第三十五節:蒼褪めた騎士

 

 夜の海を、大きな黒い影が進む。

 それは一隻の帆船だった。

 別段、船自体は珍しいものではない。

 水の都アディリアンを有するファニル海は、常に多くの船が行き交っている。

 けれど、夜闇に同化しながら揺れるその船は、尋常な存在ではなかった。

 船体のあちこちは腐食してボロボロで、長い年月を風雨に晒され続けたような有様だ。

 広げられた帆も同様で、とても風を受けられるようには見えない。

 極めつけは、船の甲板で蠢いている者達。

 月も無い真夜中にも関わらず動いているのは、誰も彼も死体か髑髏。

 生きていない者達を乗せた、死んでいるはずの船。

 幽霊船ゴーストシップだ。

 時に船乗り達の恐怖として語られる不死者の船が、我が物顔で夜の海を進んでいた。

 

 「……まったく、素晴らしい」

 

 その幽霊船の甲板にて。

 機械的に動く死体や骸骨とは異なり、個の意思を保つ者がいた。

 怪しげな黒装束に身を包んだその男も、やはり人間ではない。

 大渦の紋章を首から下げた、魔王崇拝者。

 カリュブディス復活のその場に居合わせ、その力で屍人ワイトとなった一人だ。

 男は魔王の先兵として、この幽霊船の不死者達を預けられていた。

 

 「船の屍さえも意のままにするとは、やはりカリュブディス陛下は素晴らしい。

  狂った薔薇帝などより、あの御方こそがこの世を支配するに相応しい……!」

 

 たった一言で殺され、あまつさえ不死に呪われたにも関わらず、男は魔王の力に心酔し切っていた。

 不死者と化した時点で、不死者を支配するカリュブディスの魔剣の影響下ではある。

 しかしそれを差し引いても、男の魂は堕落していた。

 人間では考えられない程に高度な魔術を操り、たった一声で無数の不死者を操るその者に。

 あれこそが王だ。あれこそが万物の頂点。

 あの御方を目覚めさせた我らの所業は正しかったと、男は動かぬ心臓の鼓動を高鳴らせた。

 

 「哀れな街の人間共も、今頃阿鼻叫喚の最中であろうな」

 

 その哀れな様を想像するだけで、男は自然と笑みを浮かべる。

 そうしてから、船首の方へと視線を向けた。

 其処に立っている者もまた、偉大なる王の御力の一つ。

 やや歪な形状の大剣を夜空に掲げた、それは一人の騎士だった。

 全身を青く染めた甲冑で覆った、蒼褪めた騎士。

 魔剣《疫病の風》を持つカリュブディス配下の四騎士の一人であった。

 それもまた生者に対する敵意以外の感情を持たず、一睡もする事無く病の風を吹かせている。

 既に死んでいる不死者達には何の影響もないが、生者には一呼吸でも身体を蝕む毒だ。

 病の混ざった潮風で、遠からずアディリオンは水の都から死の都となるだろう。

 その時、死体で埋め尽くされた死んだ街に、先ず自分が降り立つのだと。

 屍人の男は、疑いようもなくその未来を確信していた。

 

 「…………む?」

 

 ふと、何かの物音を聞いた気がした。

 男は周囲に視線を巡らせるが、見えるのは船員として働く死体か骸骨のみ。

 彼らはこの幽霊船を動かす歯車であり、一時たりとて休む事はない。

 蒼褪めた騎士にも変化はない。そちらも今は、魔剣の発動状態を維持するのに専念している。

 船の縁に近付いて、目を凝らしてはみるが――何もない。

 波は少しばかり荒く、ボロボロの船体にぶつかっては強い飛沫を上げている。

 

 「……波の音か?」

 

 そも、何か聞こえた気がしただけで、それが何の音かもよく分からなかった。

 恐らく気が高ぶっているせいで、空耳でも聞いてしまったのだろう。

 男はそう結論付け、直ぐに気にするのを止めた。

 屍人となって生の煩わしさから解放されたが、眠る必要がないのも場合によっては困りものだ。

 ただ船に揺られるだけの時間も、大人しくしている他ない。

 

 「酒も酔えんし、味も分からなくなってしまったからなぁ」

 

 そのぼやきは、ある意味では死体となった男に残った僅かな人間性でもあった。

 けれど不死者となり、その事実を受け入れた者にはもう何の意味もなく。

 これより、この幽霊船を沈めんとする者達にとっては、何の関わりもない事だった。

 

 「っ!?」

 

 突然の衝撃。既に死んでいる男は、その事態を咄嗟に理解出来なかった。

 今までも波で大きく揺れる事はあったが、今回は明らかに質が違う。

 何か大きな物が、船の真横から激突したような……。

 

 「イアッ!!」

 

 続いて響くのは、夜を割らんばかりの大音声。

 風を切り、鈍い音と共に船員の死体が幾つも甲板にブチ撒けられる。

 

 「っ、敵だと……!?」

 

 視線を巡らせば、その姿は直ぐに見つけられた。

 いつの間に、どうやってこの幽霊船に上がり込んだのか。

 夜の闇に浮き上がるように、巨大な金棒を担いだ蜥蜴人が船員達を蹴散らしている。

 侵入者は当然、それだけではない。

 

 「いやぁ、案外気付かれないもんだねー」

 「見たところ、どいつもこいつも神経のなさそうな連中だしねぇ」

 

 軽口を叩き合うのは、小人の忍びと人間の女司祭。

 遅れて対応に動く髑髏の船員達は、侵入者を取り囲もうとする――が。

 小人が手に持つ細剣が閃くと、どいつもこいつもその場で無様にスッ転んだ。

 不死者は既に死んでいるが故に、生命活動に対する急所は存在しない。

 腹を裂かれようが心臓を潰されようが、既に死んでいる身体はそれ以上死にようがない。

 故に細剣の切っ先が狙ったのは、足や膝の関節。

 繋がった筋や接合部自体を破壊されれば、歩行そのものが不可能となる。

 

 「ま、こんなもんで。姐さんは準備オッケー?」

 「あぁ、ばっちりだよ。それじゃ聖なる光を喰らいなっ!」

 

 屍人が驚き瞠目した技も、冒険者達からすれば単なる時間稼ぎの芸に過ぎない。

 女司祭が化身の骰子を掲げると、神の聖光が炸裂した。

 一瞬だけ、夜を真昼に塗り替えるような輝き。

 それが晴れた後は、甲板上にいる不死者の大半が塵となって崩れ去っていた。

 屍人は消滅こそしていなかったが、強烈な光に焼かれて身を竦ませる。

 

 「貴様らァ……!」

 「ほう、言葉が分かる者も混ざっていたか」

 

 薙ぎ払う相手がいなくなり、蜥蜴人はゆるりと進み出る。

 その圧力に怯んでしまうが、屍人は直ぐにその表情を笑みの形に歪めた。

 そうだ、恐れる事など何もない。

 自分はもう人間ではなく、偉大なる魔王カリュブディスに選ばれた――。

 

 「悪いけど」

 

 ザクリと、鈍い音が屍人の身体の中を通り過ぎた。

 何が、起こっているのかと、思考が細かく千切れて、何故か視界が回り。

 

 「雑魚に用はないの。さようなら」

 

 最後に見えたのは、闇の中でも尚輝く美しい少女の姿で。

 首を断ち斬られ、それを更に二つに割られた屍人の男は、あっさりと意識を霧散させた。

 

 「……本当に、見事な腕前だな」

 

 四人からやや遅れて甲板に上がってきたのは、鎧姿の古妖精――クウェルだった。

 船にいた不死者は殆ど蹴散らされ、残っているのもルージュの聖光に逃げ惑うばかりだ。

 

 「上手く行ったわね。最初は正直、どうなるかと思ったけど」

 「『角』の資本力様々だねぇ。後は船酔いさえしなけりゃ完璧だったわ」

 「あんだけ事前に呑んでりゃ、そらゲロの一つや二つ吐くでしょうよ」

 

 微妙にスッキリとした空気を醸すルージュに、ビッケは思わず突っ込んだ。

 冒険者一行が此処まで乗ってきた船。

 それは今、船首を幽霊船の横腹にぶつけた、やや細長いシルエットの小型艇だ。

 冒険者組合『角』が用意したそれは、一般的に使用されている帆船とは大きく異なる。

 特殊な術式が内部に刻み込まれ、風が無くとも航行可能な最新の魔導船。

 操作には多少の術の心得が必要だが、それも数人いれば事足りる。

 まだ試験段階で、実用化には至っていない稀少な船だ。

 クウェルの占術の導きを受け、冒険者達はこの船で敵の幽霊船に突撃したのだった。

 

 「で、雑魚はサクっと片付いたけど……」

 「あぁ、俺とクロエ以外は少し下がった方がいい」

 

 努めて抑えた、けれど戦熱の滲む声でガルは言う。

 それに応じるのは、言葉ではなくガシャリと鎧が擦れる音。

 噎せ返るような瘴気に、クウェルとビッケは呻きながら一歩後ずさる。

 ルージュの聖光を浴びたはずだが、影響を受けた様子はない。

 その恐るべき姿を正面から見据えながら、クロエは魔剣《宵闇の王》を構えた。

 

 「……此奴が、二体目の魔剣持ちね」

 

 病の風を全身に纏った、蒼褪めた騎士。

 戦に狂乱していた赤い騎士とは異なり、此方は不気味なほど静かだ。

 兜の下の視線は酷く冷たく、其処には生者への機械的な殺意だけが秘められている。

 

 『…………』

 

 蒼褪めた騎士は黙して語らない。

 ただ、相対する冒険者達に向けて、その剣を掲げ。

 

 「っ!?」

 「ッ、がは……!」

 

 異変は、速やかに生きる者達全てを襲った。

 苦しげに息を吐き、その場に膝を着いてしまったクウェル。

 ビッケも思わず喉を抑えたが、倒れそうなのはギリギリのところで踏ん張った。

 ガルは見た目に変化はないが、同様に身体を内側から蝕まれる苦痛を感じ取っている。

 

 「……成る程、それが貴様の魔剣の力か」

 

 大金棒を振り被り、ガルは小さく呟いた。

 組合所有の魔導船に、クロエ達だけで乗り込んで。

 街に留まっている他の冒険者達を彼らと共に送らなかった、最大の理由がこれだ。

 魔剣《疫病の風》。名が示す通り、病の風を周辺に対し無差別にばら撒く。

 その恐るべき魔力の前に、数を揃える行為は何の意味もない。

 

 「毒や病気の耐性を上げる水薬ポーションもちゃんと呑んでんだけどなぁ!」

 「逆に、そのおかげでこの程度で済んでるかもしれないよ」

 

 そう言っているルージュも、神格との契約によって毒や病気の類には強い抵抗を有している。

 それでも思わず咳き込み、眩暈がする程度には魔剣の力も強大だ。

 災禍の中心、蒼褪めた騎士は剣を構えて歩を進める。

 病に冒され、弱り切った哀れな生者達の首を刈り取らんと。

 ――しかし。

 

 『…………!?』

 

 激突音。繰り出される斬撃を、蒼褪めた騎士は己が魔剣で受け止めた。

 病をもたらす風を裂くのは、黒い一陣の風。

 

 「残念ね。でも、そうそう好きにはさせないわ」

 

 纏った宵の「帳」で病の風を防ぎながら。

 クロエは真っ直ぐに、蒼褪めた騎士の前に立ち塞がった。

 

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