第7章 秋の日多江はつるべ落とし

第35話 良心の呵責

 あたしが目を覚ましたのは耕作の肩の上だった。

 雨戸は既に開け放たれ、朝日が大広間を明るく照らしている。見事なまでの青空、台風一過というやつだ。

 あたしが慌てて身体を起こすと、その拍子に耕作も目を覚ます。

 あたしが身体を預けていたことは気づかれていないらしい、ギリギリセーフ。


 室内を見渡すと、半分ぐらいの人は既にいなくなっていた。

 きっと外の様子が気懸かりで、出て行ったんだろう。氏神様の姿も見当たらない。

 あたしも洗顔や歯磨きよりも先に、集落の様子を見るために外へと駆け出した。耕作もあたしに続く。


「……………………」


 言葉なんて出ない。

 見慣れた奥日多江の景色はたった一晩で激変していた、まるで異世界にでも飛ばされてしまったかのように。むしろその方が、まだましだったかもしれない。

 ここはどこ? と、隣に立ち尽くす耕作に尋ねたくなるほどの惨状だった。


 周囲一面、湯煎したチョコレートような水溜まり。いや、泥溜まり。

 目の前の畑に植わっていたはずの、キャベツやブロッコリーは完全に埋没。泥の上に顔を出している豆も、折れた支柱が複雑に絡み合って、これからパーマをかけようとしているロッドの巻かれた髪の毛のようなありさま。

 そもそもどこからどこまでが畑だったのかすらも、その境目が泥に覆われていてわからない。そんな光景が視界の先までずっと広がっていた。


 呆然とするあたし。けれど、呆けた表情で立ち尽くしているのはあたしだけじゃない。隣に立つ耕作も、そして並んで眺めている人たちもみんな同様。まるで魂の抜けたロウ人形のよう。

 そして我に返ったものから順に、人目もはばからずに泣き崩れていった。


「離してください。僕の畑がどうなってるのか、見に行くだけですよ」

「今は、そこら中が底なし沼みてえなもんだ。迂闊に進んだら、足さ取られて溺れ死ぬぞ。水が引くまで、もう少し辛抱するだよ」


 自宅に戻ろうとするも、周囲の人たちに腕を掴まれて阻止される諒太。みんなに促されて、悔し涙を浮かべながら大屋敷へと入っていく。みんなもそれに続いた。


 家路を阻まれた集落の人たちは仕方なく、再び大屋敷の中で肩を寄せ合う。

 誰が言い出したか「これからどうするべか」という言葉にも、答えられるものは一人もいない。みんな下を向いて肩を落とすばかりだ。

 そんな中、一人の女性がヒステリックに叫びながらあたしの肩を乱暴に揺する。それは、初めて見た牛尾の奥さんだった。


「どうしてくれるのよ、この悲惨な状況! うちは仕事を辞めてここに来たのよ? それがこんなことになってしまったら、この先私たちはどうすればいいのよ!」

「こら、やめないか。こうなったのは津羽来さんのせいじゃないだろう」


 牛尾のご主人が割って入る。

 そして奥さんをいさめてくれたものの、彼女の怒りは収まる気配がない。


「いいえ、この人たちのせいよ! あなたたちがインターネットで宣伝したんじゃないの。とっても良い所だなんて、調子のいいこと言って……。責任取ってよ!」


 奥日多江が良い所なのは嘘じゃない。それは胸を張って言える。

 けれど今の牛尾一家には、その言葉はとてもじゃないけど言えなかった。それが悔しくて、あたしの目からは涙があふれる。


「……すみません」

「謝られたって、もう取り返しはつかないのよ。どうしてくれるの? 私たちの将来はめちゃくちゃだわ」


 考えてみれば、あたしが将来を滅茶苦茶にしたのは牛尾一家だけじゃない。

 あたしの軽い行動で、多くの人たちの人生を狂わせてしまった。


 ――あたしが、この地にみんなを呼んだから……。

 ――あたしが、この地を去ろうとする人たちを引き留めたから……。


 その現実が突き付けられて、あたしは良心の呵責に押し潰される。

 そして、果てしなく沸き出してくる『申し訳ない』という感情は、謝罪という形で吐き出し続けないと、心に溜まって爆発しそうになる。


「ごめんなさい、ごめんなさい、あたしのせいです。あたしが村おこしなんて言い出したばっかりに……」


 あたしは大広間の畳に額を擦りつけて、泣き喚きながら繰り返し謝る。

 抑えが効かなくなってしまった感情に、溢れ続ける涙の理由もよくわからない。悔しいのか、悲しいのか、寂しいのか、恨めしいのか……。

 何を言っているのかだってよくわからない。ただ今の気持ちをありのまま、沸き起こるに任せて言葉を絞り出す。


「みんなの人生を狂わせてごめんなさい。調子のいいことばっかり言ってごめんなさい。あたしの自己満足に付き合わせてごめんなさい……」


 そんなあたしを沈黙が包む。

 泣き伏せたままのあたしには、みんなの沈黙の意味を知る術はない。

 ――怒りに打ち震えているのかもしれない。

 ――呆れて言葉も出ないのかもしれない。

 ――相手にする価値もないのかもしれない。

 けれど沈黙されるぐらいなら、これでもかと罵られて責め立てられた方がよっぽどましだ。その方が罪を償っているという自己満足に浸れる。


「頭さ上げてくれ、里花ちゃん」


 あたしの肩に手が触れると同時に、聞こえた声は耕作のものだった。

 その声に恐る恐る顔を上げると、そこに並んでいたのは優しい笑顔の数々。牛尾の奥さんだけはそっぽを向いていたけれど、その顔からもさっきまでの険しさは消えていた。


「台風は里花ちゃんのせいじゃねえ。責任を感じることはねえだよ」

「ああ、そうだ。里花ちゃんが大屋敷にみんなを集めてくれなかったら、こうして無事に一晩乗り切れなかったかもしれねえべした」

「久しぶりに味わった収穫祭も楽しかっただよ。集落のみんなは感謝こそすれ、迷惑に思うやつなんかいねえだよ」


 みんなからもらったのは、優しい励ましの声。社交辞令なんかじゃない、あたしの心に温もりを与えてくれる、そんな言葉たちだった。

 あたしの心は修復困難なほどに折られてしまったけれど、こうしてみんなに手を差し伸べられたら立ち上がらないわけにいかない。傷ついた心のままでも歩き出さないといけない。

 みんなに災いをもたらしたのはやっぱりあたしだ。だったら、より一層の幸せをみんなに与えてあげればいい。それがあたしなりの責任の取り方だ。

 今は失意のどん底のはずなのに、向かうべき道を見つけたあたしの心はみるみる澄み渡っていく。


「みんなありがとう。おかげさまで、ちょっと元気が出てきました。また今日から、みんなで頑張りましょうね」


 あたしは無理やり笑顔を作って、虚勢を張ってみせる。

 そして心の中でも自己暗示をかけるように、強く強く決意する。


(――大丈夫、大丈夫。また一からやりなおせばいい。耕作さんはきっと力になってくれるし、耕助さんだってブツブツ言いながらも手伝ってくれるはず。諦めちゃったらそこでお終いだもんね、頑張らなっきゃ!)

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