そこにわたしはいらないから!

やなぎ怜

(1)

 納豆は大豆には戻れない。ひとたび腐女子となれば、一般人はおろか、非腐女子の女オタクに戻ることすら難しい。


 仮に腐女子ではなくなったという思いを抱いたならば、それは錯覚である。いつかまた、不意に触れた萌えにより、眠れし腐女子の魂は熱く燃え上がってしまうのだから。


 そう、納豆は大豆には戻れないのだ。


 腐女子は、治らないのだ。


 ――たとえ死んだとしても。



 *



 わたし、エミリー・シャーウッドには前世の記憶がある。より正確に言えば、前世のとある趣味にまつわる知識の記憶だけを持っている。そのことに気づいたのは八歳のときの話だ。そう、八歳のあの日……さえ起こらなければ、わたしは一般人でいられたかもしれないのだ。


 よくある中流の商家に一人娘として生まれたわたしは、父親が出入りしているお貴族様の家に同年代の子息がいたことから彼と遊ぶようになった。


 ニコル、という名の子息は輝く金色の巻き毛に、アクアマリンを思わせる澄んだブルーの瞳を持つ、俗っぽい言い方をすれば美ショタであった。まさしく紅顔の美少年といった風体の彼は、なよっちい見た目通りに気弱な性格でなにかあるとすぐに泣くので、子供っぽく勝ち気なわたしはいらいらとしたものだ。


 ニコルは貴族の子弟だというのにいじめられっ子だった。平民の粗野なガキ大将にオカマだなんだと囃したてられるとすぐに泣いてしまうのである。そういう態度がやつらをつけ上がらせるのだとニコルに言い聞かせてやっても、やつは麗しい顔をくしゃくしゃにして「でも」だの「だって」だのと煮え切らない態度であった。


 しびれを切らしたのはわたしが先であった。いつものようにガキ大将がニコルをいじめている現場に乗りこんで、ガキ大将とタイマンを張って見事勝利を収めたのである。決め手はボディーブロー。ガキ大将はみじめなうめき声を上げて地面に沈んだ。それ以来、ガキ大将はわたしに妙にへりくだるので自動的にわたしがガキ大将に昇格――この話はこのくらいでいいか。


 まあとにかく父親の商売の関係もあって、わたしはなにかとニコルの面倒を見ていたのである。いわゆる、幼馴染という間柄だ。


 ここではまだわたしは前世の記憶など一ミリも思い出しはしなかった。


 そう、ニコルだけなら……彼だけなら問題はなかったのだ。


 わたしにはニコルとは別に、もうひとり幼馴染がいる。名前はバートランド。わたしはバートと呼んでいる。彼はわたしと同じキングスリー――ニコルの家の領民であった。わたしとニコルよりひとつ上の、兄貴分みたいな存在である。


 ニコルとバートを引きあわせたのはわたしだ。子供の身勝手さで、いい加減ニコルの世話をするのにうんざりしたわたしは、お人好しのバートにその役をおっかぶせようとしたのである。今思い返すとなんとも自己中心的な人間であるが、子供というのはまあそんなものだろう。


 だが、これが間違いのもとだった。


 ……いや、当初は計画通り進んだのだ。人の好いバートはわたしの目論見通り弱々しいニコルの世話を進んでした。人見知りの激しいニコルも次第にバートへ心を開いていった。それでもまだ、ニコルはわたしと居たがったので三人で遊んでいた。わたしはひとりほくそ笑んでいた。このままニコルがバートと仲良くなればお役御免だと――のん気にそう思っていたのだ。


 事件はニコルの家でかくれんぼをしていたときに起こった。鬼になったわたしは面倒くさいと思いながら、ゆっくりとした足取りでふたりを探していた。


 そこでわたしは見てしまったのである。


 薔薇の茂みの陰で、ニコルの額にキスをするバートの姿を――。


 そこから先のことはよく覚えていない。わかっているのは、咲き乱れる薔薇色の記憶の渦へと突き落とされたことだけ。頭をけたたましく駆けめぐる異世界の記憶に翻弄され、目を回したわたしは、気がつくとニコルの家の長椅子に横たえられていた。


 そして目覚めたわたしは――腐女子になっていた。いや、再び腐女子として目覚めたと言っていいだろう。わたしの魂はもとから腐っていたのだから。


 腐女子としての魂を覚醒させたわたしは、今自分のいる世界が天国にも等しいことに気づいた。なぜならこの世界、多様な恋愛の形態が容認されており、ごく普通に同性同士でも恋人になるし、結婚だってできるのだ。子供同士の他愛ない恋バナでだって同性の名前が出せる。そういう世界なのである。


 BLの、マイノリティである部分に「萌え」を見出している人間からすると、こういうのは「萎え」要素であろう。だがわたしはバッチオッケーであった。受けが新妻になるシチュから男性妊娠まで、わたしはオッケーである。そして腐女子として覚醒してから数年後、学校のいわゆる「保健の授業」で同性同士でも子供を作る方法があると知ったときは興奮した。そして確信したのである。ここは――天国だと。


 こんな世界であればBL本はたくさんあるに違いない。わたしはそう考えた。そしてそれは実際当たっていた。そこまではいい。問題は、この世界において本は大変高価な品であるという点であった。


 わたしは絶望した。わたしの少ない小遣いでは、本などとうてい手が届かない。――そんなむごい世界に、絶望した。


 そしてわたしは飢えた。腐女子にとってBLは、日々を過ごすためにかかせないものなのである。だというのに、それが供給されない。手にすることができない。――それは、圧倒的な飢餓であった。


「三次は惨事」という人間をナマモノ萌えに目覚めさせ、固定厨をモブ攻めからリバ(リバース。攻め受けが逆転すること)までなんでもいける雑食に変えるほどの、飢餓であった。


 ――罰が当たったのかしら?


 BLにハマりたてのリア厨(現役中学生)の頃は来るもの拒まずの女だった。新世界BLの景色の虜となり、BLであればなんでもよかった。いや、BLでなくても良かった。あらゆる場所に萌えを見出すことが出来た。


 だが年を経るごとに萌えは落ち着き、嗜好は限定され、地雷を自覚し、新たな萌えの平原を積極的に切り拓こうとはしなくなった。リアの頃に持っていた、恐ろしいまでの熱量は遥か遠く……。


 それは成熟かもしれない。けれども時折リアの頃の情熱を懐かしく思う、完全なBBAとなって行ったのも事実。知らないアニメキャラが増えたら老化の始まりとはよく言ったものだわ。


 そうして情熱を忘れ、食わず嫌いは常となり、選り好みをして――気がつけば萌えの飢餓に襲われる世界に落ちてしまった。


 ここがわたしの、餓鬼道なのかもしれない。


 けれどもわたしは永遠の腐女子。魂まで腐り切った女。餓鬼道に落ちたならば、そこでまた掛け算をしてしまう――腐ェニックスとなろう。


 そしてわたしは目覚めた。


 ナマモノ(実在人物)BLに。


 そしてわたしは萌えた。


 幼馴染に。


 ――気づいてしまったのだ。幼馴染ふたりが萌えの塊なのだと。金髪碧眼の薄幸の美少年貴族に、そんな彼の世話をする平民の兄貴分。身分差萌え、身長差萌え、体格差萌え、幼馴染萌え……様々な萌えがそこには詰まっていた。


 ナマモノなんて……そう思っていた自分をぶん殴りたくなるほどの萌えが、そこにはあった。青い鳥はそばにいた。天国はここにあった。


 ――ナマモノはすごい。だって本人が生き続ける限り供給があるんだもの。沼だわ。底なし沼だわ。公式からの供給が途絶えてむせび泣くことなんてないのよ。


 わたしは感動した。五体投地してこの世のあらゆる神に感謝するほどの感動だった。神はわたしを見捨てなかったのだ。ナマモノBLという新天地をわたしに与えたもうたのだ。


 わたしはこの恵みに感謝した。


 ……そうしてわたしは八歳のある日から、ニコルとバートを腐った目で見る女となったのである。


 八歳のときからあらゆる男たちをカップリングさせてきたが、結局一番萌えるのはニコルとバートであった。


 カップリングはバート×ニコルの下剋上(地位・年齢などが下の人間が攻めになる)が基本であったが、バート×ニコル×バートのリバで萌えることもあった。つまるところ、このふたりが絡んでいるのならわたしはなんだっていいのだ。なんでもおいしくいただけるのだ。


 過酷な環境下で生き延びるためにわたしは自らを進化させ、雑食となったのである。


 まあわたしのことはどうでもいい。ニコルとバートだ。バーニコ(バート×ニコルの略)だ。このふたりは長じるにつれて互いを想い合うようになっていった。まさに公式が最大手状態である。ガソリンをぶっかけて火を放たれたくらいの萌えの供給がわたしを襲い、わたしは大いに潤った。


 そんなふたりをわたしはそ知らぬふりして応援した。むろん、くっつくようにだ。湧き上がるパッションを押さえて至極冷静にアドバイスした。相手があの人を好きなのかも! などと疑心暗鬼に駆られたときには優しくフォローした。下心があることに罪悪感はあったが、無理やりくっつけようとしているわけではないと自分を言い聞かせた。


 もちろん、そうやって相談に乗っている合間にそれとなく萌えエピソードを発掘することも忘れなかった。相談に乗ってあげる駄賃のようなものだ。減るもんじゃなしに、いいだろう、ぐへへへへへへ――ってな調子でわたしは色々と聞き出した。


 やっぱり定番は「なにがきっかけで好きだと自覚したか?」だよね!


 で、どうなのよバート。


「え? えー……なんだろう? そうだな……ふと見たときにニコルってまつ毛が長いなーって思って。それから気がついたら目で追うようになっていたっていうか……」


「まつげが長い」……?


 まつげが! 長い!


 もはやBLでは、横断歩道を渡れるのは信号が青のときという常識くらい浸透した、ベタもベタのベッタベタの鉄板ネタが! 様式美が! 今! バートの口から!


 でも好き! ベタだけど大好き! 受けが桜にさらわれそうになると攻めが錯覚するシチュくらい好き! 攻めが女と歩いていて受けが誤解するけど実は肉親だった、あるいは受けのためにプレゼントを選んでいたというシチュくらい好き!


 ありがたやありがたや……。この萌えを噛み締めてしばらく生きて行けるわ……。


 ――とまあこんな感じでわたしはふたりの相談に乗りつつ、コンスタントに萌えを補給していたのであった。


 そうやってキューピッドとして飛び回った結果……。ついに! ついに!


「エミリー、話があるんだけど」


 なにやら神妙な面持ちのニコルとバートに連れられてやって来たのは学園の裏庭にある薔薇園だった。


 わたしたちは十六歳と十七歳になり、今はこの王立学園に通っている。そう、わたしが腐女子として覚醒し、バーニコに萌えてから実に八年の月日が経過していたのだ。バーニコは我ながら息の長いカップリングと言える。いや、前世では余裕で云十年前にハマったカプ(カップリング)で萌えられていたからまだまだだな。


「どうかしたの?」


 わたしはすまし顔で答える。そう、わたしは中身はこんなだが普段はクールキャラで通しているのだ。このキャラのいいところは不意の萌えに襲われ、ポーカーフェイスを装備しても怪しまれない点である。まあ、そんなことはどうでもよろしい。問題はバーニコよ。バーニコ。


 ふたりはもじもじと明らかに挙動不審な様子であった。これを見てわたしは気づいた。いや、裏庭に呼び出された時点で予感はしていた。


 先に口を開いたのはニコルだ。昔の可憐さそのままに精悍さを加え、やたらきらきらしい王子様へと成長した彼が、長いまつ毛を震わせて言う。


「実は……バートと付き合うことになったんだ」


 はい、来た。聞きました? 皆さん。付き合う……つまりバーニコは公式。公式ですよ。本当ならば今この場で床ローリングしたいほどの喜びがわたしを襲っている。というか萌えが振り切れて逆に冷静だわ。


「よかったわね」


 わたしは心の底からそう言った。そう、心の底から。冷めたように聞こえるのはたぎるパッションを押し込んでいるせいである。仕方がない。この枷を外してしまえばわたしは変質者の烙印を押されてしまうのは確実だ。


 わたしの努力は報われ、晴れてバーニコは公式となった。我が世の春が来たと言っても過言ではない。ここからが本番だ。これからじっくりと恋人として付き合いを深め、いずれは結婚。そして子供が生まれ、ふたりは家庭を作って行くのだ。そしてわたしはそれを陰から見守る……。完璧な人生プランだわ。


 わたしは悦に入っていた。目論見どおりふたりがくっつき、有頂天になっていた。


 だから気づかなかったのだ。ふたりが不穏な空気をかもし出していたなどとは――。

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