第九節:魔神と日課


 早朝。

 人気のない林の中に、黒い少女―――クロエは一人で来ていた。

 それは仕留めた大鬼の首を取ってから、凡そ二日ほど。

 その首に賞金を懸けている領主の街へと向かう道の途中。

 昨晩は街道「灰色の道」の隅で野営をして過ごし、次の日が中天に上る頃には目的地に到着する予定であった。

 けれどその前に、クロエにはやっておかねばならない事があった。

 

 「……よし」

 

 きょろりと視線を周囲に巡らせる。

 野営地からも十分に距離を置いた事を確認した。

 出来れば余り見られたくはないので、手早く済ませる必要があった。

 動くに不自由をしない、開けた場所を探す。これは直ぐに見つけられた。

 その中心辺りに立ち、呼吸を整える。

 外套は脱ぎ捨てて、角と細い尾を朝の外気に晒し、体内に魔力を巡らせていく。

 

 「……来たれ」

 

 囁く。戦闘で用いる術の多くは、視線や仕草で呪いを刻む。

 これは「相手を見る」「相手を指差す」という行為自体が、「相手を呪う」という意味を含んでいるからだ。

 しかし今回は、呪う対象が「世界」であるが故に、呪いは言葉に乗せて吐き出される。

 

 「来たれ、来たれ。混沌の落とし仔、地獄の炎に焼かれるモノ。永久凍土に鎖されしモノ」

 

 美しい少女の唇から、恐るべき呪いが止めどなく溢れる。

 爽やかであった木々の空気は一変し、辺りには硫黄に似た臭いが漂い始める。

 

 「来たれ、来たれ。我は求め訴えたり。我が声を聞き、招きに応じよ呪いの仔らよ」

 

 呪いの言葉を唱えながら、片手で黒い魔剣を構える。

 そして空いた方の手で刃の部分を軽く握る。

 皮膚が浅く切れる感触。その痛みに、少女は少しだけ眉根を寄せた。

 白い肌に赤い線を引くように流れ落ちた血は、そのまま足元の地面へと滴り落ちた。

 その血の豊潤な香りに誘われて、いよいよ儀式は完成へと至る。

 

 「奈落の深淵より来たれ、邪悪なる者。来たりて我が意に応えよ――!」

 

 大気が切り裂かれ、周囲に一瞬にして水蒸気が立ち込める。

 その白い煙の中、立ち上がるのは異形の影。

 或いは幼子が見た悪夢の化身そのままに、それは邪悪という概念を固めたかのような姿をしていた。

 全体はかろうじて人の形に近い。体格は大鬼と同じぐらいか、それよりもやや大きいぐらいか。

 真っ赤に燃える肌からは硫黄の臭いが漂い、吐く息には火の粉が混じっている。

 手や足に備わった爪は下手な刃物よりも鋭く、黒く染まった眼はソレが現れた深淵を彷彿とさせた。

 背には大きな蝙蝠に似た翼を広げ、ナイフのような牙が並んだ口元は、不気味な笑みの形に歪んでいる。

 悪魔――それを心得なき者が見たならば、自然とその単語を思い浮かべるかもしれない。

 真実、それは悪魔デヴィル魔神デーモンと呼ばれる異形の来訪者だった。

 「混沌の神々」が一柱、狂気と惑乱を司る奈落神エ=イバン。

 その恐るべき神が物質界の外側にある自らの領域にて生み出した、この世全ての敵対者。

 彼らもまた神々同様に、本来なら物質的世界に接点を持たない。

 しかしこのように、術式による召喚の儀式を行う事で世界の内側へと招く事が可能だった。

 

 『我を呼び出したるは貴様か、小娘』

 

 少女の血を対価に招かれたのは、下位魔神レッサーデーモンの一匹。

 赤き戦士レッドウォーリアーとも呼ばれる種族で、見た目の通り空を舞い、地獄の炎を操る。

 吐き出す言葉は彼らの言語であるが、召喚主には念話のように直接意味が聞き取れた。

 

 「ええ、そうよ。私が貴方を呼び出した召喚主」

 『赤き血の対価に、一時のみ我は貴様の支配下にある。如何なる混沌と狂気がお望みだ?』

 

 多くの場合、人が魔神を召喚する理由は殺戮と破壊のどちらかだ。

 「混沌」の化身たる魔神にとって、物質的世界とはそれ自体が憎悪の対象だ。

 これらを一つ残らず蹂躙し、かつての形無き「混沌」へと還す事が唯一の望みに他ならない。

 故に魔神達は、物質世界の内側へと侵入を果たすべく、愚かな者達に誘惑を囁く。

 身勝手な欲望、先のない憎悪。それらの感情を煽り、取り返しのつかない災厄を齎す。

 人の持つ術式の縛りなど、破ろうと思えば破れるのだ。

 目の前の少女から受ける契約的拘束を感じながら、赤き戦士は哂った。

 この小娘もまた、多くの哀れな先人達と同じだ。

 魔神の力に頼り、やがて訪れる破滅を、その魂が奈落の深淵へと引き摺り込まれる時に初めて自覚するのだ。

 その時に感じる苦痛と絶望こそ、魔神にとって何よりの喜びだ。

 

 『さぁ、答えろ。我を召喚したるお前は一体何を望む?』

 「そうね」

 

 ニヤニヤと笑う下位魔神に対し、クロエの表情は静かに凪いでいた。

 そして温度のない言葉と共に、冷たい刃が走った。

 

 『ガッ……!?』

 

 突然の事と、契約による拘束があった為、回避する暇もなかった。

 少女の振るう魔剣の刃が、下位魔神の身体を袈裟懸けに切り裂いたのだ。

 燃えるマグマの如き赤い血が、朝の森に派手に飛び散る。

 

 「貴方の魂を頂戴。出来れば、そのまま無抵抗でいてくれると嬉しいんだけど」

 『き、貴様ァ……!?』

 

 なんだそれは。一体どういうことだ。

 魂を対価に要求する魔神が、何故か召喚した人間に魂を寄こせと要求される。

 前代未聞の事態に混乱しながらも、赤き戦士は何とか動こうと藻掻く。

 けれど召喚に伴う契約拘束が、思ったよりも固い。

 確かに、呼ばれた魔神はその縛りを無理やり解く事は出来る。

 けれどそれは、召喚した術者と召喚された魔神との力関係に依存する。

 そして縛り付ける契約は、魔神の予想よりもずっと強固だった。

 その為に赤き戦士は、ただその場で身動いだだけに終わる。

 動けぬ魔神の頭上で、再び無慈悲な黒刃が閃く。

 今度は背中の翼を痛みが焼いた。

 

 『グルゥアアァアッ!?』

 

 獣の如き咆哮。

 片側の羽根が真ん中から大きく切り裂かれ、魔神の赤い肌が鮮血に染まる。

 これで飛行能力は奪われた。

 だが此処で漸く、赤き戦士は契約による縛りを無理やり脱した。

 苦痛などものともせずに、すぐさま胸腔に空気を吸い込む。

 赤き戦士は炎の魔神、その身は混沌の業火を宿す。

 大気を取り込んだ炎は即座に灼熱の奔流となり、魔神の喉から溢れ出した。

 

 『ガアアァッ!!』

 

 叫びと共に、燃え盛る火炎を眼前の少女へと浴びせかけた。

 しかしクロエもそう来る事は分かっている。

 これは何度も繰り返してきた「日課」だ。

 この攻撃もまた既知の範疇であり、故に変わらず同じ対応をするだけ。

 そして炎は渦巻く。

 小柄な身体が炎に呑まれた――そう錯覚した下位魔神は、嘲るように笑った。

 それもすぐ、足元で沸いた痛みによって打ち消されるが。

 

 「悪いけれど」

 

 囁く声は、やけにはっきりと耳に響く。

 炎が風に散って、塞がれていた視界が晴れる。

 赤き戦士の放った業火は、少女を焼いてはいなかった。

 地を這うような低い姿勢で、クロエは魔剣を真横に振り抜いていた。

 

 「余り、時間はかけていられないの」

 

 言葉は冷たく、刃のように突き刺さる。

 魔神が吐き出した炎に包まれる直前。

 素早くその場に身を伏せた事で、クロエはその大半を回避していた。

 距離が近い為、多少の余波は受けていたが、それは「帳」によって遮られている。

 結果として殆どダメージを受けていない少女の姿を目にして、魔神は初めての感情に支配された。

 即ち抗い難い絶望と、避け難い死への恐怖。

 今まで多くの人間達に味合わせたモノと同じ感情に、赤き戦士も囚われていた。

 

 『ッ……!?』

 

 衝撃。下から掬い上げるように放たれた切っ先が、魔神の喉を貫いたのだ。

 ゴボリと、大量の血がこぼれ出す。

 

 『の、呪われろ、人間め……!』

 

 死の淵に墜落しながらも、魔神は末期に呪いの言葉を吐き出した。

 黒い刃に魂を貪り喰われる直前まで、消えぬ怒りと憎しみを刻み付けるように。

 それを受けた少女の反応は、逆に冷ややかだ。

 

 「呪いそれも、もう間に合っているから。――さようなら」

 

 別れの言葉を餞に。

 そんな戯言もろとも、クロエは赤い魔神の首を断ち切った。

 切り離された首はそのまま、崩れ落ちた胴体と一緒に地に転がる。

 物質世界に顕現する為に得た仮初の身体は、亡骸を残す事なく即座に塵へと変わった。

 その滅びの様を見届けてから、一息。

 少し上がった呼吸を整えながら、クロエは手にした剣を確認する。

 魔剣《宵闇の王》は、問題なく魔力を脈動させている。

 どうやら今回も満足はしてくれたようだ。

 

 「……終わったか?」

 「ひゃっ!?」

 

 驚きの余り、おかしな声が出てしまった。

 日課が終わったばっかりで、完全に気を抜いてしまっていた。

 クロエが慌てて振り向けば、やや離れた木の傍に蜥蜴人の男が佇んでいた。

 蜥蜴人――ガルは顎の下を軽く爪で掻いて。

 

 「目が覚めたと思ったら、妙な気配を感じてな。お前の姿も見えぬから、様子を見に来たんだが」

 「……召喚した魔神の気配に気付いたの?」

 「うむ。単なる勘働きだったが」

 

 果たして、それは如何なる理屈であろうか。

 いや単なる勘であると言うなら、そこに理論も何もないのかもしれないが。

 ふと、今さら湧いた疑問をクロエは口にした。

 

 「……そういえば、最初に会って戦った時も、明らかに見えてない私の剣に反応してたわよね」

 「そんなこともあったか」

 「……あれもやっぱり?」

 「勘だな。意識は捉えていなくとも、それは必ずしも『見えていない』とは限らん」

 「……そう」

 

 理屈とか理論とか。

 そんな常識の物差しをこの蛮族に当てる事自体、ナンセンスなのかもしれない。

 少なくともクロエはそう受け入れる事にした。

 一人納得している少女に対し、今度はガルの方も疑問を口にする。

 

 「それで、今のは何だったんだ? 危うければ助太刀も考えていたが」

 「あぁ……その、ごめんなさい。 余り褒められた話じゃないから、秘密にしておこうかと思って」

 

 けれどこうして見られた以上は、説明しないわけにもいかない。

 観念して、クロエは先ほどガルも目にした「日課」について語る事にした。

 

 「見ての通り、今私がやったのは魔神召喚の術。 人目のある場所で使うのは拙いから、普段はやらないんだけど」

 「あぁ。 物騒な呪いまじないであるのは、知識のない俺にも理解できた」

 「で、私はこれをもっぱら、剣の餌やりに利用してるの」

 「餌やり?」

 

 ふむ、と頷きながら、ガルは少し首を傾げる。

 クロエが示したのは、その手に握る黒い刃の魔剣。

 超常の「帳」を持ち手に与え、その対価として魂を要求する《宵闇の王》だ。

 

 「魔剣は対価を支払わないと力を発揮しないし、最悪持ち手に不利益をもたらす場合があるの」

 「面倒な話だな」

 「本当にね。 それで《宵闇の王》の場合、二日か三日に一度は魂を与えないといけない」

 

 ため息交じりにクロエは答える。

 魂を与えると、言葉にすれば短いが、現実的にはなかなか難儀な話だ。

 常に小鬼の巣穴や大鬼の部隊を相手に出来るとは限らない。

 それでも対価を与える事を怠れば、魔剣は力を失うどころか最悪持ち手の心身さえ蝕むのだ。

 この点もまた、魔剣持ちが世間に忌まれる理由だ。

 例え持ち手の人間が善良であろうと、魔剣が要求する対価次第で容易に社会の敵になり得るのだ。

 その観点で見れば、クロエの《宵闇の王》は強力な分、対価が重い危険な魔剣であった。

 斬り殺した魂を喰らう、という要求を満たす安易な手法など、敢えて口にするまでもない。

 実際、その「安易な手法」を選べなかったクロエは、最初の頃は酷く苦労をした。

 

 「だから、そういう場合は魔神を召喚して、呼び出した魔神の魂を対価にする事にしたの」

 

 そして現在、それがクロエの考えた《宵闇の王》への対価の支払い方法だった。

 この魔剣はどんなでも対価として認める――というわけではない。

 動物などの魂は対価にならず、少なくとも人間か、それに近い魂でないと受け入れてくれない。

 逆に言えば、その基準さえ満たしていれば、捧げるのは人間の魂でなくても良いのだ。

 魔神とは、混沌の神である奈落神エ=イバンの眷属。

 その魂は穢れを孕むが、霊格だけで言えば人間よりもよほど高位だ。

 魔剣に捧げる対価としては、まったく申し分ない。

 

 「……まぁ、これで対価を支払い出した最初の頃は、少し挙動がおかしくなったけど。

  今は大分食べ慣れたのか、特に不具合も起きてないわ」

 「ふぅむ、魔剣の仕組みについては明るくないが、合理的な方法である事は理解できた」

 「ありがとう。……他の二人には、どう説明しようかしら」

 「ビッケにせよルージュにせよ、そう細かい事は気にせん質だろうからなぁ」

 

 言われて確かに、とクロエは頷いた。

 また今回のような事を繰り返しても面倒ではあるし、野営地に戻ったら簡単に説明しておこう。

 

 「……迷惑でなければ、一つ提案がある」

 「?」

 「今後も同じようにするのであれば、俺も加わって構わないか?」

 

 予想もしていなかった提案に、クロエはきょとんとしてしまった。

 ガルはなるべく冷静に言葉を続けるが、少しだけ感情が浮き立っている事が何となく伝わってくる。

 

 「いや、魔神と戦を交えた経験は、余り無くてな。 良い鍛錬にもなると考えたんだが」

 「……ええ、良いわ」

 

 それがほんのちょっと可笑しくて、微笑みながらクロエは頷く。

 

 「貴方も一緒に付き合ってくれるのなら、呼べる範囲で一番強い魔神を呼びましょうか。

  契約の拘束もすぐ破られてしまうから、一人だと危なくて呼んだ事はなかったんだけど」

 「そうか、そうか。 それほどの強さであれば、俺も楽しみだ」

 「じゃあ、次に『日課』が必要な朝に」

 

 それは、二人で結んだ初めての約束事。

 話す内容そのものは実に物騒ではあったが、少女と蜥蜴人はとても楽しそうに笑った。

 旅路の朝は少し硫黄の臭いを残しながら、とても穏やかに過ぎて行った。

 

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