今かと待っていた。


「アオ、早く雨が降るといいわねえ」


 遊びに来ていた祖母が笑う。


 そこで碧は目を覚ました。


 その夜は運良く野営はせずに住み、村長むらおさの邸に寄留していた。


 碧は簡素な寝台から上体を起こし――屋根を、軒先を、大地を、雨粒が静かに叩く音を聞いた。


 雨は村を発ち北の砦へたどり着くまで続き、碧が城主から盛大な歓迎を受けている今も静かに振り続けている。


「お恥ずかしながら『月の使い』の伝承はしょせん伝承と思っていたクチでありますが……しかしこのような御力を見せられては信じるほかありますまい」


 豪快に笑う将軍位のひとりだと言う城主は、禿頭が目立つ壮年ごろの男であった。


 今は「月の使い」を迎えての宴の真っ最中である。この砦に駐在している中でもそれなりの身分の持ち主を集めて、多少は騒がしく飲んでいる。それでもハメを外す者が出てこないのは、まだ宴が始まって時間が早いからか、あるいは身分に見合った分別を持っているからか……。


 その中で、もっともハメを外しそうな人間は、碧の右隣にいた。


 室内の上座の端、いわゆる「お誕生日席」に腰を下ろした碧の隣には先の将軍が座している。左隣には碧の給仕をするためにファフリが控えていたが、さすがと言うべきか、あまり存在感がなく、邪魔にならないようひっそりとたたずんでいる。


 碧の右隣にいる将軍はしきりと碧と話したがったが、あまりこの声を聞かせたくない碧は、首を横に振るか縦に振るかくらいの反応しか見せない。そしてその顔に微笑をたたえるので精一杯であった。


 なにしろこの将軍、ことあるごとに碧へと触るのだ。手をつかむくらいならば序の口で、今はがっつりと彼の左腕が碧の肩に回されている。


 ――こういうの、セクハラって言うのかな……?


 そうは思っても碧の少ない人生経験ではどうすればいいのやらわからない。そのうちに執拗に酒を勧められて碧はまた困ってしまう。


「お酒をお飲みになられましたらわたくしが連れ出しますから……」


 そんな碧の不安を察してくれたファフリが、そう耳打ちする。碧はその後のことをこの年かさの侍女に任せることにした。


 差し出された果実酒は、それほどアルコール度数の高いものではなかった。それでも杯いっぱいに三杯飲み干すころには、頭がくらくらとして来る。顔が熱くなっているのがわかった。視界の光が乱反射してきらきらと揺らめく。頭に耳から入った声が反響する。


 酔いが完全に回る前に、宣言通りファフリによって碧は首尾よく宴の席から連れ出された。


「お水をお持ちします」


 そう言い置いてファフリは碧に与えられた居室から出る。


 碧はと言えば、完全に……とは行かないまでも、ほとんど動けなくなっていた。


 寝台に体を横たえ、触り心地の良いクッションに顔を埋める。


 ――ジャハーンギルに会いたいな……。


 思えばこれほど長いあいだ顔を合わせなかったことは、知り合ってからこっちなかったことである。ダリュシュとして、ジャハーンギルは毎日のように碧の離宮をおとない、彼女の寂しさを慰めてくれた。


 そんな彼を喪うことがなくて、本当に良かったと碧は噛み締めるように思う。


 ――ジャハーン、ギル……。


 碧のまぶたがにわかに重くなる。頭の中を睡魔がとろとろと侵食して行く。


「――マハスティ様?」


 ファフリの声が聞こえ、起きなければと思ったのだが、そのときにはもう碧は眠りの淵へと引きずり込まれていた。



 薄暗い部屋に碧は立っていた。そばには見事な天蓋つきの寝台がある。しかし、それは碧の離宮にあるものとは違った。それよりもずっと大きく、天蓋の象嵌ぞうがんには金箔が貼られている。それを碧はしばらく眺めていた。


 ザクロの実を口にした二頭の獅子が向かい合わせに描かれている。なんとなく勇壮なその獅子を見ていると、この寝台の主は男性ではないかと思った。実際に男子禁制だと言う離宮の、寝台につけられた天蓋の象嵌は、勇ましい獣ではなく、優美な曲線を描くツタや花が彫られている。


 そうやってしばしのあいだ見事な象嵌を見物していた碧は、不意に寝台の向こうにある長椅子で黒い影がうごめいていることに気づく。


 ――なんだろう?


 好奇心もなく、ただその場の流れで長椅子へと近づいた碧は――絶句した。


 長椅子には、ジャハーンギルがいた。身間違えようもない、あのどこかあどけなさの残った顔は、かすかに歪んでいる。


 そしてその上には女が馬乗りになっていた。碧よりも年上だが、恐らくジャハーンギルよりは年下であろう。美しい黒髪を背に流した女の体は肉感的で、碧にはない色気があった。


 そして女はうっとりと笑っている。


 その顔を見た途端、碧の中に今までに感じたことのない嫌悪感が渦巻いた。


 碧とて一五になるのだから、ジャハーンギルらがなにをしようとしているのか、わからないわけではない。幸いにも彼らはまだ着衣のままであったが、いつそれが床に落ちるかは知れなかった。


 胃の腑の底が火で焼いたようにちりちりと痛んだ。ジャハーンギルの名を呼びたかった。けれども喉が引きつって、上手く声が出ない。


 ――やめて。


 碧は思わず腕を伸ばす。そうしてなにをしたかったのかはわからない。ジャハーンギルにすがりたかった? それとも女を突き飛ばしたかった? それは碧にもわからなかった。けれど、手を伸ばさずにはいられなかった。


 碧の手のひらに、まるで水をいっぱいに入れたビニール袋を押し上げるような感覚が広がる。薄い膜を手のひらで押し込む。そうしなければ、碧はジャハーンギルに届かない。


 見えない膜に邪魔されて、上手くジャハーンギルに近づけない。そのうちに碧の中にいら立ちが募る。


 腹立ちまぎれに膜に爪を立てたその瞬間、ぱちりとなにかが弾けた音が碧の耳の奥で響く。


 途端に体から力が抜けて、腹からなにものかに引っ張られるような感覚が襲う。エレベーターが停止するときのような、一瞬の無重力と浮遊感。


 そしてそれが過ぎれば、碧の体はジャハーンギルの居室の絨毯に落ちていた。


「なっ?!」

「きゃあっ?! な、なによ?!」


 驚きの眼差しを向ける二対の瞳を前に、碧はぽかんと間抜け面を晒した。



 *



「ティルダード……」

「なんですかな」


 翌朝、ジャハーンギルの居室に招かれた宰相ティルダードは、いつも通りの好々爺の顔で王の呼びかけに答える。


 かたわらにはジャハーンギルの影武者であるナームヴァル。そして当のジャハーンギルが座る長椅子の隣には、緊張の面持ちを見せる碧がいた。


 簡潔に言ってしまうと、碧はジャハーンギルの居室へ瞬間移動した。彼に言わせると、これも夢渡りの一種であるらしいのだが、その方面には疎い碧にはちんぷんかんぷんである。


 その後はまた多少の騒ぎになってしまったことは、言うまでもない。とりあえずジャハーンギルが北の砦に早馬を出したらしいのだが、馬が到着するまでの数日は向こうで大騒ぎになるであろうことは、想像に難くない。それを考えると碧は申し訳ない気持ちになった。


 しかし戻る手立てはわからない。単純に考えればまた夢を見ればいいのだろうが、果たしてあの北の砦にあてがわれた居室の夢を見られるのか……。完全に未知数であった。


 そういうわけでジャハーンギルは碧を自らの居室に留め――離宮に戻さなかったのは信頼できるファフリがいなかったからだ――朝を待ってひとまずナームヴァルとティルダードを呼び出した次第である。


 けれどもジャハーンギルは碧の身に起こった仔細を話すよりも先に、この気の抜けない宰相へ言いたいことがあるようだ。


 ティルダードもナームヴァルも、碧が「月の使い」の力で戻って来たということは聞き及んでいたので、ひとまずは王の話を先に聞こうという気にもなったようである。


「マハスティを北の砦へ行かせたのはこのためだったのだな?」

「なんのことですかな?」


 すっとぼけた声を出すティルダードに、ジャハーンギルの眉がぴくりと動いた。


「あの女のことだ! 妙な女をけしかけて……なんでも西の氏族の娘だと言うではないか。これは以前そなたが妻にと紹介した女であろう」

「陛下が悪いのですぞ。二五にもなろうというのに、未だ妻のひとりも迎えておらぬ……このままでは輝かしき陽の国メフラーヤールの直系の血筋が絶えてしまいますぞ」


 今度はよよよと涙をぬぐう仕草を見せるティルダードを前にして、ジャハーンギルは深いため息をついた。


「私のせいだと言うか……」

「はい。なにせ陛下は『月の使い』様が来てよりこのかた、『月の使い』様に夢中も夢中ですゆえ……。なれば『月の使い』様がご不在のときに女をけしかけるよりほかありますまい」


 だから北の砦の話を持ってきたのかと、碧は呆れるよりも感心してしまった。と同時にジャハーンギルを独占するような形になっていたという事実を知り、申し訳なく思う。


 しかしジャハーンギルのほうは呆れ返るばかりのようである。手のひらを額に当てて頭が痛いとばかりにうつむく。


 だがしばらくして顔を上げるや、ジャハーンギルは剣呑な色を帯びた目でティルダードを見据えた。


「妻は見繕わなくて良い」

「ほう。では御自らお決めになると」

「そうだ」

「しかしそれではいったいいつになるやら、ティルダードは心配で夜も眠れませぬ」


 どこか予断を許さぬやり取りに、碧は内心でハラハラとしながら成り行きを見守る。その心からは碧が生まれて初めて感じた嫉妬の心はどこか遠くへと消え去っていた。


「私には心に決めた人がいる。であるからしてそなたも枕を高くして眠れるであろう」

「ほうほう。心に決めた方が」


 ジャハーンギルの言葉に碧は静かに衝撃を受けていた。


 ――心に決めた人?


 いつの間にそんなひとが出来たのであろうか。そうなれば、自分との口づけはなんだったのだろうか。碧の頭の中にそんな考えがめまぐるしく駆け抜ける。


「そういうわけだ。余計な真似はしないでくれるか」

「ではそのお方の名をお伺いしたく存じます。ジャハーンギル陛下は尊き血筋のお方。となればその方と血を残す女子おなごについて、宰相として精査せねばなりませぬ」

「……その必要はない」

「なんと! でまかせでございましたか……」

「違う!」


 ジャハーンギルに形勢が傾いたかと思いきや、たちまちのうちにティルダードが主導権を取り戻してしまう。亀の甲より年の功。先人のことわざはたしかであった。


「それでは名は言えますな?」

「それは……」


 ジャハーンギルはちらりとかたわらにいる碧へと視線をやった。しかし衝撃から冷めやらぬ碧は、そんなことには気づきもしない。


 やがて観念したのか、ジャハーンギルは再び深いため息をついた。


「アオだ」


 名前を呼ばれた碧は、思わずジャハーンギルの顔を見る。碧の名を呼んだその頬は、かすかに紅潮していた。


「――ほう、聞き慣れぬ名ですな。異国の者ですかな?」

「そうだ」


 そう言うや、ジャハーンギルは碧の肩に腕を回し、彼女を引き寄せた。そして鼻先が触れそうなほど顔を近づけると、いつものあの柔らかな声音でこう言ったのだ。


「アオ、私の――いや、俺の伴侶となってはくれまいか?」


 碧は驚きにただ目を見開くよりほか、なかった。


 そしてティルダードとナームヴァルは、マハスティの本当の名が碧であるとこのとき知ったのである。


「企みは無駄に終わったな。最初から心底惚れてしまっていたんだから」


 かたわらに立つティルダードを揶揄するようにナームヴァルが言う。


「ううむ……『月の使い』様に不足はないが……しかしこれでは妃はひとりになってしまうのう……」

「そこはもう、あきらめるんだな。あとは『月の使い』様に期待しようではないか」


 そんなナームヴァルとティルダードの言葉は、ジャハーンギルと碧には届かない。すっかり彼らは、ふたりだけの世界に入り込んでしまっていた。


 視線を熱く絡ませ、その奥にある互いの思いを瞳を通じて伝え合う。


「結婚、とか、いきなり、すぎる、よ……」


 白い肌を赤く染めて碧はどうにかそれだけ搾り出すことが出来た。そんな碧に、ジャハーンギルの吐息がかかる。


「いやか?」


 碧はぐっと唇を噛み締める。けれどその深い藍色の瞳は恥ずかしげにとろけていたから、答えはもうわかっていた。


「その、聞き方は、ずるい……」


 そうして一度息を吐く。


「いや、じゃない。……すき」


 かすれた声で、けれどはっきりと、碧はそう告げた。



 ――陽の国メフラーヤールの史書にはこうある。


「月の使い」を妻に迎えた第三一代の王・ジャハーンギルが在位のあいだ、国は大いに栄え、のちに「ジャハーンギル王の黄金の都」と呼ばれたと言う。


「月の使い」とジャハーンギル王は大変仲睦まじく、のちのちの世までこのふたりは夫婦和合の証となった。ジャハーンギル王が建設した神殿で夫婦の誓いを交わせば、気持ちをたがえることなく生涯を共に出来るという言い伝えが残っている。

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月の乙女は陽の王と恋する運命(さだめ) やなぎ怜 @8nagi_0

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