(2)
縁側をしずしずと歩いていた鏡子は庭に咲くアヤメやカキツバタを見つけるとその足を止める。
赤い庭橋のかかる池の周囲で花開かせるそれらを見て鏡子は夏の訪れを感じた。
この屋敷では暑さ寒さでは四季を感じることが出来ない。
鏡子は本殿から繋がるこの屋敷に身を置いてそのことに驚いた日のことを懐かしく思い出していた。
鏡子が交通事故で他界してから実に六年の歳月が流れていた。
あの日、鏡子は御前様に連れられて彼が住まうこの屋敷へ足を踏み入れた。
当初は御前様の「妻になる」ということの意味をわかっていなかった鏡子も、年月が経つにつれ否が応でも理解することとなった。
神である御前様の妻になるということは神格の末席に名を連ねるということだ。
よって鏡子は御前様の妻になることを了承した時から人の理から外れてしまっている。
そして死者ではなくなり、しかし生者でもないから外見が年を重ねるということもなくなった。
鏡子の姿は六年前のあの日から一つも変わらず、十四歳の少女のままであった。
その影響なのか、鏡子は未だに自身の心持が十四の子供の頃から変わっていないと感じている。
本来であればもう二十歳。
社会的に大人と呼ばれる年齢のはずであるというのにだ。
それを痛いほど感じるのは御前様の社へかつての同輩たちが訪れたときである。
彼ら彼女らはそこに鏡子がいるということを知らない。
しかし鏡子は神様の側として彼らを嫌というほど知ることになる。
手を合わせ捧げられる祈りや願望から、鏡子は彼らの内面を、そしてどれほどの月日が過ぎ去って行ったのかを感じる。
つい数年前まで勉強や恋の望みを念じていたのが、気がつけば家族や仕事のことへと変わっている。
鏡子の暮らす
そうであるから余計に彼らとの差を鏡子は感じてしまうのだ。
死んでしまったあの日から、鏡子はこの屋敷で労働に従事することもなく安らかに暮らしている。
他方、生を進むかつての同輩たちは勉学に精を出し恋をして、それから中には家庭を持って子を持つ者も現れた。
そうしたとき、鏡子は失ってしまった未来につい思いを馳せてしまうのである。
この屋敷に来たことを後悔しているわけではない。寄る辺ない鏡子を招き入れてくれた御前様には感謝しているし、御前様に仕える神職の者たちにも鏡子は感謝の念を絶やすことはなかった。
御前様の妻となった鏡子であったが、かといってそこにいわゆる夫婦生活のようなものはない。
未熟な性のまま死したためか、鏡子自身そのことについて不満を持ったことはなかった。
それよりも気になったのはなぜ突然妻として迎え入れてくれたのかという点である。
鏡子は屋敷に来てしばらくしてからそのことを御前様に問うた。
すると御前様は「約束をしたであろう」と答えたのだ。
「約束、ですか?」
「そうだ。そなたがまだ幼き
確かに鏡子はこの地で生まれ育ち、御前様のおわす社も馴染み深い場所であった。
初夏の時期の祭りには両親に連れられて屋台を巡ったものであるし、幼少の頃には幼馴染たちと境内であれこれと遊びに興じたこともある。
しかし御前様に会った覚えはなかった。
そもそもいわゆる心霊現象のような不可解な出来事にも遭遇したことがないのだ。
そんな鏡子も今や一般常識でいえば「オカルト」な存在であるわけだが。
思い出せずに気まずい顔をする鏡子を見て御前様は緩やかに笑んだ。
「まあ、覚えておらずとも致し方あるまい」
「すみません……」
「よいよい。そんな顔をさせるために言うたのではないわ。……そうさな、あれは皐月の頃のこと。そなたは馴染みの娘が神楽巫女を舞うと聞いて私の社に訪れたのだ。簡単に言うと一目惚れだ。だからその時に問うたのだ。『私の妻になってくれぬか』と。……まあ、そなたは言葉の意味を解してはいなかったようであるし、私もそこまで本気にはしておらなんだ」
その言葉に鏡子はどきりとした。
「一目惚れ」と言われながら「本気ではなかった」と言われ鏡子の胸の内はざわめく。
そんな鏡子の様子を察したのか、御前様は鏡子に近づくとそのまろやかな頬をそっと撫でた。
「『本気ではなかった』とは『連れて行く気はなかった』と言うことだ。言葉が少なかったな。妻にするということは人ではなくなるということだ。だから『本気で連れて行くつもりではなかった』ということよ」
「それなら、どうして連れて来て――あ……わたしが死んじゃった、から?」
御前様は慈愛に満ちた目で鏡子を見る。
「そうだ。そなたがこの世に心残して立ちすくんでいる姿を見て――どうしようもなく
鏡子はやはり御前様の真意を汲み取ることは出来なかった。
同情されているというのだけはわかったが、御前様の言葉にはそれ以外の意味も含まれているように感じたのだ。
「御前様、あの」
「ん? どうした
宝珠、とは鏡子に与えられたこちらでの呼び名である。
「こちらに連れて来てくれてありがとうございます。わたし、どうすればいいかわからなかったから……その、御前様のお陰で楽になれました」
鏡子はそう言って深々と頭を下げる。
世辞ではなくその言葉に偽りはなかった。
まだ己が死したことや両親のことを完全に受け入れたわけではなかったが、それでもだれかが寄り添ってくれるというのは想像以上に心を楽にしてくれたのだ。
他人――御前様は人の身ではないが――の存在をこんなにも有り難く思ったことはなく、同時に生前の自身を思い出すともう少し周囲に感謝して生きていたらと思わずにはいられないくらいだ。
御前様は鏡子の肩を叩く。
そして顔を上げた鏡子の頭を優しい手つきで撫でた。
御前様はよく鏡子の体にこうして触れて来る。
そこに邪なものを感じたことはなく、どちらかといえば親に撫でられるようなそんな印象を受けるものであった。
鏡子も御前様のこの行いは嫌いではない。
御前様に触れられると温かい気持ちになれて、それが心地よいからだ。
「そなたはもう私の妻なのだ。遠慮することはない」
「はい。でも一度言っておかないといけないと思ったんです。それに『親しき仲にも礼儀あり』と言いますし」
実際、鏡子は親からそう教えられて育った。
いくら相手が良くしてくれて親しいからと、そこにあぐらをかいてはいけない。
互いを思いやる気持ちが良い関係を築くのだと両親は教えてくれた。
そしてその教えに間違いはないと鏡子は胸を張って言える。
少し両親を思い出し涙腺が緩んだ鏡子を、御前様はふいに抱き寄せてその背中をさする。
「
鏡子のまなじりに堪え切れなかった涙が浮かぶ。
しかしそれは以前ほどの辛さを感じぬ涙であった。
それがもう六年も前の話である。
光陰矢の如しとはこのことだと鏡子は溜息にも似た息を吐き出す。
鏡子はふと社の方がにわかに騒がしくなったことに気づいた。
どうやら参拝の客らしいがいつもより活気にあふれている。
「どうしたのかしら」
「宝珠様、あれは人間どもが祭りの準備をしているのでございますよ」
だれへ言うでもなくそうつぶやくと、いつの間にいたのか垂れ布を頭に被った神使の童子が答えてくれた。
この屋敷に住まうのは御前様と鏡子だけではない。
他に御前様へ仕えるものたちもいくらかいて、身の回りの世話をしてくれるのだ。
「そういえばそんな時期よね。もうアヤメもカキツバタも咲いているんだもの」
鏡子はこの時期になると未だに憂鬱な気分になってしまう。
祭りの時期が近づくと言うことは、両親の命日が来ると言うことを意味していた。
六年前のような身を裂かれるような苦しみを抱くことはなくなったが、それでももう二度と両親には会えないのだと思うとやはり悲しみを抑えきれない。
この感情が落ち着くのはいつになるのか、それは鏡子自身にもわからなかった。
それでも御前様のお陰で悲しみだけではなく喜びを感じることも多くはなった。
こうして穏やかに時が過ぎて行くのを幸せだと噛み締められる。
そういう風に考えられるようになっただけでも六年前よりはましだろう。
「宝珠、ここにいたか」
「御前様」
奥の部屋から長い髪を揺らし御前様が現れる。
その麗しい容貌は当然の如く月日で衰えることはなかった。
鏡子が六年前のあの日から姿が変わらぬように、御前様も六年前と同じ姿で鏡子に寄り添っている。
おこがましいことではあるが、そこに仲間意識のようなものを感じて鏡子は安堵するのである。
「どうかされました?」
「いや、神楽の舞い手が決まったらしくてな。懐かしく思うてそなたを探したのよ」
「舞い手が来ているのですか?」
「ああ」
御前様の言葉に鏡子はまた己の過去を懐かしく思い出す。
親しくしていた近所のお姉さんの神楽舞を見てから憧れていた奉納の舞いの役目を引き受けた日のこともまた、ずいぶんと遠い話のように思えた。
神楽を奉納する御前祭は六年に一度しかない。
次に神楽の奉納をする舞い手はどんな人なのだろうと鏡子は興味を持った。
知っている顔だろうか? それとも知らない人だろうか。
「祭りが楽しみですね」
「そうだな。鏡子のように見事な舞を奉納してくれるのを楽しみに待とう」
率直な御前様の言葉に鏡子は顔が熱くなるのを感じた。
そんな鏡子の様子を見て御前様は楽しげに目を細めるばかりだ。
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