電話の練習

玉手箱つづら

電話の練習

 人気お笑いコンビ「ジャンゴごんジャーゴン」、通称「ジャンゴン」が改元に合わせ「令和ストロガノフ」に名を変え、初めて披露したネタは「電話の練習」だった。

 


 ゴールデンウィークと新元号のお祝いムードに乗っかった生放送特番「レイワお笑いICHIBAN-NORI!」は、三時間半の間、順々に人気芸人たちがネタを披露していく形式の番組だった。

 観覧席には今をときめく人気俳優たちが顔を並べ、時おり司会者から感想を聞かれては気に入ったネタを誉めちぎった。何人か、昭和時代にお笑いスターであったような大御所芸人も混じってはいたが、基本的にはおかしそうにニコニコ笑っていて、しかし派手にスベった若手がいればしっかりとイジりの助け船を出してやり、番組のゆるく愉快な雰囲気に貢献した。

 令和ストロガノフは十数年前に漫才の大きな賞レースで優勝をおさめて以来ずっと人気をキープしているコンビで、今なおその実力は評価され続けている。コンビ名を変えて話題を呼んだことも手伝って、この番組のトリを任されていた。

 番組終盤──十一時十五分すぎ。

 待ちに待った新生ジャンゴンへの期待感と、長丁場がじきに終わるという開放感が入り交じるなか、ステージ奥の電動ゲートが開いた。小太りの男二人──松(ツッコミ)とイルカ(ボケ)が、並んで小階段を降りてくる。マイクに顔を寄せる。

「どうもー『ジャンゴ言ジャーゴン』改め『令和ストロガノフ』ですー、よろしくお願いしますー」

「略して『令和』って呼んでくださーい」

「新元号そのものじゃねえか」

 松のツッコミにスタジオが沸く。そこにイルカが「このボケ、今日しか使いませんからね。プレミアムです」と重ね、さらなる笑いが起こる。

 テレビの画面には若手女優が口を隠して笑う様子が映された。

「ところでなんですけど」

「どうしたよ」

「僕、電話が苦手なんですよ」

「あー、電話な。まあ分かるけどもさ」

「なんかテンションが掴めないというか、気持ちが焦っちゃって」

「顔が見えないですからね。わかるわかる。掛けるならともかく、掛かってくるのはいっつも急だしな」

「そうなんですよ。何の準備もないし、話してるうちにどんどん自分の心から遠ざかっていくみたいになっちゃって……」

 と言って、イルカが客席の方を向く。

「だから僕は、電話に出んわ。つってね!」

「よく言えたなおい! もう令和だぞお前!」

 また会場が沸く。

「いやこんなギャグ平成でも昭和でも通用しねえよ」

「だからよく言えたなって言ってんだよ!」

 若手女優はどうやらツボに入ってしまったらしく、耳まで真っ赤にして身を震わせた。

 松は、ふぅ、と息をひとつ吐いて「まあ、でもそうよ」と改めて切り出す。

「実際俺も苦手なんだよな、電話」

「でしょー! だからさ、練習しませんか?」

「練習って、え、電話の?」

「そう。いつ掛かってきてもいいように練習しようぜ。ちょうどバナナ二本持ってるからさ」

「いや、なんでバナナ持ってきてんだよ」

「いいからほら! これを電話だと思って!」

「おいお前……これ今日のトリだぞ。いいのかこんな画で……」

 言いながら、松はイルカに渡されたバナナをポケットにしまう。「つーか普通にスマホで練習すればいいだろ……」と呟いて、また笑いを誘う。イルカもズボンの尻ポケットにバナナを入れる。

 数秒の間があって、二人が同時に「トゥルルルルル」と電話の声真似をし、「お、電話だ」と言ってバナナを手に取る。


「はい、松です」

「もしもし、大沢清志です」

「あれ?すいません、電波のせいかな、よく聞こえないんですけど」

「あ、これ僕の本名です」

「それが地声なのかよ! それ地声ですか、大変だなあ、ねえ」

「はい、はいすいません、イルカです。人間のイルカです」

「いやそんな謝ってもらうことじゃないですけど……」

「え? 今ですか? うん、まあ大丈夫ですけど」

「嘘かよ! 嘘ならもっとちゃんと謝ってけよ!」

「はい。はい。いえ、全然大丈夫ですよ」

「まあ、そんな怒ってはないけどよ」

「ただ熱があって、今も電話の声で頭が死ぬほど痛いくらいですよ、ハハハハハ」

「で? なんですか話って」

「はい、三十五度もあって」

「まずその導入パートってのやめろ。これ会話だぞ、構成っぽく言うな」

「ハハハ、いやあ、熱は熱でしょう……熱ぅ……熱でしょうが!じゃあ三十五度の火であっためたら水は凍るんですか!」

「いやテイクツーとかもねえよ。そっちで何を撮り出したんだよ」

「もう知りません! 勝手にしなさい! もう切りますからね! 知りませんから! また掛けてきてもね、僕はね、絶対ね、電話にね……」

「タイトル聞いたわけじゃねえよ!」

「出んわ! ガチャっ!」

「……おい。おいイルカさん。おい」

 

 松が振り返り、イルカの肩を掴む。イルカは「うぉあ!」と驚いて、まるで幽霊でも見ているかのような顔をして、首をすくめる。

「な、なんですか……」

「いやまあ、色々な、色々言いたいことはある。電話に出んわは二度と使うなとかな」

「はい」

 会話のなかで、二人はさりげなくバナナをポケットにしまう。観客席から、ほっ、と息をつく声が聞こえた。

「本名っつって俺の本名名乗るのやめろとか」

「……はい」

「なんでちょっと不満げなんだよ」

 今までジャンゴンがテレビで見せてきたネタはどれも、素直なコント風漫才だった。何かしらの設定に基づいて話を展開し、イルカがボケ、松がツッコむ、分かりやすい笑い。冒頭や今のような会話で全編が構成される、スタンダードな笑いだった。

 それがどうも、今日は様子が違う。いったい、何が起きている? 観覧席には戸惑いの空気が流れていた。現に今の松のツッコミにも、会場はまったく沸かない。

 ゲスト席の大御所芸人──学舎まなびやにぎやかが、難しい顔をしてステージを眺める様子が映し出された。和服の襟から手を出して、顎のあたりを掻いている。

「まあいいわ、とにかく色々言いたいことは我慢して一つだけ、一つだけ言っとくからな」

 張り詰めた空気のなか、松はいつも通りの落ち着いたトーンで続ける。

「電話を切るな」

 ごくん、と誰かが唾を飲む。

 若手女優――神酒みきいつき、通称「ミキキ」だけは、先ほどからずっと笑い通しで、今もキラキラと目を輝かせて二人を見ていた。

「絶対に切るな。練習だぞこれ。そんな簡単にやめられると思うな」 

「……はい」

「電話が上手くなるまで一生やるからな。一生切るなよ。分かったか」

「はい!」

 ヤケクソ気味なイルカの答えに、松は「それでいいんだよ」と肩をはたく。

「じゃあやるぞ」

 言って、二人はまた背中合わせになる。「トゥルルル」と口真似をし、同時にポケットのバナナを取る。


「もしもし」

「あい……誰ですかこんな時間に……。寝てたんですけど……」

「そうだよ、大沢だよ。そちらは?」

「むにゃ……係長? ……遅刻? うーん……あと五分……」

「いや責任者出してくれって言ったでしょうよ。私にはどうにも、ってまた言うんでしょ?」

「はっ! はい! はい起きてます! はい! はいもうスーツです、はい!」

「だからあ! 開けたときには壊れてたんだって! 普通交換だろうよこんなもん!」

「電車です! 今ドア閉まります! もう着きますんで!」

「そうだよ! ……わかったよ。冷静に、冷静にな……でもほんと、何度も言ってるんですよ……」

「降りました! 今会社の前です! そしてぇ……係長の後ろです! バァ!」

「このレンジ200キロカロリー超えたら温めてくれないんだって」

「……はい。はいすいません。まだベッドです。はい」

「いや本当だって。境目を調べるために無茶苦茶試したんだよ。今テーブルにカッチカチの冷食並んでんのよ」

「あー、風邪、風邪かもしれない。うぇ、ウェホッ! ウェホッ! あー、インフルエンザと、あとノロも罹ってる気がするな」

「ヘルシーが横暴すぎるわ」

「……はい。すいません。健康です。なんなら調子はすごくいいです。よく寝たんで」

「あーわかったよ。いや分かってはねえけどよ。だとしても、それならそう書いとけって話になるだろうよ」

「あーああ、車に軽く轢かれちゃおっかなー」

「望むか。こんな歪なイノベーション喜ぶ奴そういねえわ」

「え、今ですか? 今シャワーです」

「だから、だったら普通のやつと交換してくれって。ちげえよ、そういうんじゃなくて……あ? なに?」

「現実と向き合うのが怖くて……シャンプーしてる間は目を閉じていられるから……」

「いや餅は要らねえよ」

「見えなーい。何も見えなーい。聞こえなーい」

「味付けは関係ねえよ。もっと根本的な……」

「……はい。はい。すいません。はい。開いてます。向き合ってます。はい」

「ヘルシーはもっと関係ねえよ! 次ヘルシーって言ったらてめえの油分ぜんぶ搾りだすぞ!」

「あの……午前休とかにしてもらうことできないですかね?」

「だからずっとそう言ってるだろ! ヘルシーを押し付けないレンジと替えてくれればそれでいいんだよ! ……わかったって。冷静にな。わかったから」

「あ、もう午後なんですね……なんだ、起こしてくれればよかったのに」

「全てなわけねえだろ! 軽々しく全てとか言ってんじゃねえぞ!」

「すいません! すいません違うんです! 親! 母親に言ったんです! 起こしてくれよって!」

「もういいよ! じゃあ返金してくれよ!」

「いえ。母は死んでいます」

「だからなんで食べ物で返そうとするんだよ! 何もらっても温めることすらままならねえんだぞこっちは!」

「だから! 化けて出てくるくらいしてもいいじゃん、ってことですよ。……おーい!」

「わかったよ! じゃあ俺金食うよ! 諭吉温めて食うから現金で返してくれよ、なあ!」

「母ちゃん見てるかあ! 天国からこの地獄は見えるかなあ! 母ちゃんが起こしてくれないから俺怒られてるよ! どう思うんだ母ちゃん!」

「うるせえ食うったら食うんだよ! ホクホクに温めて食うんだ馬鹿野郎! カロリーもねえだろあんな紙きれによお!」

「息子がひと回り下の上司に怒られてるんだよ! かわいそうだと思わないの! 思うよなあ!

 でも、母ちゃん。そして係長。かわいそうなのは俺ばっかりじゃないんだよ。ないんですよ」

「今更正気に戻ろうとしても遅えよ! 絶対食うぞ俺は! 俺が食うって言ったらなんだって食うんだ!」

「俺の悲しみなんて、世の悲しみに比べたら、無いような……なんだか分かんなくなっちゃうようなもんなんですよ。世の中の……松さぁん!」

 イルカが振り返る。

「松さぁん!」

「……なんだよ」

 松の声が掠れている。

 イルカはバナナを顔に当てたまま続ける。

「松さん……俺たち、誰と何を話してるんですか」

「誰とって、んなこと……」

 松が、ゆっくりと、肩越しにイルカを見る。

「わからねえよ」

 ステージの照明が落ちる。観覧席から、意味のない悲鳴があがる。

 


 ステージ裏を通って、司会を務めるベテラン芸人のもとへ松とイルカが帰ってくる。「お前ら、やったなあ!」と苦笑する司会者に、松はヘコヘコと頭を下げて笑う。

「すいません、やっちゃいました」

「もー、すいませんちゃうぞほんま」

 ポン、ポン、と大げさに松の肩が叩かれる。二人の手で、バナナが所在なさげにうなだれた。

 スタジオの緊張が、ようやく緩みはじめる。それをしっかりと感じ取ってから、司会者はゲスト席に顔を向ける。

「でもミキキちゃんだけは結構ウケてたみたいね?」

「えっ。あ、はい」

 神酒は自分に振られるとは思っていなかったようで、たったいま目が覚めたかのように、曖昧に応える。

「おもしろかった、です。えっ、あの……笑ってたの私だけ、でした?」

「だけでしたねえ」

 司会の言葉に、観覧席から笑いが漏れる。

「だけってことはないでしょうよ!」と松が横からツッコミを入れると「いや、本当にだけだったよ」とイルカが更に口を挟む。「大変なことよ」と、深刻そうに言うと、会場がどっと沸く。

「いや今ウケてどうすんねん」

 司会のツッコミで、いよいよスタジオが笑いに包まれる。松もイルカも、うっすらとではあるが、その顔に安堵をにじませた。

 画面外で、すーっ、とひと呼吸して、司会者が番組を締めにかかろうとした、その瞬間だった。

「ジャンゴンー!」

 張り裂けるような怒号と共に、学舎にぎやかがゲスト席から立ち上がった。他のゲストやスタッフたちを老体とは思えない力で押しのけ、叫び続けながらステージに詰め寄る。

「ジャンゴンー! オノレらぁ!」

 勢いそのまま松に掴みかかろうとする大御所を、司会者が慌てて抱き抑える。

「ジャンゴンー!」

「師匠! 落ち着いてください! 師匠!」

 にぎやかは司会の手をくぐり抜けるべく体を揺らし、よじり、あがきつづける。その間、視線はずっと令和ストロガノフの二人にのみ向けられていた。

「松ぅ! イルカぁ! オノ、レっ……どっ、オォ……ぐぅっ!」

 にぎやかの膝が、ガクンと力を失う。突然全体重を預けられた司会者は、そのままにぎやかを庇う形で、後ろ手に倒れた。

「師匠? にぎやか師匠!」

「あぐっ……がっ……」

 にぎやかは右手で自分の胸の辺りを掴み、苦しそうに呻いている。それを見た誰かが、また、大きな悲鳴をあげる。カメラはまったく動かない。

 にぎやかが白目をむき、泡を吐く。

「救急車!」

 司会者の声が響き、生放送は唐突に終わった。


 ――・――・――・――・――・――

 

 病院に運ばれた学舎にぎやかは三日間の昏睡の末、どうにか一命を取り留めた。生放送中の事件だったために世間の注目度も高く、病院ではマスコミを集めての会見が開かれた。

 にぎやかは元々心臓と頭に軽い持病があり、通院もしていたのだが、今回極度の興奮状態によって発作を起こし、さらにそこにショック症状も重なってしまったために危険な状態になってしまった、と担当医は説明した。

「一時は命の危険もありましたが今は落ち着いていますし、元々の疾患自体は軽度のものです。もうしばらく入院はしていただくことになりますが、回復された後は今まで通り芸能活動もしていただけるかと思います」

「復帰はいつ頃になりますか」

「もちろん状態にもよりますが、退院された後の休息期間も含めて、少なくとも三ヶ月ほどは見る方向でご本人とお話しさせていただいております」

 にぎやかの容態が安定したことで、それまでの数日間、うろたえ、どよめいていた世論も少し平静さを取り戻した。にぎやかの倒れかたが派手だったこともあり、かの大御所芸人はこのまま死んでしまうのだろうというのが大勢の見方だったのだ。

 怖ろしいものを見たショックで体調を崩す人々も散見され、テレビ局は放送翌日の朝にホームページに謝罪文を掲載した。喪に服すかのようにバラエティ番組の視聴率は軒並み下がり、各所のインターネット掲示板では「何だか大変なことが起きている」という空気に突き動かされるばかりで特に何を議論するでもないスレッドが、何十パートもその数を伸ばしていった。

 松もイルカも米粒ひとつ喉に通らず、見る見るやつれていっているらしいなどという噂が、あらゆる場所で囁かれた。

 こうした恐慌が先の会見によって収まって、ようやく、人々はあの日起こったことについて考えはじめた。


「そもそもにぎやかってどうしてあんなに怒ってたの?」

「そらジャンゴンがスベりたおしたからでしょ」

「生放送の大トリであれはなー」

「生放送って言うならキレ散らかすほうもどうなんだって話」

「それな。普通にパワハラでしょあんなん。あのまま死んどけば良かったのに」

「にぎやかはジャンゴン可愛がってたからな。大トリに推したって話もあるし、程度はともかく怒るのも無理はない」

「パワハラするやつの常套句じゃん。期待してたら何してもいいわけか?」

「何してもとは言ってねえわ」

「おいお前ら! にぎやか師匠が何したんだよ! ジジイが勝手に死にかけただけだろ!」

「それが一番迷惑なんだよなあ……」

「ジャンゴンのスベりなんてかわいいレベルで空気凍ったろ。ショックで学校休んだガキもいたらしいじゃん」

「若者の健やかなる成長を阻害する老害」

「あれでショック受けるガキなんてどうせまともに育たねえよ」

「そもそもジャンゴンって言うほどスベってたか?」

「ミキキおるやん」

「うんうんウケたよね、ところで君ラインやってる?」

「スベってたっつーかウケる気ないだろあれ。なんであんなんやったんだ」

「無難にカニか双子姉妹でよかったのにな」

「無難に行きたい奴があんな改名するかよ」

「お前らみたいなゴミにはわからんよ。頂に辿りついてしまった者の気持ちはな」

「ミキキにしか分からなかったな」

「でもうちの犬は楽しそうな顔して見てたよ」

「やっぱり犬ってアホなんだニャー」

 


 こういったやりとりがネット中にあふれ、マスコミが世間の声としてそれを取り上げ、実社会でも事件が揶揄混じりに語られはじめた頃、神酒樹がインスタグラムに一枚の写真を投稿した。

『STUDY』と題されたその写真の中心には、まだ熟していない緑色のバナナが一本置かれていて、キャンパスノートと散らばった鉛筆がその下敷きになっている。加工もされていなければ、構図もただ上から被写体を収めただけの、素っ気ない写真だった。

 今まで神酒が投稿してきた愛想に満ちた写真群とは明らかに様子が違う一枚に、ファンたちは少なからず動揺した。投稿ページに付けられた説明も一言だけ、「#まだ難しい」のタグのみであり、その真意は誰にも判らなかった。

 ただ、このタイミングでバナナを出してくる以上は、「電話の練習」と何かしらの関係があるのだろうという認識は共有され、これに基づき様々な推測が飛び交った。

 ある者はにぎやかに対する怒りの表明だと言い、またある者は神酒と令和ストロガノフのどちらかとが交際しているのではないかと言った。神酒は精神を病んだのだとする者もいれば、よっぽどあのネタが面白かったんだなと笑う者もいた。神酒側からの更なる発信はなかった。

 神酒やその事務所に取材を試みるメディアもちらほらと現れたが、本人はなかなか捕まらず、事務所もいやにノーコメントを徹底していて、得るものの少なさに心折れてか、みな即座に撤退してしまった。


 

 数日が経って、おそらくはにぎやかが倒れた翌日に収録されたと思われる番組で令和ストロガノフの二人が特大サイズのデカ盛りカツ丼を食べていたことが発覚し、やれ不謹慎だ、いやプロ根性だと、ふざけ半分で語らっていた掲示板に、唐突にURLが貼り付けられた。

「お前ら絶対に荒らすなよ」とだけ添えられたそれは、一般のお笑いマニアによる個人ブログのURLだった。お笑い番組や芸人のラジオ、お笑いライブ、果てはYouTube等での配信まで、芸人たちの活動が幅広く追われ、ポツポツと素朴な感想が記されている。

 いかにも趣味で運営されているものらしい、穏健でこぢんまりとしたこのブログのなかで、しかし最新の記事のタイトルだけが、明らかに不穏な空気を放っていた。

『マナビヤニギヤカは今すぐ退院して令和ストロガノフにドゲザ謝罪しろ!』。記事の内容は以下の通りだった。


 僕はとても怒っています。激しい怒りを感じている。

 このブログは平和にやっていこうと思っていました。それは読む人にお笑いの楽しさを感じてもらうことがこのブログの目的だからです。

 でも今回は、怒らなくちゃいけない。

 僕の大好きな、愛する、お笑い文化のためにです。

 一応説明しますが「レイワお笑いICHIBAN-NORI」での令ストの話です。

 大トリだった令ストは、確かに攻めたネタを披露しました。僕は彼らが大好きで、このネタもシュールで面白いと思いましたが、会場のウケは悪かった。贔屓目に見ても「スベっていた」ことに間違いはありません。

 そのことは彼ら自身も自覚しているでしょう。

 しかし問題はその後です。ニュースでも連日騒がれて、知らない人はいないかと思いますが、観覧ゲスト枠で呼ばれていた学舎にぎやかが、スベった令ストを怒鳴りつけ、掴みかかろうと暴れて、頭をプツンとやって倒れたのです!

 もう一度言います。私は怒っています!

 スベってもチヤホヤしろと言いたいわけではありません。先達として色々と意見してやるのも大切なことです。しかしそんなものは裏でやるべきだし、裏でもあんな風に怒鳴るのは指導でも育成でもなくただの恫喝で、暴力ですらあります。

 ある意味表でよかった、あんなことはあってはならないので、それを知ることができたのはよかったわけですが、お笑い界のイメージは、この蛮行で大いに傷つきました。

「令和」を冠した番組で、いまだに「昭和」を引きずっているかのような光景が放映されるなんて、冗談にもならない、まったく笑えないことです。

 僕は芸人の真の力が出る生放送が大好きで、今回の番組もとても喜ばしく思っていましたが、こんなことがあったのではそれも今後は難しくなるでしょう。老害……なんて言葉は本当は使いたくないのですが、しかしこの老人が百害あって一利なしであることは間違いない。

 そもそも、今回やたらと「オオゴショ芸人のマナビヤニギヤカが倒れた」と報道なんかでも言われていますが、これも大きな間違いです。彼に大御所と呼ばれるほどの実力はない。

 平成生まれの若い人たちなんかは知らないようですが、「学舎にぎやか・しずか」というコンビは、ニギヤカの相方の「学舎しずか」の力によって売れることができたのです。

 学舎しずかは真の天才芸人でした。彼の書いたネタは、本当に多くの人間を笑顔にしてきた。「混ぜっ返し」の技術においてしずかを超える芸人は未だに現れていないと僕は思っています。

 そして、マナビヤニギヤカというのは、しずかの脚本を覚えて暗唱するだけの役者であり、芸人ではないのです。

 ニギヤカは(今では普通なことになりつつありますが)当時としては珍しく、大学を出てから芸人になりました。しかし学問は笑いに通用しなかったらしく、まったく泣かず飛ばすの時期を何年も過ごしていたのです。自力でウケることは無理だと悟ったニギヤカは、当時若手のなかで有望株だったしずかに目を付け、毎日しずかのアパートに押しかけて土下座で頼み込み、ようやくコンビを組んだのです。

 これは当時を知る人間なら誰でも知っていることです。

 平成の頭ごろ、しずかが急な病で亡くなってしまった時、我々はひとつの時代の終わりを感じたものです。あの時代を知る者は皆、彼の死を心から惜しんだ。

 ニギヤカは、相方を失ってからネタらしいネタは一切披露していません。ネームバリューと政治力でテレビの世界と事務所に寄生していただけ。そういうところでは大卒の価値が出たのかもしれませんね、皮肉なものですが。

 つまり、令ストがどんなにスベっていたとしても、ニギヤカはそれを批判できるような立場では決してないのです。

 私は言いたい。身の程を知れ、と。

 そもそも、ニギヤカは本当に怒っていたのでしょうか?

 令ストのネタは、確かに会場にはウケなかった。これは事実です。

 しかし同時に、基本に忠実なネタを高い完成度で繰り出して笑王チャンピオンの座に輝き、以来ずっとお笑い界最大の実力派芸人コンビとされてきた「ジャンゴ言ジャーゴン」の二人の、新たな挑戦の一歩であったことも明らかなのです。

 彼らは普通にやってさえいれば、普通に生き残ることができる。それだけの成果を既に出してきました。

 そんな彼らが、世に馴染んだ名をわざわざ改名し、自らの殻を破って戦おうとしている。「電話の練習」は、その決意の強さ、熱い心を感じることができるネタでした……一般人ならともかく、芸人にその熱が伝わらないはずがない!

 ニギヤカは、ハッキリと世に表明するべきです。

 松とイルカの、お笑いにかける情熱に嫉妬し、笑いの道を捨てて生き延びた自分が恥ずかしくなり、発狂してしまったのだと。

 倒れたのだって、僕は本当か疑っています。ニギヤカは役者ですからね。引くに引けなくなったからなのか、それとも令ストの舞台を滅茶苦茶にするためなのか分かりませんが、「演技」だった可能性も捨てるべきではないと考えています。医者に金を積んで適当言わせることだって可能でしょう。

 ともかく、マナビヤニギヤカは、もう笑いの世界に不要な人間です。

 病気が本当でも嘘でも、これはいい機会なわけだから、さっさと引退するべきです。いい加減亡くなった相方の影から出ていきなさい。

 そして、どうせ大した症状じゃないと言っているのだから、今すぐにでも退院して、令ストの二人に謝りに行け!

 大バカタレ!

 

「荒らすな」と言われたからといって素直に聞くようなものではないことは誰しもが理解していて、URLを貼った本人にもそれは分かっていた。今までメッセージを残す者などいなかったコメント欄には、百件を超えるほどの暴言が一気に書き込まれ、記事本文は筆者に無許可のまま、あらゆる掲示板・SNSに転載された。

 そうして転載された文を読んだ者がまた、筆者をなじり、新たに別の場所へと転載していくのだった。

 

「いや、何様だよオッサン」

「うーんこれは百パーセント正論ですねえ。ニギヤカはさっさと牢屋にぶち込むべきでは?」

「にぎやか好きじゃないけどこいつはもっと嫌い。地獄に堕ちてほしい」

「嘘四割、妄想四割。しずかが天才だったのは事実だけどな」

「アイタタタw こんなブログ誰も見てないのにw」

「どの立場で物言ってんだこの感想文おじさん」

「高卒が書いてそう。嫉妬にじみすぎだろ」

「芸人じゃないって言ったり、芸人なら分かるって言ったり……どっちかハッキリしろ」

「マジでムカつく。こいつ殺す。ついでにミキキも殺す」

 

 ――・――・――・――・――・――


 令和ストロガノフのふたりがマスコミ各社を集めて記者会見を開いたのは、学舎にぎやかが生放送中に倒れてから二週間が経った日の昼だった。にぎやかはまだ入院していた。

 内容に関する告知は無かったにも関わらず、会見場はいっぱいに埋まっていて、彼らに対する注目度の高さを伺わせた。インターネットメディアのいくつかは、自社のサイトで中継を生放送していた。

 ドアが開き、松とイルカが入ってくる。

 重い足取り、黒く、フォーマルな服装に、神妙な面持ち――一見してただならぬ様子の二人を、ここぞとばかりにカメラのフラッシュが包む。

 中央に二人が並び、用意された席にも着かずに、じっ、じっ、と会場を見回す。松の口が、ゆっくりと開く。

「このたびは! 誠に申しわけありませんでした!」

 倒れ込むかのような勢いで、二人が同時に頭を下げる。フラッシュが焚かれる。二人はそのまま、ピシッと固まって動かない。角度がぴったり揃った二人の姿は軍隊や刑務所を思わせる異質さで、集まったマスコミも思わず息を呑んだ。

「あの、すみません」

 十数秒の沈黙ののち、一人の記者が手を挙げた。

「はい」

 頭を下げたまま、微かにも姿勢を崩さず松が応える。

「お二人のそれは、何に対する謝罪なのでしょうか?」

「我々『令和ストロガノフ』は!」

 叫びながら、二人がようやく顔を上げる。

「先日放送された生放送番組『れいわお笑いICHIBAN-NORI!』において! 大トリを任せていただいたのにも関わらず大スベりしてしまい! お世話になっている学舎にぎやか師匠や番組スタッフの皆さん! 共演者の皆様! 番組を見ていただいた視聴者の方々に、多大なご迷惑と不安を与えてしまいましたことを! 深くお詫びいたします!」

 報道陣の間に困惑が生まれ、小さくどよめきが起こる。

「誠に申しわけありませんでした!」

 二人はまたぴったりと動きを合わせて頭を下げ、今度は数秒で向き直った。

 謝罪の口上にこそわずかな震えも見せなかった松だったが、目は真っ赤になりながら涙をたたえ、真一文字に結ばれた唇は痛々しいほどに噛み締められている。

 一方のイルカは、なにやら困ったような顔を浮かべて、伏し目がちな視線は、記者たちの足下あたりをぼうっと見つめている。

「スベったくらいで、そんな……」

 どこからか、つぶやく声が漏れ聞こえた。すかさず松が反応する。

「ありがとうございます。しかし僕たちは人を笑わせ、楽しませることでお金をいただいている、芸人です。その芸人が今回このような形で多くの人を傷つけ、笑顔を奪ってしまった。このことを、僕たちは重く受け止め……責任を感じています」

 会見場が再び静まりかえった。相づちすらも躊躇われるような、重く、湿度の高い空気。

「にぎやかさんとは、あれからお話しされたんですか」

 職務に背中を押された記者たちが、仕方なく、といった様子で張りのない声をあげる。

「いえ、まだお会いできていません。先方のマネージャーさんとお話しさせていただいて、容態が落ち着いて、許可をいただけたら、二人で伺おうと思っています」

「面会を断られているということですか」

「いえ、まだ申し込みをしていません。今日の会見で、色々としっかりさせてからお伺いを立てようということで」

「にぎやか師匠があれほどまでに激昂された理由ってのは何だったんでしょう」

「ご本人の口から聞けていないので、それについてはなんとも言えません……ただただ申しわけないとしか」

「世間ではお二人を擁護する声も聞かれますが、それについてはどう思いますか」

「本当にありがたいですが、僕たちのネタが起こした事態ですから、すべての責任は僕たちにあります」

「あのネタには自信があったんでしょうか」

「自信作です。僕もイルカも、もう少しウケるものと思っていました」

 探り探りの質問に、頭を掻く音。

 松がハンカチを取り出し、額の汗を静かに拭う。

 カメラが空々しくシャッターを切り、目的意識のない問いが放られつづける。間延びした呼吸が酸素を奪い、濁して返す。

「すいません、ちょっといいですか?」

 十分ほどが経って、ベテランの芸能リポーターが手を伸ばした。松が「どうぞ」と促すと、リポーターは立ち上がり、二人に訝しげな目を向ける。

「先ほどから何度か『責任』と仰っていますが、それは、お二人には責任を取って何かをするお考えがある、ということなんでしょうか」

 会場全体に刺すような緊張が走る。「はい」と応える松の声が上ずり、質問したリポータ自身も唾を飲んだ。

 イルカだけが、ずっと変わらぬ表情でそこにいる。

「我々『令和ストロガノフ』は、今回の事件の責任を取って、『令和ストロガノフ』の名前を捨て、今後二度と名乗らないこととし、『電話の練習』につきましても、テレビ、ライヴ、その他いかなる仕事においても永久に封印することといたします。

 そして、一度は捨てた名で恐縮ですが、僕たち、松とイルカの二人は、ふたたび『ジャンゴ言ジャーゴン』として活動していくことを、ここに宣言いたします」



 会見の日の晩から三日ほどの間、芸能ニュースは松の泣き顔に占領された。

「ジャンゴン復活!」、「松、号泣!」、「謝罪、そして封印へ……」。

 様々な見出しが派手に踊ったが、それを伝える記者やリポータたちはどうにも覚束ない心地でいた。ある報道番組では、コメンテーターが「そもそもこんな大騒ぎになるような問題ですかこれ」と言い、リポーターを黙らせてしまった。

 

「まあにぎやか師匠が倒れられて話題になりましたから、なんらかの反応をされるってのは分かりますけども、こんな……泣いて謝らなきゃいけないようなことですかね。だってお二人は、こんな言い方もないですけど、スベっただけですよ? 僕だってこの番組でしょっちゅうスベってますけどね、謝ったりはしないわけですよ」

 強気な物言いが売りのコメンテーターは、人の良さそうな顔を精一杯しかめて、リポーターに噛みついた。

「だからそもそも会見って時点で変なわけで。それを疑わない、当たり前にそれくらいのことはするだろうって、ホイホイ集まっちゃうような、空気っていうのかな、なんかこう、この件について世の中に共有されていた認識みたいなものが、そもそもズレてるんですよ。

 もしですよ、もし、こういう空気が二人を……積極的に責めるとまではいかなくても、追い詰めて、謝らせるに至ったんだとしたら、そのほうがよっぽど問題だと思いますけどね。こんなの気味が悪いでしょう。そう思いませんか」

 

 他方、あるスポーツ新聞は「茶番」の二文字を頭を下げる松とイルカの横にデカデカと貼り付け、ネタの封印も再改名も二人の計画通りであったとして、匿名関係者の証言を掲載した。

 

「そもそも『令和ストロガノフ』っていうのはあのネタ一回キリのつもりで作った名前なんですよ。それでどんズベりして、『申しわけありませんでしたー』って言って元の名前に戻す。ここまで含めたネタだったんです。番組が普通に進行してたら、『僕たちジャンゴンに戻ります』って言って泣き真似でもして、『なんやったんやこれ!』って司会にツッコませて終わりのはずだった。

 でも学舎師匠が倒れて、『ネタでした』じゃ済まなくなってしまったでしょう? だからどうするか色々考えた結果があの会見だったわけです。

 実際謝る気持ちはあるんじゃないかな、自分たちのネタがそもそもの発端だってのも嘘じゃないわけだし。詳細をぼかしちゃったから見ている人たちには真意が伝わってないけど、まあ個人的にはそろそろ許してやってほしいというか、これからの活躍を見守ってあげてほしい気持ちですね。本当、笑いにマジメなコンビなんで」

 

 

 思い思いの見解や憶測があちらこちらに飛び交って、どれが真実ともつかない状況に人々の関心が離れはじめた頃、神酒樹のインスタグラムが更新された。タイトルは『みてね』で、写真の真ん中に小さなメモ用紙がぽつんと置かれ、そこにURLが書いてあった。

 インスタグラムなら、URLをリンクとして貼ることは容易にできるし、神酒にそれをするスキルがないわけもない。彼女のことを心配し、投稿の通知を受けていち早く駆けつけたファンたちは、この意図の読めない不親切さに戸惑いながら、写真上のURLを手打ちで入力して、検索をかけた。

 開いたのはYouTubeの動画だった。

 投稿者・神酒樹。動画タイトル――『電話の練習』。

 

 動画はスマートフォンで撮ったもののようだった。小さくてすこし荒い画面に、無造作に横たえられた受話器がクタリと映っていて、後ろでは電話の呼び出し音が鳴っている。

 単調な音がブツンと切れて、もしもし、と声がする。気だるげな女性の声。スピーカー機能が使われていて、受話器は横になったまま、画面もそのままに固定されている。

「もしもし、酒井です」

「あ、お母さん? 私」

「ミキ!? ちょっと、大丈夫なの!?」

「お母さん」と呼ばれた電話相手の声色が、ガラリと変わる。ミキ、ねえミキ、と何度も呼びかける。

「ミキ」はしかし、何でもないような声で、素っ気ない答えを返す。

「大丈夫だよ。なんで?」

「なんでって……いろいろ、言われてるでしょう、ほら……」

 気の抜けた返事を受けて、母親もすこしトーンダウンする。どちらからとも付かない、ふっ、と吐く音。

 一瞬の静けさがあって、それから思い出したようにミキが切り出す。

「あ、これ撮ってるから、あんまり変なことは言わないでね。『ミキ』は……まあ、いいけどさ」

「とってる? えっ、どういうこと?」

「この電話いま撮影してて、後でネットに上げるつもりってこと」

「自殺配信じゃないでしょうね!」

 電話の向こうで何かが倒されたような激しい物音がする。ガッ、ガッ、と受話器が何かにぶつかる音。

 はあ、と息をつくミキに、母親はまくし立てる。

「やめて! 絶対やめなさい! 嫌よ私!」

「違うよ。そんなんじゃないよ」

「本当に!? 本当に違うのね!? 自殺配信じゃないのね!?」

「違うよ。どうしてそんな話になるの」

 咎めるような口調で、ミキは不服を隠さない。

「自殺なんてしないよ」

 母親は「そう」と呟いて、乱れた呼吸を整える。

「なら、ならいいの」

「よくないよ」

「ごめんね。でも心配なの。私わかんないのよ」

「しないよ。それくらい分かってよ」

「わかんないわよ……わかんないじゃない」

「やめてよ、情けないなあ」

 冷たく言い放つミキに、母親は黙り込んでしまう。十秒、二十秒と無音の通話が続いて、受話器が小さく身を揺らす。コードを弄る指が、画面の端に見え隠れする。

 すーっ、と息を吸う音。

「ねえ、お母さん」

 囁く声は、これまでの会話などすべて忘れたかのように、優しげに響く。

「ちっちゃい頃、晩ご飯とか食べてる時にさ、よく電話が掛かってきて。そしたらお母さん、いっつも、テレビの音下げなさいって……言ってたよね。覚えてる?」

 絵本でも読み聞かせるかのように話すミキに、母親は何も反応を返せない。

「だから私、ずっと電話が嫌いだった」

 声色の落ちつきとは裏腹に、受話器は半身を浮かせて、くるん、くるんと、踊っている。

「私の時間にぶしつけに入ってきて、私の家で立ち話を始めて、私はいつも、その横で息をひそめなきゃいけなくて。大嫌いだった。

 今でも、お仕事以外では極力使いたくなくて、会社に固定電話を買うように言われたとき、ちょっと抵抗したりもしたくらい。……でもね」

 画面端の指がすっと消えて、受話器がまた力なく倒れた。

 不意に、画面の背後からミキとは別の声がする。

「ほんとになんとなくなんだけど……家族にする電話なら、こっちのほうがいいかも。スマホよりもさ」

 申しわけありませんでした、と叫ぶ声と言葉のないざわめき、加えてシャッターを切る機械音が、遠くから、ぼんやりと聞こえる。

「だから……ふふっ、ずっと置いといてね、家の電話」

「ちょっと、そこに誰かいるの?」

「ううん、違うよ。く、ふふふっ、テレビっ、テレビ付けたの。録画したテレビ。おかしくって」

「……ねえ、本当に大丈夫なの?」

「だいじょうぶ。それよりさあ、お母さん見た? ジャンゴンの会見。私、いま見てるんだけどさ」

 遠くで、松が謝罪する。ミキが笑って、それを噛み殺そうとするもできずに、んぐっ、ふふっ、と声を漏らす。

「最高だよ。ねえ、お母さん」

「……ミキ」

「ジャンゴンは昔から好きだったけど、今度のが一番長く笑えると思う。ほんと、私最初に見た時、涙出るくらい笑っちゃって」

「ミキ、それ消しなさい」

「嫌。お母さんこそ見てってば。録画はしてないだろうけど、ユーチューブでも何でも見れるでしょ。ねえ、一緒に見ようよ」

「ミキ!」

「ふふっ、あははははは!」

 記者が松に詰め寄る。ほとんどノイズとなっているざわめきが、どよどよと動画に満ちる。

 ミキが笑い、母親は、様々な感情を押し殺したような、小さく、暗い声を絞り出す。

「わかん、ないよ。あの会見なら、私も、ニュースになった時見たけど……」

 笑いすぎて咳きこむミキに、母親の声は一層ふさぐ。

「なにが、そんなにおもしろいの……ごめん、お母さん、本当に……わからない」

 ごめんね、ミキ、ごめんね、と、母親が涙まじりに言う。

 ミキは笑いを無理やり飲みこむように少し黙ってから、そっか、と呟き、電話機に手を伸ばす。そうして、スピーカー機能を切って、大切そうに、受話器を持ち上げる。

「大丈夫。ごめんね、大丈夫だよ」

 あやすような、穏やかな言葉に答える母親の声は、もう、動画を見る者には届かない。

「そう。あのね、ミキにはね、あの会見が、ジャンゴンのネタにしか見えないの。それだけ。疲れてるとか、おかしくなったとかじゃないよ。うん? うん。大丈夫。ごめんね、心配かけて。ミキは大丈夫だから」

 ミキは、うん、うん、と相づちを打ち、実家に顔を出す約束をしながら、片手でそっとリモコンを持ち、操作する。

 謝罪会見の音量が下がっていき、やがて消える。

 リモコンを離した手がカメラ――スマートフォンに向かって伸び、画面が揺れる。

「本当に大丈夫。あのね、私、わかってるの。あれを面白いって感じるのが、私だけじゃないって。そんなわけないって、確信してるの。だから、お母さんが違っても、そうじゃなくても、大丈夫。どこかにいるって、おんなじ人がいるって、信じてるから――信じられるから。だから、ぜんぶ大丈夫なんだよ」

 持ち上げられたカメラに、ミキ――神酒樹が映る。それじゃあ、またね、と言って、電話を切る。

 それから、画面に向かって、無言で、小さく手を振って、ほほえんで、動画が終わる。

 

 ――・――・――・――・――・――

 

 眩しそうに夕暮れに目を細め、学舎にぎやかが体をひねる。背中のあたりで鳴る音が、静かな病室に、パキ、パキ、と響く。

「お前らも、来るなら昼間に来んか。こんな時間じゃ全然話せんやないか」

 すいません、と松が詫び、イルカもそれにならう。

 にぎやかは、リクライニングベッドで体を起こしたまま、先ほどとは逆側に体をひねる。また、パキ、パキン、と骨が鳴る。

「まあでも、忙しそうで安心したわ。会見、見さしてもらったでな。これでも心配しとったんや」

 言いながら体勢を戻し、二人の顔をじっと見て、頭を下げる。

「迷惑をかけた」

「やめてください師匠」

 松が体を起こしにかかり、イルカはそれを無言で眺めている。

 病室は個室で、ベッド脇の棚に小型のテレビが置いてあった。その横には、花瓶の影に隠れてスポーツ新聞が何日分か置いてあり、松もイルカも、それが自分たちの会見以降のものであることを察していた。

 にぎやかが促して、ベッド脇の椅子に二人が腰掛ける。

「これ、つまらないものですが、お見舞いの品です」

「おお。豪勢やな」

 松が差し出した有名店の箱を覗いて、にぎやかは嬉しげな声を出す。中には旬のものを集めた、カットフルーツの盛り合わせが入っていた。

「なんや、もう切ってあるんか」

「ええ、頼んでやってもらって。僕らよく使うんですよ。その場で器用に切ったりできないもんで」

「はっ、サービス社会やのう。でも、まあ、ええな」

 にぎやかが、わざとらしく目を細める。

「供えもんとしては、だいぶ上等じゃ」

「勘弁してくださいよ、縁起でもない」

「……死人に供えるなら」

 不意に、松の横でおし黙っていたイルカが、口を開いた。

「わざわざ切ってもらったりしませんよ」

 険のある言葉だったが、しかしにぎやかを見るイルカの目には、怒りばかりが浮かんでいるのではなかった。そこには、敵意や不満よりも、強い悲しみが滲んでいて、眉のラインを不可解にゆがめている。

 にぎやかは、イルカの目をしっかり見据えて、それから小さく笑って見せた。

「変わらんなあ、お前も。ほんまマジメなやっちゃ」

「おかしいですか? 俺、怒ってるんですよ。それは師匠だって分かってるでしょう」

 おい、と止めに入る松を、にぎやかは、ええ、と制す。

「わかっとる。お前は会見の時からずっと不満そうやったもんな。納得いってないんやろ」

「そうです」

「わかっとるよ。お前がそんな風に怒るんは笑いのことだけやってのも、わかっとる。まあ、長い付き合いやでな」

「だったら! ……だったら、言ってください」

 イルカの声が、絞めつけられるように、掠れる。

「松のネタの、何がいけなかったっていうんですか」

 イルカがにぎやかと向き合う横で、松もまた、いつでもイルカを抑えられるように構えつつ、その奥ではにぎやかの答えを待ち、求めていた。

 にぎやかは、骨張った指を首の付け根に伸ばし、垂れた皮膚を、撫でるように弱々しく掻く。

「どう、話したもんやろな」

 そのまま指の位置をずらし、親指で首筋の凝りをほぐし始める。

「……師匠」

「そこに、タンスがあるやろ」

 沈黙に耐えかねたイルカを遮り、にぎやかは、二人とはベッドを挟んで反対側にある、小さなタンスを指さした。

「それの、一番下や。ちょっと開けてみてくれんか」

 イルカは、眉をしかめて動かない。

 それを見て、松が、ふっ、と息を吐いて立ち上がり、タンスの前に移動する。緩慢な動きが、夕暮れの光に長い影を差す。

「一番下、ですよね」

「おう、そこ以外は私服やで覗くなよ」

「覗きませんよ、そんなもの」

 言いながらタンスを開け、その中身に手を伸ばす。

「これも私服じゃないですか。テレビでよく着てるやつでしょう、これ」

 苦笑いしながら、皺だらけの布を持ち上げる。松の言葉通り、それはにぎやかが収録時に使い回していた和服の一枚だった。

 しかしにぎやかは、ゆっくりと左右に首を振る。

「それはもうゴミや。もう着ん。袖のとこ見てみい」

 にぎやかが指差した辺りを松が広げると、そこには何かが腐ったような、錆茶色の大きな汚れが染み出ていた。かすかではあるが、生ゴミのような臭いも漂わせている。

「お前らに見せたら、捨ててしまうつもりで取っておいたんや。それをお前……さっさと見舞いにくればええのに、会見なんぞしくさって」

「俺らに見せたらって……そもそも何ですかこの汚れ」

「バナナや」

「はあ?」

 ツッコミの性分で思わず語気を強める松に、にぎやかが愉快そうに笑う。

「そんだけの反応でもおもろいんやから、やっぱり才能やな」

「いや、意味わかんないですよ。なんすかバナナって」

「あっ」

 イルカが声をあげる。

「その服、あの時も着てた……」

「なんや、こっちが気づいたか」

 にぎやかがイルカの側に向き直ると、その体がまたポキンと音を鳴らした。

「そうや。あの、ワシが倒れた日に着て……あの日で、最後になってしもうた、お気に入りの一枚や」

 そう言って、手に持った服を渡すように松に促す。

 受け取ると、両手を使って自分の胸元に広げ、ぼんやりとそれを眺める。

「しずかサンがな、よう言っとったんや。年食ったらもうスーツは着たくない、和服着てテレビ出る、すっとぼけたジジイになりたい、てな。あの人、家じゃあ服なんか一切着んかったからなあ」

 そうして、誰に、ということもないように、虚ろにつぶやいた。

「こういうん、気に入りそうやと思ってんけどな」

 


 松にカーテンを閉めるよう頼んで、学舎にぎやかが背を伸ばす。ふーっ、と息を吐いて、目を閉じ、開ける。

「腹がな、減るだろうと思ったんや」

 語る声は、落ち着いていた。

 それを聞く二人の背筋が、いかにもそれが自然であるかのように、すっ、と伸びた。

「あの番組、生放送で三時間半やったやろ。途中で小腹でも空いたらかなわん思ってな。なんぞ持ってって、もしもん時はこっそり食べるつもりやったんや」

 話しながら、見舞いのカットフルーツを手に取る。うまい、と飲みくだして、爪楊枝の先にもう一つ刺し、ふるふると見せびらかすようにして、二人にも促す。二人もフルーツを手に取りはしたものの、にぎやかの話に聞き入って、それを食べることはしなかった。

「せやけど、問題は何を持って行くかよな。こんな小洒落たもんはもちろん持ち込めんし……。かといって何ちゃらメイトやらをジジイが食ってもなあ、うまいんやろうけども。そしたら、にぎり飯か? いやいや、ほんまに飢えとるような、ひもじい感じになるやんか」

 言葉を重ねるごとに、にぎやかの声には張りが生まれた。口は潤い、目は開いていく。

「それにテレビである以上、もしか食べとるとこをバッチリ抜かれても、そっからウケにつながるもんやないとあかん。そうなると答えは絞られるわな。イルカ、なんやと思う」

「えっ、あっと……バナナ?」

「か、リンゴかや」

 勝ち誇るように、にぃ、と歯を見せて、にぎやかが笑う。

 イルカの手に、楊枝の先から、果汁がひやりと伝う。

「で、入れ歯の老人にも優しい、バナナが選ばれたと、こういうわけや。まあ腹は空かんかったんやけどな」

「結局それですか」

 松のツッコミに、満足そうに目配せする。

 そうして、眠るかのように、目を閉じる。

「番組ももう終わりに差し掛かって、結局バナナ要らんかったなあ思いながら眺めてたら、最後にお前らが出てきた」

 二人が、ぐっ、と息を詰まらせる。

「電話の練習、やったか。悪くないネタやったな。

 だいぶスベっとったけど、あらサクラ入れとらんスタッフが悪いわ。もう二・三人笑っとったら、半分くらいはよう分からんでも連られて笑ってたやろ」

「分からんでも、って」

「人なんて、分からんで笑うんや。それで悪いことなんてなんもない」

 不満げな口調のイルカに、にぎやかは泰然として返す。

「そんな話、今はいいですよ」

 松が、重い声をあげる。

 ここまで押し殺してきた感情がいよいよ裂け出でてしまいそうだと訴えるような、悲痛な声。

「ネタが気に入らなかったんじゃないなら……どうしてなんですか。どうして、あんな」

 絞り出すような松の言葉を、松、と一言呼んで、にぎやかが制する。それから、長い息を吸って、ほとんど日が沈んだ窓に目をやった。

「あのネタは、悪くはなかった……けどな、けど、どうしても分からんかった」

 光のない窓に、松とイルカの影がぼんやりと映る。

 にぎやかの声が、小さく、揺れる。

「なんでお前ら、最後、電話切らんかったんや」



「俺には、どうにも分からんかった。あのネタ、あの運びで、電話を切らんで終わるなんて、どうしたっておかしい。そこまでやってたことを全部投げて、無理やり終わらせとるように見えた。消化不良、不完全燃焼やと思った。

 お前らの持っとったバナナ、繋がったまま放られた電話が、いたたまれんと……そう、思った」

 そう言って、ゴミだと言った和服を手に取って、袖を広げる。

 にぎやかの言葉は、先ほどまでの張りを一挙に失い、衰弱した老人のそれとなった。

 老いたまぶたが、ギュッとつぶられる。

「誂え向きなもんが、ここにあった」

 松が何かを言おうとして、しかし、何も言えない。

 三人の喉が、うっ、ぐうっと、空鳴りしあい、静けさが増していく。

「正直言って……俺には、分からんかった。袖の、こいつを使って、締まらなかったもんを締めにいくのがええのか……そのまま、スベった芸としてぬるく流して、何でもなかったことにしてまうのがええのか……」

 わからんかった、という言葉は、ほとんど発声されずに喉元で消えた。

「しずかサンなら……しずかサンならどうするかと考えた」

 イルカが、それは、と言うのに、にぎやかは、でもな、と被せる。

「でも……結局それもわからんかった。しずかサンならやる気もしたし……やらん気もした。やる気がして、やらん気がして、でもやる気がして、やっぱりやらん気がして……。結局俺は、何度目かの、やる気がした瞬間に立ち上がっただけやった」

 にぎやかが、両腕を支えにして、グッと身を起こす。ベッドが、かすかに軋んだ音を立てる。

 イルカが、思わず後ろに身をそらす。

「あのあと……近づききったあとに……バナナを出すつもりやったんや……。そんで、バナナ越しに怒鳴って……お前らに、電話、切らすつもりやった……。そうしてオチる光景が、あの瞬間は、見えてた……。なのに……頭、ブツッといってもうて……」

 すまんかった、と頭を下げる。

 松は、やはり何も言うことができないまま、唇の内側を噛んで、にぎやかのうなじの辺りをじっと見下ろしていた。

 そうして、見下ろしたその体が、煮えるように震えていることに気がついた。服の隙間から覗く肌が、赤い。

 冷えた病室の静寂のなかに、苦しげで、痛ましく――何より腹立たしげな、うなり声が響く。見れば、堅く組まれたにぎやかの両手は、その醜く伸びた爪を、互いの甲に、これでもかと言わんばかりに食い込ませていた。

 うめきと混ざって二人に届いたのは、亡者のような声だった。

「最後まで……」

 老体の黒ずんだ血が、したたり落ちる。

「最後までやれとったら……あれでよかったか、わかったんにな……」


 ――・――・――・――・――・――


 一連の騒動から一年半ほどが経って、学舎にぎやかが亡くなった。結局、生放送中に倒れてから、一度もメディアに姿を現すことはなかった。

 昭和のお笑いを支えた名芸人、世情の代弁者を勤めあげた文化系コメンテーター、後進の育成に尽力した人当たりのいい大御所――様々な肩書きが、学舎にぎやかの人生を語るのに使われた。

 葬儀には多くの芸能人、メディア関係者が参列し、その死を惜しんだ。その中には、神酒樹や、ジャンゴ言ジャーゴンの二人もいた。

 集まったマスコミにコメントを求められた松は、ハンカチで顔を覆い、ぐしゃぐしゃの涙声で応えた。

「本当に……本当にお世話になって……売れてなかった頃からずっと……一番、面倒を見てくださって……僕も、相方も……本当に……本当に感謝だけです……」



 同じ頃、郊外に暮らす男が一人、威力業務妨害の容疑で逮捕された。一年半ほどの間、インターネット上の各所において、神酒樹への殺害予告を繰り返したことによるものだった。

 取調べでその動機を訊かれた男は、俯いたまま、何時間もかけて考えてようやく、途切れ途切れの言葉をこぼした。

「平成生まれって、馬鹿にしてる人がいて、ムカついて……許せなくて……ミキキも……なんかムカついて……」

 この男の逮捕は、学舎にぎやかの訃報の片隅でひっそりと報じられたが、誰も彼の言う意味を理解できなかった。

 神酒も所属事務所も、当たり障りのない、形式ばったコメントを出すだけで、男について深く触れることはしなかった。

 男は昭和五十九年生まれで、子も無く、その身の回りに、平成生まれの者は一人だっていないのだった。


(了)

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電話の練習 玉手箱つづら @tamatebako_tsudura

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