第2話 届いた神様への願い

(どうしよう……。出会ってしまった、出会ってしまった、出会ってしまった)


 車の中に戻っても、あたしは未だに胸の鼓動が高まったまま。今度は心臓が破裂してしまうんじゃないかと不安になるほどだ。

 完全にあたしの心は射抜かれてしまった、再会した彼の優しい笑顔に……。

 ――どうして当時と見た目が変わってなかったの?

 ――どうして一瞬にして姿をくらましてしまったの?

 ――人の気配なんてなかったのに、いつの間に後ろにいたの?

 不思議なことはてんこ盛り。だけど疑問点に頭を悩ませるのは後でもできる。

 今は思い出の彼に再び会えた喜びに、ただひたすらに浸ることにした。


(まいったな……また一目惚れしちゃったかな? いや、二目惚れ? 惚れ直し?)



 ――あれはもう十二年前。あたしが小学五年生の春だった……。

 怖い顔をした母に連れられて、あの時やって来たのもこの奥日多江。両親の大喧嘩を目の当たりにした、その翌日のこと。

 実家の居間で泣き続ける母と、それを慰める祖母。「外で遊んでおいで」とあたしに掛けられた祖母の声は、いつも以上に優しかった。

 幼いながらも『ここにいたら迷惑なんだ』と感じて、家の近所を足の向くままにあたしは歩く。するといつの間にか、縁結びにご利益があるというこの神社にたどり着いていた。


(このままじゃ、パパとママがバラバラになっちゃう……)


 賽銭箱を見て神頼みを思いついたあたしは、ポケットから財布を取り出した。

 いくら入ってたかなんて覚えちゃいない、お気に入りのクマさんのお財布。それを丸ごと賽銭箱に投げ込んで、初詣の時に父と一緒にやったように鈴を鳴らした。

 そして固く目を閉じたまま、あたしは必死に手を合わせて祈り続ける。参拝の礼儀作法なんてあったもんじゃない。


 一体どれぐらいの時間、そのままの姿で泣き続けていたのだろう。

 そんなあたしの肩に、不意に誰かの手が掛かった。


『大丈夫?』


 その手の感触にビックリして顔を上げたあたしの目の前には、大人の男性が優しい笑顔で立っていた。

 相手は初対面だというのにあたしはなぜか安心感に包まれて、一人で抱え込んでいた言葉を彼に向けて一気に吐き出す。


『あたしね、お父さんともお母さんとも、お別れしたくないの』


 そこから先は、何を話したのかよく覚えてない。

 ただひたすらに『このままじゃいやだ』と、泣きながら訴えかけていた気もする。


『大丈夫。今の言葉を直接お母さんに言えば、きっとわかってくれるよ』


 彼にもらったその言葉はなぜか説得力があって、一瞬であたしは泣き止んだ。

 でも今度は、母に言葉を伝える勇気が湧いてこない。

 すると彼は『大丈夫』と力強い声を繰り返して、躊躇しているあたしの手を握りしめた。手の温もりと一緒に安堵感が流れ込んできた感覚は、今でも忘れられない。


 勇気が湧いたあたしは彼に大きく頷くと、家に向かって走り出した。

 そして居間に駆け込んで、一直線に母の胸に飛び込む。


「あたし、お父さんともお母さんとも、お別れしたくないの!」


 あたしは母にしがみつきながら、ひたすらその言葉を繰り返して泣きじゃくった。

 後のことはよく覚えていない。でも翌朝には母はいつもの優しい笑顔に戻っていて、そのまま一緒に我が家に帰っていったのは間違いない。


 あの夫婦喧嘩がどれほど深刻だったのかは、当時幼かったあたしにはわからない。

 でも後日談として、母から「あの時あんたに泣きつかれなかったら、今頃離婚してたかもね」と、冗談交じりに明かされた。

 彼は一家離散を食い止めた大恩人。それなのに、またしてもお礼の言葉を告げることは叶わなかった……。




 母にとっても、久方ぶりの実家。

 それなのにごく自然な様子で、当り前のように玄関の引き戸を開く母。そしてこれまた、すんなりと開いてしまう戸。この辺りでは、鍵なんて掛けないのが当たり前。


「ただいまー」


 さらに、まるで買い物から帰ったかのような軽い挨拶とともに、母はそのまま実家にズカズカと上がっていく。


「ご無沙汰してます、お義母さん」

「お邪魔します」


 父とあたしは、さすがにそこまで堂々とは振舞えない。

 脱いだ靴をわざわざ手で揃えて外へ向けるなんていう、普段なら絶対やらない行為をするほどまでに、恐縮してみせる。


 玄関を上がってすぐ右手の、テレビのついている和室の居間へ。そこには祖母の姿は見当たらなくて、一足先にくつろいでいる母の姿だけがあった。

 そのだらしなさは、家でも見せたことがないほど。

 生まれ育った実家の開放感のせいで、母の心も緩んだのかもしれない。


「よく来ただな。なんもねぇとこだけど、ゆっくりしていきなせえ」


 祖母の声が、思いがけない方向から届く。

 声の方を見ると祖母は居間の隣の台所の椅子に座って、わざわざ遠く離れてテレビに顔を向けていた。


「お母さん、なんでそんなとこにいるのよ」

「そっちさ腰下ろしちまうと、立てなくなるでな。こっちの椅子のが楽なんだ」


 母と祖母の親子の会話。なんとなく新鮮。

 あたしの母も祖母から見れば娘なんだと、当たり前のことなのに実感させられる。

 そんな久しぶりの水入らずに、申し訳なさげに割って入ったのは父だった。


「お義母さん、部屋はどこを使わせてもらえばいいですかね?」

「あんたが昔使ってた部屋でいいべした。案内してやりなせえ」

「えーっ。もうちょっと休ませてよぉ」


 母は不満の声をあげながら仕方なく立ち上がって、あたしたちを案内する。

 わがままに祖母に不満を漏らした母の姿は、あたしがいつも母にしている光景とダブって見える。あたしの方が恥ずかしさで、思わず赤面した。


(この部屋って、昔お母さんが使ってたんだ……)


 母に連れられたのは、部屋とは言っても障子と襖で隔てられただけの空間。

 この家には何度か来たけれど、今日祖母の言葉を聞くまでここが母の部屋だったとは知らなかった。古風な日本家屋の一室は、もちろん鍵だってかからないし音だって駄々洩れ。プライバシーなんてあったもんじゃない。

 そこにある、古い和箪笥の隣の洋風の鏡台。いつも違和感があったけど、母がねだって買ってもらったのかと思うと合点がいく。そして唐突に愛着まで湧いてしまう。

 あたしはその鏡台の前に座ると、いそいそと髪をとかして化粧を始めた。


(相変わらず下手くそだな、あたし……)


 横着な性分だから、会社に行ってた頃も身だしなみ程度の化粧しかしなかったあたし。だから、ここぞというときにいつも苦労する。

 そんな悪戦苦闘中のあたしに、母が不思議そうに声を掛けた。


「里花、あんたどうして化粧なんかしてんの?」

「散歩してこようかなって。あたしだって、外に出るときぐらいは化粧するよ」

「この辺に見て回る所なんて何もないのに? それにあんた、コンビニに行くときはいつもスッピンじゃないの」

「き、今日はそういう気分なの!」


 説明できない理由を勢いでねじ伏せて、あたしは逃げるように家を飛び出した。

 「夕飯までには帰ってきなさいよ」という、母の声を聞き流して。


(あんなにはっきり見えたのに、幻覚のはずないよね……。それにしても、昔と変わらない優しい笑顔だったな)


 散歩と言って出てきたけど目的地は明らか。地元では日多江様と呼ぶ日多江神社。木々に囲まれたさっきの神社だ。

 到着して改めて周囲を見渡すと、見事なまでの寂れっぷり。

 木が生い茂った境内は薄暗く、風が吹くと葉の擦れ合う音が不気味にすら感じる。

 正面に建つ本殿も、台風が直撃したら吹き飛びそうなほどに心細い佇まい。こんな神社を訪れる人なんて、地元民でさえ初詣ぐらいだろう。


(やっぱり誰もいない。幻覚だったのかな……。いやいや、ずっとここにいるはずないもんね。こうなったら村中歩き回ってでも、彼を探し出してみせる!)


 奥日多江は限界集落。住人の数もたかが知れている。でも広さは半端ない。

 過酷な散歩を決意したあたしは、その前に改めて神頼みをすることを思いついた。偶然とはいえ彼に出会った二回とも、ここでお参りをしたときのことだったからだ。


(そうだ、二回ともお賽銭も入れたよね)


 財布を開いてみると、そこには五千円札が一枚だけ。そして小銭はというと、こんな時に限って十三円。

 十三円を握りしめ、賽銭箱へ……。と思ったけれども、思い止まる。

 さすがに十三円じゃ失礼かも。とは言っても、残るは五千円札だけ。


(自動販売機みたいに、お釣りが出るようには出来ないのかな……)


 人の気配がどこにもない寂れた神社じゃ、両替なんてできるはずがない。とはいえ、当てにならない神頼みに五千円はさすがに躊躇する。

 それでも背に腹は代えられないとあたしは鈴を鳴らし、奮発して五千円札を持った手をしずしずと賽銭箱へ伸ばした。


『――ひょっとして、僕に会いに来てくれたのかい?』


 雷に打たれたように、背筋を電流が駆け抜ける。背後から掛かったのは、聞き覚えのある声。

 慌てて振り返ったあたしの前に立っていたのは、紛れもなく彼だった。


「え? なんで? まだお賽銭入れてないのに……」

『別に、お賽銭を入れてくれたから出てきたわけじゃないよ、見物料じゃあるまいし。でも今、五千円入れてくれたみたいだね、ありがとう』


 その言葉に慌てて右手を確認すると、掴んでいたはずの五千円札は彼の言う通り、見事に消えて無くなっていた。

 さっきビックリしたときに、思わず手が緩んだに違いない。


「え? 嘘……。あぁ、もらったばっかりのお小遣いが……」

『驚かせたみたいでごめんよ。悪いことしちゃったね』

「い、いえ、いいんです。お願いが叶った後払いだと思えば、安いものですっ」


 口から出る声が、思わずうわずる。

 彼に出会えることを願ってここへ来たっていうのに、いざ出会ってみるとうろたえるばかり。しどろもどろで、何を言っているのかも良くわからない。

 それにしても彼は十二年前と変わらない姿。あたしばっかり歳を重ねて、同い年ぐらいにさえ見える。

 ひょっとして別人なんじゃと不安がよぎったあたしは、恐る恐る彼に尋ねてみることにした。


「あの……十二年前にお会いしたこと、覚えてますか?」

『もちろん。大きくなったね、里花ちゃん。それに随分と美人になったね』


(え? あの時、あたし名乗ったっけ……?)


 出会いを覚えていてくれただけでも嬉しいのに、名前まで……。

 十二年振りの再会に感激したあたしは、堰を切ったように言葉があふれ出す。


「十二年も経ったんだから、あたしだって大きくなりますよ。でもあなたは全然変わってなくて、ビックリしてるんですけど……」

『ハッハッハ。ビックリしたのはこっちだよ。何しろ僕の姿が、今でも見えるみたいだからね』


 思いもよらない返答を聞いて、きっとあたしの顔は引きつったに違いない。

 彼の言葉の意図を読み取ろうと必死に頭を働かせるものの、何を言っているのか理解がちっとも追い付かない。


(何言ってるの、この人……。ひょっとして、幽霊かなにか?)


 困惑しながらも、突拍子もないことを思いついたあたし。

 けれども彼は、あたしがそれを尋ねるよりも前にその答えを示す。しかも、想像をはるかに上回る言葉で……。


『――ああ、違う違う。僕は幽霊じゃないよ。氏神だ』

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