乙女ゲーム転生ヒロイン協定

やなぎ怜

(1)

 生徒の喧騒遠い校舎端の空き教室。日当たりの悪い部屋は昼間だというのにどこか薄暗さが抜けない。人のいないほこりっぽさの代わりに妙に冷えた空き教室で、ふたりの女子生徒が対峙していた。


 ふたりとも目線はそらさない。それは威嚇と哨戒を兼ねた、厳然たる態度であった。


 双方とも一度も染めたことのないような真っ黒な髪を肩まで伸ばし、グレーのブレザーの制服を校則通りに着た、どこにでもいる平凡な少女である。


 しかしこのふたりは、ある一点において非凡であった。そして互いにそのことをすでに承知していた。


 さかのぼること一ヶ月前。桜の木が満開の花をつける中行われた入学式の日にふたりは出会った。その出会いは偶然でありながら、一定の必然性を持ったものであった。それというのも、このふたりは桜の木の下でけだるげに四肢を投げ出した黄地おうじ橙真とうまに引き寄せられる蛾のようにして、出会うべくして出会ったのである。


 だがその場所は校内でも人通りのない、校舎の死角に位置する場所であり、ゆえに黄地橙真も絶好のサボり場所と選んだのだが――このふたりはその場所を迷いなく探り当てることができた。なぜか。


 ふたりは前世をこの世界とは違う場所で過ごした転生者であり、なおかつ今世の世界について精通した人間だったのである。


 春風はるかぜ宏美ひろみがこの世界が前世の己がプレイした、乙女ゲームの世界であることに気づいたのは、高校受験を来年に控えた中学二年生のときのことである。


 母親が持って来た私立高校のパンフレットの中にあった「桜坂高等学校」の文字と、表紙に大きくプリントされた校章を見た瞬間、宏美は目玉を落としそうになった。震える手でパンフレットをめくれば、そこには飽きるほど見た制服を着た男女が笑っていた。


 このとき宏美は自らが乙女ゲームの世界に転生したことを確信したのである。


 宏美には「春風宏美」ではない人間として生きた記憶があった。だが、それをだれかに話したことはない。幼心に異質なことと直感していた宏美は、表向きはごく普通の少女として生きてきた。


 社会人まで生きた前世の記憶というアドバンテージを持っていたために学業はそこそこ優秀で、それゆえに母親は娘に私立高校のパンフレットを見せたのだが――それがこんな巡り合わせを生むとは、宏美には予想だにしなかったことである。


 ――20××年、携帯機で発売された乙女ゲーム『桜吹雪に凛と立つ』。略称『さくりん』。


 ジャンルは乙女ゲームでは定番のADVアドベンチャー。画面の上部およそ三分の二にキャラクターの立ち絵が表示され、画面下部のメッセージボックスに表示されるテキストを読むことで進行する、いわゆる「紙芝居ゲー」というやつである。


 宏美はこのゲームのファンであった。購入の決め手は出演声優である。宏美は乙女ゲーマーであり、同時に声優オタクであった。そうであるから店舗別予約特典のドラマCDも抜かりなく手に入れた。


 青井あおい蒼太そうた――それが宏美の推しキャラの名前である。CVキャラクターボイスはもちろん、くだんの宏美が入れあげている声優だ。


 スチル(ギャルゲーではCGと呼ぶ画面全体に表示される一枚絵)が表示されるイベントシーンではダミーヘッドボイスに切り替わるゲームの仕様に宏美は歓喜した。イベントシーンが来るたびに、宏美はゲーム機を放り出して床を転げ回った。勢い余って机の脚に体をぶつけたのは一度や二度ではない。足には青痣ができたが、それは宏美の障害にはならなかった。


 青井蒼太というキャラクターを気に入ったのは、なにも声だけではない。


 色素の薄い人形のような容姿は、いい年した宏美の庇護欲を刺激するにはじゅうぶんだった。性格は人嫌いのツンドラ。ゲーム開始当初は塩対応だが、例によって話が進むと感受性が強く傷つきやすいという一面が見えて来る。やがて悲劇的な過去の出来事を思い出さざるを得ない事件が起こり、青井は苦しみながらもヒロインに支えられトラウマを克服するのである。


 王道も王道のシナリオであるが、年をとって涙腺の緩んだ宏美は、声優の迫真の演技もあいまって終盤は泣きっぱなしであった。若さは尊いのである。


 スチルを回収するためにすべてのキャラを攻略したが、最初にプレイしたという思い入れもあって、宏美のこのゲームにおける最萌え(一番萌えるキャラ)は青井蒼太であった。


 キャラクターソングも抜かりなく買った。ヒットによって無限増殖して行くファンディスクとドラマCDも毎回予約して買った。既存絵を貼りつけただけの使い道のわからないグッズも買った。声優のトークイベントにも参加した。SNSでしつこく萌え語りを垂れ流し、オタ友にもゲームを布教した。ジャンルのオンリー(オンリーイベント。ひとつの作品・キャラクター・カップリングにしぼった同人誌即売会)からプチ(プチオンリー)まで、時間と交通費の許す限り参加し、同人ショップで同人誌を買い漁った。


 彼氏もおらず友人と遊びに行く機会も少ないにも関わらず、宏美の貯金は赤字にこそならないにせよごりごり減って行った。それほどまでに宏美にとって『さくりん』というゲームは夢中になれるものだったのである。


 その、世界にいる。この地上に、青井蒼太が存在する――。それは宏美にとって、ビッグバンによって宇宙が誕生するほどの衝撃をともなった事実であった。


 宏美はヒロインの名前に本名を入力してプレイする、いわゆる自己投影型のプレイヤーであった。そうであるから三次元に存在する青井蒼太に出会えるかもしれないという事実に気づいた瞬間、宏美は母親に迷いなく桜坂高校を受験することを伝えていた。


 そして四月。『さくりん』のヒロインと同じ制服に身を包んだ宏美は、校門前に立っていた。学校見学に訪れたときほどの興奮はないにせよ、桜坂高校の校舎は何度見ても心躍るものがある。幾度となく背景として見たものが、現実のものとして目の前にある。オタクとしてこれほど気が昂るものはない。


 このときの宏美は青井蒼太をひと目見られればそれでいいと思っていた。最萌えのキャラクターが血肉の通った人間として生きている姿が見られるだけでじゅうぶんだと思っていた。


 宏美は自己投影型のプレイヤーであった。ゲーム内のヒロインに没入し、ときにヒロインのセリフを感情を込めて読み上げる、そういうプレイヤーであった。


 だから、魔が差してしまったのだ。もしも『さくりん』のヒロインと同じ行動を取ったらどうなるのか――。その好奇心を、宏美は押し殺すことができなかった。


 そしてゲーム内で最初に出会うキャラクター、黄地橙真を探しあてた宏美は――ひとりの女子生徒とも出会うのである。


 名前は夏川なつかわ比呂乃ひろの。この時点では知る由もなかったが、宏美のクラスメイトである。そして彼女もまた、転生者にして『さくりん』のファンであった。


 宏美は首尾よく校舎の死角に立つ桜の木の下に黄地橙真の姿を認めた。そして二次元の世界からそのまま三次元に飛び出して来たような、類い稀なる容姿に感動した。


 それだけである程度の満足を覚えたのも事実であったが、ここまで来たのだからと清水の舞台から飛び降りる気持ちで一歩足を踏み出す。そろりそろりと二歩、三歩と歩を進めているうちに、気づいた。


 何者かが、宏美と同じく忍び足で黄地橙真に近づいていることに。


 ふたりの視線が絡む。


 ふたりの足が止まる。


 黄地橙真を挟んで。


 ふたりは見つめ合った。そこには困惑があった。「なんなんだコイツ?」と互いに自身を棚上げして不審な相手に怪訝なる視線を送っていた。


「あ……? うわっ」


 視線を交わすだけの小競り合いに終止符を打ったのは黄地橙真であった。やおら目を覚ました彼は、己がふたりの見知らぬ女子生徒に挟まれていることに気づき、間抜けな声を上げた。そしてその声に引かれるように、宏美と比呂乃は黄地橙真を見る。黄地は、その秀麗な顔を引きつらせて明らかにおびえていた。


 宏美と比呂乃はそこで黄地になにかしら声をかければいいものの、そうしなかった。ふたりは、喪女(もてない女)だった。黄地が起きて初めてふたりはその事実を思い出したのである。己がまともに男と話したことがないという事実に――。


 黄地は不気味なものを見る目でふたりを一瞥したあと、逃げるようにその場を去った。残されたふたりはと言えば、互いに言葉を交わすこともなくなにごともなかった風を装って足早にその場から立ち去った。


 これが宏美と比呂乃、ふたりの出会いであった。


 ふたりはほどなくして自らのクラスの教室で再会したが、無論言葉はなかった。ふたりとも先ほどあったことはなかったことにしていたのである。それは己の心を守るために長年培われた防衛本能であった。――なかったことにすれば傷つかない。それをふたりは知っていたのである。


 それどころではなかった、というのもある。なにせ同じクラスに青井蒼太がいたのである。


 宏美は彼の姿を認めた瞬間奇声を上げそうになった。幸いにも入学式しょっぱなからそのような奇行を晒すことはなかったが、椅子からは落ちた。宏美にクラスメイトの訝しげな視線が集まったが、その目はすぐに彼女と同じように椅子落ちした比呂乃に向けられた。


 そう、比呂乃と宏美は青井蒼太を推しとする同担(同じキャラクターのファン)だったのである。この事実を、のちに宏美は嫌というほど知って行くことになる。



 入学式を終え学校生活が始まってから宏美が真っ先にしたことは、友達づくりではなく『さくりん』のヒロイン探しであった。毎日のように他のクラスの教室をのぞき、周囲を徘徊した宏美はこの世界にヒロインに該当する人間が存在しないという結論に至る。そして時を同じくして宏美と同様の行動を取っていた比呂乃も、その結論へと至った。


 そのころにはふたりの顔は変質者として学年中に知れ渡っていたのだが、ヒロイン探しに夢中のふたりはまったく気づいていなかった。


 熱中すると周りが見えないまま突き進んでしまう。オタクの悪い癖である。


 そしてふたりは考える。この世界にはヒロインがいない。ならば自分がヒロインと同じ行動を取れば青井蒼太と結ばれることができるのではないか――。


 そしてふたりは決意した。自分がヒロインになってやる――と。


 そして当然の帰結として、ふたりの言動はだだ被りしまくった。


 勇気を出して青井に話しかけるものの、ゲームのテキストから引用しているものだから、振る話題は毎回変わり映えがしない上にすぐにネタが尽きる。ゲームのテキストをとっかかりに話をふくらませればよいものだが、典型的な喪女であるふたりにそのような高度な技は使えなかった。


 おまけにふたりとも同じ話をするものだから、青井はそのクールな表情の下でまったく同じ言動のクラスメイトを不気味がった。


 当初は珍獣でも見るかのような目を向け、陰で嘲笑うことすらしていたクラスメイトたちも、次第にふたりの言動に「マジで頭のおかしい人間なのではないか?」という疑念を抱くに至り、陰口すら叩かなくなった。代わりにクラスメイトたちは怪談話でもするような調子でふたりのことを話すようになった。おかげで四月が終わるころには学年中にふたりの奇妙な言動は知れ渡っていた。


 そして当の宏美と比呂乃といえば、青井蒼太に脳のリソースを取られているせいで、奇異な視線を集めていることに未だ気づいていなかった――。

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