第二部:魔王の塔

序章:支配者の目覚め

第二十六節:死者の夜明け

 

 その企みは、地の底で密やかに進行していた。

 暗闇に深く閉ざされた広大な地下空間。

 本来なら其処は闇の女王の領域だが、集った者達は決して女王の臣下ではない。

 影に同化するような黒いローブを身に纏い、首には渦を意匠化した首飾りを掛けている。

 数は凡そ十人ほど。或いは、それ以上の数が闇に潜んでいるかもしれないが。

 何にせよ彼らは、一つの大望の為に儀式を遂行しつつあった。

 

 「――告げる」

 

 集団の先頭に立つ男は、朗々と聖句を唱える。

 捧げる先は、この空間の中央に位置する石造りの祭壇。

 悠久の年月に削られ、知らぬ者が見たならただの石塊と大差はないが。

 それは祭壇であると同時に、玉座でもあった。

 かつて、この世で最も偉大なる者の一人がこれに座っていた。

 

 「告げる。我は求め訴えたり。大いなる渦よ、混沌の先導者よ。

  全ての犠牲、流れたる赤き血肉を贄として、その暗きのどにて飲み乾し賜え」

 

 男の声は暗い熱を帯びていく。

 間もなく、間もなく悲願は成就する。

 思い出される数多の艱難辛苦も、今となればなんと細やかな試練であった事か。

 この日の為に全てを行ってきた。

 祭壇に――いや、玉座に捧げられた四本の剣など、その最たるものだ。

 いずれも主は無く、けれど伝説の一部として現世に取り残された強大無比な魔剣。

 これらを愚かな豚共の宝物庫から盗み出すのは、決して容易い事ではなかった。

 

 「目覚めよ。目覚めよ。目覚めよ。繰り返し、我は御身に告げん。

  夜明けは来たり! 死の大渦よ、剣の王の一柱よ!」

 

 風が渦巻く。空気の流れなどないはずの地下で。

 最初はほんのつむじ風程度だったものが、やがて大渦となって荒れ狂う。

 立っている事すらままならない中、多くの信徒らは動揺を隠せない。

 ただ一人、先頭の男だけが聖句の詠唱を止めなかった。

 

 「来たれ! 来たれ! 来たれ!

  偉大なる七つの王、汝の名は死の大渦たる者――――カリュブディス!!」

 

 果たして、その忌み名は遂に謳い上げられた。

 爆ぜる。渦巻く風が一気に玉座へと圧縮され、それが爆発した。

 信徒の大半が地に伏す中で、先頭の男――司教ただ一人だけが、静かに跪く。

 遂に、遂にこの時が来たのだと。

 万望の成就が為された事を確信し、司教は告げる。

 

 「――現世への御帰還、我ら一日千秋の思いでお待ちしておりました。

  我らが主、死の大渦にして不死なる夜明けをもたらす者。魔王カリュブディス様」

 

 指導者の言葉に誘われるように、他の信徒達もようやく視線を上げる。

 そして、見た。先ほどまでは空であった玉座を。

 一言で表すなら、それは屍だった。

 ボロボロに焼け、黒ずんだ骨身を晒す髑髏。

 かろうじて欠けた部分のない人体骨格が、石の玉座に着いている。

 その手には、やはり持ち手同様に黒く煤けた細身の剣が握られていた。

 これを杖代わりに、刃毀れだらけの切っ先で床を突きながら。

 髑髏の眼窩が、何もない虚ろが、ギョロリと己の周囲を睥睨した。

 

 『…………我を』

 「はっ」

 『我を、目覚めさせたるは、そなたらか』

 「はっ! 貴方様の忠実なる信徒たる我々が」

 『死ね』

 

 一言。

 己の信仰心を、その熱意を正に発露せんとした司教と。

 彼の傍に控えていた数人に信徒らが。

 髑髏の放った、たった一言で言葉通りに絶命した。

 外傷はない。ただ生命活動だけを停止させて、屍はその場に転がる。

 《死の宣告ワードオブデス》、最上級の呪いの発露だった。

 

 『つまらぬ事をしてくれる』

 

 崇拝している者からの、突然の凶行。

 信徒達はどよめき、恐怖と混乱に身を竦ませた。

 しかし髑髏――魔王カリュブディスは、そんなものは歯牙にもかけない。

 ただ朽ちかけた剣を緩く掲げながら、一つ。

 

 『立ち上がれ』

 

 命ずる。

 囁くように、けれど抗う事を許さず。

 異変は速やかに発生した。

 

 「っ、これは……一体……?」

 

 死んだはずの司教とその取り巻きらが、何事もなかったように立ち上がったのだ。

 再び驚きにざわめく信徒達。変化はそれだけでは終わらない。

 何もない地面から、無数の白い手が芽吹くように土を押し退ける。

 動骸骨スケルトンだ。

 かつてこの地で死んだ者達の遺骨に、魔王の声に応えた低級霊が憑依したものだ。

 数にして百を超える人骨の兵。

 カタカタと軽い音を立てながら、彼らも王の膝下に跪く。

 

 「おぉ……これが、死の渦たる王の力……!」

 

 王に殺され、王の力で屍人ワイトとして蘇った司教。

 骸に魂を縛られた不死者アンデッドにされながら、これを祝福と捉えて打ち震える。

 嗚呼、何と恐ろしくも素晴らしい御力か!

 ただの一声だけで、これ程の数の不死者を生み出すとは!

 感激に身悶える司教。其処にカシャリと、不意に鎧の音が響いた。

 見る。供物として玉座に捧げられた、四本の魔剣。

 それらがあった場所に、今や四人の騎士が王へとその剣を掲げていた。

 死の騎士デスナイト

 最上位の不死者のみが従える、最も恐るべき永遠の戦士達。

 カリュブディスは何の儀式も無しに、魔剣の持ち手を己の騎士として蘇生させたのだ。

 

 「す、素晴らしい……! 流石は陛下」

 『くだらぬ』

 

 感極まった信徒の賛辞を、カリュブディスは不機嫌そうに切って捨てた。

 いやそもそも、司教の言葉なんて聞いていないのかもしれない。

 倦怠の空気を隠す事なく、たった今呼び出した自らの配下どもを見下ろして。

 

 『かつては、ただの一声で地平を埋め尽くす軍勢を生み出した。

  しかし、今我の声に応じるのはこの程度か』

 

 笑う。炭化した肉片がこびり付くだけの髑髏が、己を嘲り笑う。

 司教は震えた。確かに自分達は、失われた王の御身を復活させる事には成功した。

 しかしそれは、完全とは程遠い。

 回収した王の魔剣に力を灯し、それをよすがに無の深淵から王自身をも引き上げた。

 それだけでも奇跡に等しい所業ではある。

 だがそれは、王を満足させるには到底足りないようであった。

 

 「も、申し訳ありませぬ、カリュブディス陛下……!」

 

 自らの不明を恥じ、司教は平伏する。

 それに対し、カリュブディスは怒りどころか僅かな関心も向けはしない。

 暫しの沈黙。

 地下の神殿に響くのは、まだ不死者となっていない者らの息遣いだけ。

 やがて。

 

 『……こうなっては、仕方あるまいな』

 

 呟く。それは魔王の声だった。

 その言葉に信徒らが疑問を浮かべるより早く、カリュブディスは玉座から立ち上がる。

 それから再び、己の魔剣を掲げて。

 

 『今一度、舞台を整えるか』

 

 その声に従うように、魔力が渦巻く。

 莫大な力は、さながら大渦のように荒れ狂う。

 同時に激しい鳴動が、地下の空間全体を揺るがし始めた。

 果たしてそれは、天変地異の前触れか。

 

 「へ、陛下!? 一体何を……!」

 『既に我は口にしたぞ。それすら分からぬ痴愚か、貴様は』

 

 永久氷獄コキュートスの極寒にも似た、凍てつく魔王の言葉。

 司教は引き攣った声を漏らして地に伏せる。

 そうしている間にも、カリュブディスの手からなる大魔術は進行していた。

 石の玉座がある以外、これと言って何もなかった空間が根本から作り替えられていく。

 剥き出しの土壁や地面は、綺麗に整えられた石造りの物へと変化した。

 幾つもの戦士や竜、悪魔を象った像は、そこらに転がった岩から一瞬で削り出される。

 玉座もまた、無数の剣を重ねたような鋼の姿に変貌した。

 司教や信徒達は、その不可思議な様をただ唖然として見守る他ない。

 

 『ふん、余り凝っても仕方あるまいが、さりとてみすぼらしいのもな』

 

 玉座の間が程ほどに整った事を確かめて、カリュブディスは少しだけ愉快そうに笑う。

 それは何処か、悪戯を誇る悪童にも似ていた。

 何処からか取り出した黒いローブを纏い、焼けた骨の身体を隠す。

 それからトドメとばかりに、魔力を編み込んだ魔剣の切っ先で強く石床を突いた。

 揺れる。今度は先ほどの比ではない、激しい振動。

 同時にその場にいる者は例外なく、その全身に強い重圧を感じていた。

 

 「お、王よ、畏れながら一体何を……」

 『決まっておろう』

 

 震えながら疑問を呈する司教に、カリュブディスは応じる。

 

 『土竜モグラと魔術師は地の底を好むようだが、生憎と我は王だからな』

 

 魔王は笑う。虚ろな眼窩の奥に、赤い光を揺らめかせて。

 先ほどまでは酷く退屈であったが、始めてみれば気分も上がるものだ。

 わざとらしく、芝居がかった仕草でカリュブディスは剣を振るって見せて。

 

 『低きよりも、より高き場所こそ好ましい。雲を見下ろすぐらいもあれば、尚良いな』

 

 王が何を語っているのか。

 司教も信徒も、等しくその意味を理解出来なかった。

 否応なく理解させられたのは、そのすぐ後。

 閉ざされているはずの地下空間に、光が差し込んだのだ。

 まさか、と。

 信じられぬ思いを鼓動の止まった胸に抱え、司教は光差す方を見る。

 地下――いや、この場はもう地の底ではなかった。

 大きく開いた石造りの窓から見えるのは、山の合間から顔を覗かせている太陽の姿。

 朝日だ。死人の群れを、曙の光が眩く照らしていた。

 

 『夜明けだ』

 

 闇の女王の領域から、光差す地上へ。

 魔術で大地から巨大な『塔』を生み出した魔王は、陽光の中で愉快げに笑った。

 カリュブディスは、その復活を万物に誇るように力を振るう。

 

 『この夜に眠りなくば、夜明けは幾度となく訪れる。ならば我はまた、夜の帳を下ろそう。

  眠らぬ不死者共の為の、安息の夜を。そして生ける者が惑う、気休めの朝を』

 

 死者の夜明けデッドマンズ・ドーン

 彷徨い歩く死人の群れに、生きる者が怯え逃げ惑った時代。

 かつてそれをもたらした魔王は、歌うように過去と同じ言葉を紡ぐ。

 一先ず、これで舞台は整った。

 ならば後は、この場に上がる演者を募るのみだ。

 指先で虚空に魔術文字ルーンを刻めば、それは雷となって四方へと散った。

 見送る。最早信徒達は置き去りにして、カリュブディスは己の行いの結果にだけ関心を向けた。

 

 『さて――まだ見ぬ勇者よ、英雄よ。お前は夜明けに何を思う?』

 

 答える者なき問いかけに、答える者は現れるか否か。

 カリュブディスは鋼の玉座に身を沈めた。

 今はただ、待つ事だけが己のやるべき事だと言うかのように。

 

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