(4)

「今日、舞い手の方が参拝に来られたんですよ」


 夕餉ゆうげの席で鏡子はそう御前様に話しかける。

 やはり御前様も舞い手のことが気になるのか、鏡子の話に興味を示した。


「ほう、どんな巫女だった?」

「とても清らかな方です。活発そうな感じの方でしたよ。もともとこの地にいる人間ではないようでしたが……」

「そうか。氏子でないのは残念だが、これも時代か」


 そう言う御前様の顔はどこか寂しげだ。

 時代の流れと共に鏡子が生まれ育った地を離れる人間は年々増えているようだ。

 鏡子が生きていた時も同年代の者はかろうじて両の手で余るくらいであった。


 この周辺も昔はもっと賑やかだったのかもしれない。

 鏡子は己の知り得ぬ風景に思いを馳せる。


「さて、まあ久々の祭りだ。いかような神楽を見られるのか、楽しみよの。宝珠、その巫女のことをもっと話せ」

「話せと言われましても地元の人間じゃありませんから、面識なんてまったくありませんし」


 巫女神楽の舞い手に興味を示す御前様に、鏡子は形容しがたい感情を抱いた。


「……御前様、神楽の舞い手というのはそんなに気になりますか?」


 思わずそんな返しをすれば御前様は緩やかに口の端を上げ、唇を三日月の形にする。


「そうさなあ、六年に一度の祭りだからな。……どうした、嫉妬したか?」


 御前様の言葉に鏡子は頬が熱くなるのを感じた。

 そうして慌てて弁明する。


「違います! そんなことはありません」

「ふふ。まあそういうことにしておこう」

「本当ですってば!」


 鏡子は言葉を重ねるが暖簾に腕押し

 。悪戯っぽく笑む御前様の姿に鏡子はむっとしてしまう。

 そしてその後で子供っぽかったなと後悔する。

 体が成長も老化しないせいか、はてまた人との交わりが無くなってしまったせいか、本来なら大人と呼べる歳だと言うのにいつまで経っても子供っぽさが抜けないのだ。


 御前様は立ち上がると優美な動作で鏡子のそばに寄る。

 そしてほっそりとした、しかし鏡子よりも大きな手で彼女の髪をそっと撫でた。


「そうへそを曲げるな」

「曲げてません」


 そう言いつつも鏡子は心に小さなささくれのようなものが出来ているのを感じた。

 それは鏡子の中に渦巻く不安である。


 鏡子が死を受け入れられずに彷徨っていた時、掬い上げてくれたのが御前様だった。

 そして彼は「鏡子の舞いに心を奪われた」と言ったのだ。


 あとで御前様は幼き頃の鏡子と婚姻の約束をしたと言ったが、鏡子はあれは方便ではないかと考えていた。

 そして社へ鏡子を迎え入れた真の理由が御前祭で奉納した巫女神楽だとすれば、此度の祭りで武藤という少女が舞いを披露した時、同じように御前様は心奪われるのではないか。

 鏡子の中でそんな不安が首をもたげて来たのだ。


 もし、もしも御前様があの少女の舞いに心奪われたら。

 もしそうなったら、自分はどうなってしまうのだろう?

 そうなってしまった時、神となり人の理から外れてしまった自分はどこへ行けばいいのだろう。


 鏡子はそれが気がかりで仕方がなかった。

 他人より器量がいいわけでもなく、気遣いが上手いというわけでもない。

 どちらかといえば内向的で他者を楽しませる術を心得ているとは口が裂けても言えない始末。

 唯一誇れるのは御前様に褒められたあの巫女神楽だけである。


 その、唯一といってもいい長所が潰されたとき、どうなってしまうのか。

 鏡子は想像すらしたくなかった。


 ちらりと御前様に目を遣れば、御前祭が近いのが嬉しいのか上機嫌である。

 鏡子の内心には気づいてなどいないだろう。

 もとより神と人。まったく違う存在だったものなのだ。


 そして鏡子は己の心中を御前様に言うつもりはなかった。

 こんな鬱陶しい感情を曝け出すのは気が引けたし、恥ずかしくてとても出来ない。

 結局は隠し通すしかないのだ。


 たとえ御前様が、鏡子の舞いよりあの少女の舞いの方がいいと言っても、最後までこの醜い感情を吐露することはないだろう。


「御前様――ひゃっ」


 戯れのように御前様が鏡子の首筋に顔をうずめる。

 御前様がこのようなことをするのは珍しいことではない。

 とはいえいくら夫妻であれども気恥ずかしいものである。


「御前様、またこんなことをして……」


 朱に染まっているであろう頬を見られたくなくて、鏡子はわずかに顔を背ける。


「よいではないか。宝珠の傍は心地が良い」

「もう……」


 仕方がないといったような格好を取るが、その胸中で鏡子はまだ御前様の御心はこちらにあると安堵するのであった。



 *



 また別の日にあの三人は境内にやって来た。

 今回は巫女神楽でふえの奏者を務める年配の禰宜と共に、実際に神楽殿に上がって練習をするらしい。


 そういえば最初の内は公民館で練習を重ねていたなと鏡子は過去を思い起こしていた。

 もともと舞踊などをたしなんでいたわけでもなかったから、舞いの動きに慣れるまでに時間がかかったことも懐かしい思い出だ。


 鏡子はあの三人が――特に武藤という名の舞い手が気になり、屋敷を出て本殿から朱塗りの神楽殿を眺めていた。

 その隣にはやはり鏡子と同じように神楽巫女が気になるのか御前様がいる。


洸希こうきくん今日は来ないんだね」

「あー森川くんの弟と遊ぶってさ。薄情な弟だよね」

「でもそれだけ調子いいってことだろ?」


 年配の禰宜が神楽殿の準備をしているあいだに三人は雑談に興じている。


「まあね。空気がキレイだから最近はちょっとはマシになったみたい。発作も起きてないし」

「このままよくなるといいね」

「うん。あ、舞いの奉納が上手く出来たらもっとよくならないかなあ?」


 武藤の言葉に鏡子は傍らにたたずむ御前様を見る。


「とおっしゃってますが?」


 かしこまったように言えば御前様はゆるりと笑み、冗談めいて「舞い次第だな」と言った。


 間もなく舞いの練習が始まった。

 武藤は学校の体操着らしいラフな恰好で神楽殿の脇に控える。

 その手に開いた舞扇を掲げ、禰宜の奏でる笙のと共に神楽殿へと上がった。

 本来であれば鼓なども共に奏でられるのだが、今回の練習では合わせるのは笙だけであるらしい。

 そういえば六年前の鼓の奏者は神職ではなくボランティアだったなと鏡子は思い出した。


 厳かな笙の音が空気を震わす中、武藤は静かに舞い始める。

 その姿は思わず食い入って見てしまうほどに美しかった。

 すらりと伸びた若木のような健康的な四肢が神楽殿の上で踊る。

 しっかりとして、それでいて軽やかな足取りは自信と尊厳に満ちている。

 切れ長の目は確固たる強さを持って眼前を見据えていた。


 鏡子は息を飲む。

 武藤の舞いの素晴らしさに。

 そして心臓をずたずたに引き裂かれたかのような衝撃を受けた。


 なんて美しい舞いなんだろう。

 かつて憧れた舞い手よりも洗練された動き。

 そして確実に己よりも完成された動き。


 鏡子は武藤の力強い優美さに見蕩れると同時に、激しい嫉妬と焦燥を覚えた。


 強張った顔のまま傍らにいる御前様を見る。

 そして御前様の輝くような横顔を見て、鏡子はよりいっそう打ちひしがれた。


 御前様の瞳は神楽舞を舞う武藤へ一心に注がれている。

 そしてその双眸は見ているこちらが焦がれてしまいそうなほどに熱い。


 やめて。


 鏡子は心の中で悲鳴を上げた。

 胸の裏で黒く粘ついた淀みが渦巻いているのを感じる。

 それは形容しがたい、不快な感覚だった。


 やめて!



泉美いずみっ!」


 笙の音が止まり、皆の視線が鳥居の下に集まる。

 そこには武藤によく似た面立ちの、大学生ほどと思しき女が息を切らせて立っていた。

 どうやら境内に繋がる石段を駆け上がって来たらしい。肩で息をしながら女は神楽殿へと走り寄る。


「すいません佐伯さえきさん」

「おねえ、どうしたの?」


 武藤の姉らしい女は神楽殿にいる禰宜へ頭を下げると武藤の方へ顔を向けた。


「洸希が倒れて……」

「えっ?!」


 武藤の顔が一瞬にして青ざめる。


「だいじょうぶなの?!」

「とにかく一度一緒に病院に行こう。下で祖父ちゃんが待ってるから。……佐伯さんお騒がせしてすいません」

「気にしないでいいよ。それよりも早く行ってあげなさい」

「すいません佐伯さん! 失礼します! おねえ、早く行こう!」


 あとに残された三人はあれこれと武藤の弟を案じる言葉を交わしている。


 御前様を見ると神楽が中断されてしまったことを残念がっている風であった。

 そんな御前様の様子に鏡子は心の中で安堵のため息を漏らす。

 そしてそんな風に思ってしまう自分に嫌気が差した。


 それでも、と思う。

 それでも途中で武藤がいなくなってよかったと思った。

 あのまま舞いを続けていたらどうなっていたのか。

 なにも、変わらないかもしれない。

 でも鏡子は胸騒ぎを抑えられなかった。


 武藤が神楽舞を踊り切っていたら、自分はどうなっていただろうか?


 得体の知れない恐怖が鏡子の心を苛む。


 鏡子がぼうっとしている内に森川が穂高に「洸希の無事を祈ろう」と本殿の方へと向かっていた。

 動揺を隠しきれない様子の森川に対し、穂高は落ち着き払っている。

 そして二人は鈴緒を引くと柏手を打って目を閉じた。


「あの女の方、泉美とやらのことをあまりよく思うておらぬようだな」


 御前様の言葉に鏡子は虚を突かれる。

 同時に今の自分のことを指摘されたようで気まずい思いをした。


「どうしてでしょう……」

「さてな」


 御前様はそれ以上なにも言わなかった。

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