第五章:魔王の座

第五十一節:魔王討伐

 

 不死者は決して眠らない。

 眠る事がない故に、決して夢を見る事もない。

 それは《死の大渦》、魔剣の王たるカリュブディスも例外ではなかった。

 魔王は眠らず、夢も見ない。

 魔剣に「己の死」を対価として差し出した、永劫に死ぬ事のない身体。

 そもそも脳すらないその身は、構造的に睡眠を必要としていない。

 それでも、永遠となった魂が休息を求めるのか。

 鋼の玉座にて、カリュブディスは己の意識が微睡んでいるのを感じていた。

 微睡み、何処か遠いところへと誘われる感触。

 ――嗚呼、これは夢か。

 その眼が見ているのは、現の闇ではなく記憶の暗がり。

 最早、「人間であった」頃の記憶はカリュブディスの中には残っていない。

 だからそれは、魔王にとって最も古い記憶。

 魔剣《死人の支配者》の力で、地平線の果てまでをも死者の軍勢で埋め尽くしたあの頃。

 

 『――死者の夜明けだ』

 

 恐れるものなど何もなかった。

 いやむしろ、恐怖の具現こそ己だと確信していた。

 神々も自分を滅ぼす事は出来ず、他の魔王との争いも経て物質世界から消え失せた。

 それは結果として、相争うはずだった難敵の数を大きく減らす事となり。

 その時代、限りなく世界の頂点に近い場所に魔王カリュブディスは君臨していた。

 敵はいない。恐れるべき者は誰もいない。

 剣の一振りで見渡す限りの死者が立ち上がり、ただの一声でその全てが眼前に平伏す。

 神話から続く争いは、大地に数えきれないほどの死をもたらし。

 死者の王たるカリュブディスは、ただ其処に在るだけで死者の国を実現する。

 生者は逃げ惑う他なかった。

 仮に挑んだとしても、たった一つの命を失えば後は王に傅く他ない。

 神々もまた無力だった。

 契約を交わした司祭無くば地上に干渉する事もままならず、魔王を止める手立ては絶無。

 儚い抵抗は幾度かあった。

 けれどその全てを、《死の大渦》は容易く呑み込んだ。

 命を呑み込み、大渦はまた強く大きくなる。

 それはやがて、大陸全土を飲み干して更にはその「外側」まで広がっていくだろう。

 誰もが――カリュブディス自身も、それを確信していた。

 

 『愚かしき、我が夢よ』

 

 微睡みの中で、カリュブディスはそう呟く。

 それは現の自分が口にしたのか、それとも夢が映し出す過去が語る言葉だったか。

 その境界は曖昧で、ハッキリさせる意味もない。

 過去と現在、その二つの視点からカリュブディスは見ていた。

 曖昧で、恐らくは「目覚め」と共に薄らいでしまうだろう情景。

 それでも尚、永劫たる魂の奥底に刻み込まれた、永遠に消える事の無い傷痕。

 ――かつて、《死の大渦》が敗北を喫したその瞬間。

 

 「――――!」

 

 叫び。魔王のものではない、人の声。

 飾り気のない大剣を振り上げた蛮人が、真正面から魔王に向けて挑みかかる。

 それを助けるように、銀の鎧を帯びた古妖精と黒鉄の鎧で固めた地妖精が地を蹴った。

 偉大な賢人が恐るべき呪文を唱え、地母神の高司祭がただ一心に神の奇跡を祈る。

 それ以外にも何人かが、勇敢にも魔王との決戦に望んでいた。

 その数は、合わせて六人ほどか。

 死者の王たるカリュブディスは、相手が何人であるかなど微塵も気にはしていなかったが。

 矮小な生者がほんの数人、健気にも抵抗の意思を見せている。

 まったく以てつまらない些事だ。

 指先を予期せず埃で汚してしまった――カリュブディスにとって、その程度の感覚だった。

 重く鋭い刃も、戦鎚の衝撃も、恐るべき呪文や呪いの数々も。

 《死の大渦》にとって、それらは何の痛みも齎さない。

 ――無駄な事を。

 過去の己が、抗い続ける生者達をそう嘲る。

 そうだ、何の意味もない。

 力の差は隔絶していたし、そもそもカリュブディスは「真の不死」だ。

 その在り方を真似て「不死の法」を見出した、不出来な「後追い」達とは格が違う。

 ――我が身は不滅。限りある己が身を呪うが良い。

 笑う。嘲笑う。《死の大渦》はその奮戦を無価値であると断じた。

 数多の障害を乗り越え、特別に仕立てた「手駒」を全て粉砕し。

 死の山の頂上、滅びの火が吹き上がる玉座にまで辿り着いた事は、確かに驚嘆に値する。

 だがそれも、カリュブディスにしてみれば稀少な供物がわざわざ自分からやって来たようなもので。

 その命を奪い、魂を束縛し、新たに強力な死者を手駒として置く事が出来る。

 本当に、それ以上の意味は感じていなかった。

 

 『驕れる王よ。我が事ながら、笑ってしまうな』

 

 こうした者が、容易く毒杯を煽ってしまうのだろう。

 戦いは、どれ程続いただろうか。

 生者達はよく戦っていた。

 互いが互いを助け合い、圧倒的と言う他ない魔王の猛攻に良く耐えた。

 それでもやがて、限界は訪れる。彼らは「永遠」ではないのだから。

 呪文の尽きた賢者が膝を折り、高司祭はもう奇跡を行使するだけの心の力が残っておらず。

 直接魔王と刃を交えた戦士達も、まともに立っているのは蛮人だけとなってしまった。

 それもただ、精神力だけで二本の脚を支えているという有様で、物理的な限界はとうの昔に超えている。

 ――これで終わりか。退屈な出し物だったな。

 何の感慨もなく、魔王は英雄達の戦いを切って捨てた。

 確かに、此処まで成し遂げた事実は稀有ではあろう。

 しかし《死の大渦》に挑んだ者など、それこそ星の数ほど数多にいる。

 そしてただの一人として生きては戻らなかった。いや、

 それが全てだ。カリュブディスにとって、何もかもが見慣れた結果に過ぎない。

 故に、その結末もまた決まっていた。

 最早抗う力を持たない生者達に、魔王はゆるりと近付く。

 ――無意味な戦いではあったが、褒美ぐらいはくれてやらねばな。

 そう笑って、カリュブディスは手にした魔剣を構えた。

 戦う為では無く、その幕引きを飾る余興の為に。

 もう僅かにでも、英雄達に戦う力は残されていないと。

 分かっていたからこそ、魔王は完全に油断していた。

 何の脅威もなく、ただ剣を掲げて――。

 

 『……あぁ』

 

 そうして、運命の時は訪れる。

 ほんの少しの抵抗も無く、握っていた柄の感触だけが消え失せた。

 一瞬、我が身に起こった事を魔王は理解出来なかった。

 そしてみる。今まさに、魔王の手からその魔剣を掠め取った者の姿を。

 大きな鞄を下げ、震えながらも真っ直ぐにカリュブディスを見る年若い小人を。

 何故。何時の間に。

 様々な疑問が過るが、その時のカリュブディスに思考で答えを出す時間はなかった。

 魔剣を、カリュブディスの魔王たる力の源が奪われた。

 奪って、そして小人は躊躇いなく走る。

 向かった先。魔王の玉座から直ぐに見られる場所に、「それ」はあった。

 この地が死の山と呼ばれる所以たる、大地の熱き地脈が噴き出す火口。

 魔剣を、通常の物理的手段で破壊する事は出来ない。

 だが、熱く流れる大地の血潮に呑まれたならば、果たしてどうなるか。

 恐怖と戦慄を、初めてカリュブディスは感じていた。

 この地に玉座を置いたのは、ほんの戯れから。

 死の山ですらこの《死の大渦》を脅かす事は出来ないと、そう示す為だけの戯事だ。

 しかしこの者達は、其処から魔王を討つ為の僅かな勝機を見出していた。

 己の魔力と不死性、その絶対的優位を疑わなかった魔剣の王カリュブディス。

 それが此処で、決定的な敗北を刻み込まれる。

 止める暇など微塵もなく、魔剣は死の山の口へと投げ入れられた。

 魔剣を手元に呼び戻す為の魔力を放つが、それは予め英雄達が敷いていた結界によって阻まれる。

 魔王の剣、《死人の支配者》が地に墜ちた。

 赤く焼けた血潮に呑まれれば、剣と繋がった魔王自身も燃え上がった。

 カリュブディスは不死にして不滅。

 だが、魔剣の王たるその存在は、同時に己の魔剣に縛られてもいた。

 ――あり得ぬ。こんな事は、あり得ぬはずだ。

 否定。否定。否定。

 ただその言葉だけが思考を埋め尽くすが、結果は覆らない。

 焼け落ちる。日が地平に沈むように、死者の為の夜明けが終わる。

 魔剣を失った魔王は、自らを物質的に繋ぎ止める力さえ消失し。

 真っ赤に燃える炎の中で崩れ落ちた。

 

 『あぁ――懐かしき、我が屈辱の日々よ』

 

 カリュブディスは不死不滅。

 魔剣が地の底に沈み、凄まじい高熱と果てしない月日に晒され朽ち果てても。

 それでも、滅びる事だけはなかった。

 現世と幽世の狭間で、カリュブディスは長い思索の時間だけを得る。

 自分が何故、敗北したのかを。

 ――結局のところ、油断と慢心に足元を掬われたのだ。

 あの日、戦った者達の多くを、カリュブディスは単なる「無謀」と嘲笑った。

 どんな策を持っていようが、決して自分には届かないと。

 それをごく当たり前の事実と考え、侮り切っていた。

 そうして刻まれた、敗北という結果。

 あの小人は、最初からずっと身を隠し続けていたのだろう。

 近付き過ぎず、離れ過ぎず。

 万が一にも気配を感じ取られれば、その時点で確実に死ぬ距離を保ち。

 仲間達が傷つき、倒れていく地獄の死線をただじっと見ながら。

 魔王の手から魔剣を奪い取る、その一瞬の隙をたった一人で待ち続けたのだ。

 それは果たして、どれだけ心を削り取る時間だったか。

 

 『我には到底、理解出来ぬ話よな』

 

 絶対的強者であり、永劫の王たる《死の大渦》は笑った。

 笑いながら、敗北の後に訪れた思索の時を振り返る。

 その時のカリュブディスは呪っていた。自らを討った英雄達を。

 その時のカリュブディスは憎んでいた。この世界の全てを。

 呪い、憎み、幾度となくあの時の戦いを振り返り続ける。

 何故、自分は負けたのか。

 何故、彼らは勝ったのか。

 何故、あの結果に辿り着いたのか。

 何故、何故、何故、何故、何故――。

 気が遠くなる程の自問自答に、定まった答えなど出るはずもなく。

 けれどいつしか、魔王は呪詛も憎悪も忘れていた。

 それらの感情が去った後に残ったのは、唯一つの欲求。

 長い、果てしなく長い年月で抱き続けた、疑問に対する解答。

 それは即ち――。

 

 『……あの時、我が負けて彼らが勝った。それは本当に、覆せぬ運命さだめだったのか』

 

 あの時の結果は、油断や慢心によって導かれたものであるなら。

 かつて程の力は無くとも、辿り着いた勇士達を全力で以て迎え撃ったとしたら。

 果たして、戦いの結果はどうなるのか。

 長き眠りから目覚めさせられた魔王は、そのたった一つの答えだけを求めていた。

 

 『――さて、歓迎しよう。来訪者よ。大したもてなしも出来ず、心苦しくもあるがな』

 

 鋼の玉座から、魔王は立ち上がる。

 とうとう此処まで辿り着いた者を迎え入れる為に。

 

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