流人、砂上を奔る/〈灰色の右手〉剣風抄・外伝

美尾籠ロウ

流人、砂上を奔る

 何かがくさむらを揺らす音が聞こえ、アーデリはくわを振り上げた腕を下ろした。

 足元を見やる。これから植えるノワ芋の入った駕籠かごに歩み寄った。大切な芋の匂いを嗅ぎつけ、森からオオクチイボミミズでも現れたのだろうか。

「出て来い、ミミズ野郎!」

 うなるような声を南東の森に向かって放った。そして、自らの身の丈とほぼ同じ長さの鍬を、物音がした叢へと突き出した。

 心の臓が激しく脈動し、汗が顎へしたたる。

「まっぷたつにしてやるっ」

 ただでさえ小柄で赤ら顔、十日前まで通っていた学舎のみなからは「泥んこ赤ちゃん」とからかわれているアーデリの声は、さらに幼子のように甲高かんだかく裏返っていた。

 アーデリは生まれて十一年の今までに、イボミミズを一度だけ見たことがある。五つの頃だったろうか。同じこの畑の端でだった。その当時、まだ歩けていた母は、大人の脚ほどの長さと太さをしたオオクチイボミミズに鎌を突き立て、引き裂き、難なく退治した。ぶよぶよとした肉色の生き物が、鎌の刃を突き立てられて悶える——人の頭など丸呑みできそうな口の穴の周囲にみっしりと無数に生えた赤茶色をした棘をうごめかせながら、その邪悪な生き物は、黄緑色の体液を垂れ流しながら死んでいった――そんな様を、まだ五つのアーデリは、恐怖のあまり泣くことも忘れ、ただ棒きれのように突っ立ったまま見つめていた。

 そんなことを思い出す。

「怖いのか? さあ来い!」

 その声に答えるかのように、くさむらが揺れ、音が近づいてくる。アーデリは身が縮んだ。

 眼の前の草ががさがさと動き、その隙間が少しずつ拡がった。

「うわあっ!」

 持てる勇気のすべてをかき集め、アーデリは鍬を振り上げた。

 その刹那だった。

 小さく俊敏な塊が踊り出してきた。同時に、鍬が消えた――いや、消えたのではない。摑んだ柄のなかほどから断ち切られたのだ。

 空を飛んだ鍬の先端が、アーデリのすぐ脇にぽとりと落ちた。

「わ……」

 アーデリは固まった。五つだったあのときのように。

 小さな塊が、ゆっくりと身を起こした――イボミミズではなかった。旅の装束を身に着けた人間だった。小さな背嚢はいのうを背負っている。背丈は、アーデリとさして変わらない。

「な、なん、なんだよ。どっから来た?」

 精いっぱいの虚勢を張って、アーデリは声を尖らせた。

 小さな旅人が、ぬっと顔を上げた。

「ひっ!」

 アーデリは短く悲鳴を上げ、畑の土の上にぺたん、と尻餅をついた。

 子どもではなかった。小人族オゼットの男だった。

 左のこめかみから頬にかけて、一文字の傷痕がある。今また反対の右の頬骨の上から、赤黒い血が流れてかさぶたになりかけていた。無精髭は伸び放題で、その奥に埋もれた唇はひび割れている。頭の栗毛はざんばらで砂埃にまみれ、その下に見える両眼はやや血走っていた。

「水だ……」

 男はかすれる声で言った。

 アーデリは、からからになった口を開いたが、返事が喉の奥に貼り付いたまま、出て来なかった。

「聞こえねえか? 水をくれ……酒があったら、なおいいがな」

「あ、う、うん!」

 アーデリは、断ち切られた鍬の柄を放り捨て、慌てて立ち上がると、もつれる足で小屋へと駆け戻った。


 扉を押し開けて駆け込むと、奥の部屋から母の声が聞こえた。

「植え付けは終わったの?」

「まだ!」

 アーデリは台所へ向かい、木椀に水瓶の水を満たした。そして背伸びして棚のいちばん上に載ったコルメ酒の瓶に手を伸ばした。指先で瓶を探る。

「無理しなくていいのよ。陽射しが強いし、あとは母さんがやるから」

「大丈夫! やれる!」

 瓶を引き寄せ、落下するすんでのところで受け止めた。

「イボミミズが出ても、触っちゃいけないよ」

「わかってる」

 母の声を背中に聞きながら、アーデリは畑へと駆け戻った。


 男は畑のうねの脇に仰向けに横たわり、種芋たねいもをかじっていた。

「だ、大事な芋だ! 食うんじゃない!」

 アーデリは叫んだ。男は大儀そうに体を起こすと、アーデリに向かって髭だらけの口元をゆがめた――どうやら笑ったらしい。

「すまねえ。種芋は美味いもんじゃねえな」

 アーデリは男からできるだけ体を遠ざけ、腕をいっぱいに伸ばして瓶と木椀を差し出した。木椀の水は半分以上こぼれてしまっていた。

 男はそれらを受け取ると、まず木椀に残った水を顔に浴びせ、つづいて瓶からコルメ酒をらっぱ飲みし始めた。

「少しばかり酸っぱくなってるが、飲めなくはねえぞ」

 男は瓶を一気に空にすると、ぐいとアーデリに突き返した。

「馳走になった。生き返ったよ。おまえ、なんて名だ?」

「ア、アーデリ」

 答えながら、男から木椀と瓶を引ったくった。コルメ酒をからにしてしまったことを、どうやって母に言い訳しようか、と考えていた。

「おっ父とおっ母は?」

「父ちゃんはいない。母さんは病で寝てる」

 男は畑を見回した。

「お、おじさんは?」

 アーデリが訊くと、男はまた口をゆがめて笑った。

「南のほうから来た」

「どこ、行くの?」

「北のほうじゃねえかなぁ」

「お、お、おじさんって、もしかして、オ、オ……」

 おそるおそるアーデリは訊ねようとした。が、緊張のあまり言葉がうまく出て来なかった。男はぎろりと眼を剥いた。

「なんだ、おまえさん、小人族オゼットははじめてか」

「う、うん……いや……」

「よーく見とけ。これが小人族オゼットだ。〈ともがら〉は、この近辺にはあんまりいねえかもしれんが、いずれ村を出れば、出会うことになる」

「村なんか……一生、出らんないよ」

 アーデリがつぶやくと、男はゆっくりと立ち上がった。が、すぐにふらつき、畑に片膝を付いた。

「怪我してるの?」

「ちょいとばかり、太ももをやられちまった。情けねえ」

 アーデリは、ゆっくりと男に近づいた。

「おじさん……悪い人?」

 男は埃だらけの髪を掻きむしり、苦笑した。

「そうだな、悪い人だ。アムブレク村の賭場で、ちょいとばかり手札を誤魔化したら……慣れねえことはするもんじゃねえな。袋だたきに遭うところだった。ま、この剣で叩っ斬ってやったがな」

 男は腰に下げた剣をぐいと突き出した。アーデリは後ずさった。

「安心しろ、殺しちゃいない。俺の話はいい。おまえさん、学舎まなびやには行ってねえのか」

 アーデリは断ち切られた鍬を拾い上げたが、もう一度地面に突き刺した。そして、畑の上に座り込んだ。

「言いたくなきゃ、言わなくていいさ。俺にも言いたくねえことは、いっぱいある。頼みがあるんだ。一晩だけ泊めてくれねえか。体中が痛くて動けねえ。いや、母屋おもやとは言わん。物置でも何でもいい。おっ母に訊いてみてくれ」

 アーデリは無言のまま立ち上がった。

「今は晴れてるが、夜には雨になるぞ。冷たい雨に」

 男は、冗談とも本気ともつかぬ口調だった。

 もしも母に小人族オゼットの旅人のことを告げたら、何と返されるだろうか――アーデリは思った。

 もちろん母は驚くだろう。そして、怒るかもしれない。体は弱いが、ヨロイウシのように気が強い母のことだ。きっと男を追い出すよう言うに違いない。もしかすると病の体を押し、アーデリと畑を守るため、自ら男と対峙しようとするかもしれない。

 その光景を思うと、アーデリの小さな胸が、ネゾールフ神の指で触れられたかのように、きゅっと冷たくなるのを感じるのだった。

「いいよ、こっち来なよ」

 アーデリは、小さな決意を胸に立ち上がった。


 日没すぎて間もなく、風が出てきた。母屋の外で、木々がざわめく音が聞こえる。どこからか風が入り込んで来ているのか、食卓のろうそくの炎が不安に揺らめいた。

 アーデリはヴォント麦の粥をすくう匙を下げた。急に心細くなった。皿とさじを持って、隣の引き幕を開け、部屋に入った。

 寝台の上の毛布が、ゆっくりと上下している。歩み寄ると、薄明かりに照らされ、母の青白い寝顔が見えた。こんなに細かっただろうか、とアーデリは思った。

 床にぺたんと座り、寝台に背中を預けた。

 ここにいれば、母さんがいなくなったりしない。ここで母さんをしっかりと守っていれば、大丈夫。

 そうは思うが、どうしても不安が頭をもたげてくる。

 今年は昨年に引き続き、天候が不順だ。昨年、畑のノワ芋の収穫は例年の半分程度だった。母と二人で植えた芋は、三分の一が発芽せず、発芽しても連日の曇り続きで育ちが悪かった。

 すきま風が、ひゅるるるるうぅ、と悲鳴のような声を上げ、アーデリは身をすくめた。母のほうを振り返る。

 ちょうど母も眼を覚ましたようだった。

「何か……要る?」

 アーデリが訊ねると、母はそっとかぶりを振った。

「植え付けは、気にしなくていいの。明日になったら、母さんが植えるから」

「大丈夫。やるよ」

「いいのよ、あんたはほら、明日から学舎に戻りなさいな」

 アーデリは粥を飲み下し、口を尖らせた。味がしなかった。

「行かなくていい。芋を植えるから。母さんは、病気が治るまで寝てていいよ」

 アーデリは立ち上がり、皿と匙を摑んで立ち上がった。その背中に、静かで低く、しかし病身とは思えぬ力強い声を母は放った。

「馬鹿なことをお言いでないよ。アーデリ、おまえは学をつけなくっちゃいけない」

「学なんて要らないよ。ノワ芋の育て方なら知ってるもん」

 アーデリは台所へ駆け出し、水瓶の水で食器を洗うと、茶碗に水を満たして母の寝台の脇へと駆け戻った。

「市場で売る方法だって知ってるもん。父ちゃんが死ぬ前、何度も連れてってもらったから」

 アーデリは、茶碗を母に差し出した。母は受け取ると、さも美味しそうに飲んだ。アーデリは、そんな母の横顔を見るのが大好きだった。ゆっくりと上下する母の喉の動きを眺めるのが好きだった。

「アーデリ、おまえさんは優しい子だよ。でも聞きなさい。おまえは学舎まなびやでたくさん友だちを作って、読み書きをしっかり学ばなきゃいけない」

「友だちなんか要らない。学舎なんて、つまんないやつばっかり。ノワ芋をいっぱい育てて、母さんとずっとここで暮らすんだ」

 アーデリはそう言うと寝台の上に座り、母に身をぴったりとくっつけた。こんなことをするのは、ずいぶん久しぶりだった。母は汗と枯れ葉の匂いがした。

「いいかい、アーデリ。ノワ芋やアッカ豆は、土に深く広く根を張らなきゃ育っていけないし、実を付けることもできない。けれど、おまえは違うんだ。おまえは、こんな土地に根を張ることはないんだよ。ほら、街道の向こうの〈ミツコブヒツジの丘〉があるだろ? 母さんも父ちゃんも、その丘を越えたことさえなかった。でも、おまえなら越えられる。あの小さな丘を、いつか越えて行くんだよ」

「どこにも行かないよ。ずっと母さんと畑を守るんだ」

「そんなこと考えなくて大丈夫。おまえはね、あの丘を越えて行かなきゃいけない」

 窓の外で雨音がし始めた――小人族の男が言ったとおりだった。

 不意に、ほんの眼と鼻の先、ほんの二十歩ほど先の物置に男がいることを思い出した。男は、大人族コディークが持つのと同じ長剣を持っていた。男は自ら「悪い人」だと言ったではないか。陽の明かりの下では無害に見えたが、夜の帳が降りた今思い返せば、男の眼の奥底に、どす黒い光があったような気もする。

 なにより、男は小人族オゼットなのだ。

 急に、不安がくろぐろとした頭をもたげ始めた。アーデリはよりいっそう強く母にしがみついた。

 どこにも行くものか、とアーデリは思った。この家を守ってやる。イボミミズが土を掘り返そうと、ウロコイノブタが芋を荒そうと、人喰い鬼が現れようと……

 そこまで考えて、背筋にうすら寒いものが走るのを感じ、アーデリは身をぶるぶるっと震わせた。

 小人族は人を喰うのだろうか。そんなはずはない。でも、あの男は人を斬り殺したことがあるのかもしれない。お尋ね者なのかもしれない。

 そのときだった。母屋の外、まさに物置のほうから、がたっという木が倒れるような音が聞こえた。

「おや、風が強くなったのかねえ」

 母が雨戸に顔を向けた。アーデリはおそるおそる顔を上げた。

 そうだ、自分はウソをついている――アーデリははっきりとわかった。母さんを守りたいんじゃない。守られたいんだ。どこにも行かず、母さんの温かい腕に抱き締められたままでいたいんだ。

 怖かった。

 雨の夜に物置にいる男が怖かった。土の下からむくむくと起き上がってくる肉色のイボミミズが怖かった。

 そして何よりも、自分を置いて、母さんがいなくなってしまうことが……

「見てくる」

 アーデリは決意して、母の胸から顔を離した。

「いいのよ、雨が強くなってるじゃないの」

「畑が心配だから、見てくるよ」

 アーデリは寝台を降りた。小さな拳を握りしめ、一度うなずくと駆け出した。扉を開け、雨の中へ踏み出した。


 雨脚は強かった。風が正面から吹き付けてくる。一瞬で、アーデリはすっかり全身ずぶ濡れになってしまった。体がぶるぶるっと震えた。

 母屋を回り込み、物置へと向かった。物置の扉が開け放たれていた。男の姿はなかった。立てかけられた農機具の前に、男の背嚢が置き去りにされていた。その脇には、確かに男が横たわっただろう土の痕跡があった。

 男は去ったのだろうか。アーデリにコルメ酒の礼を告げることもなく。

 と、そのときだった。畑のほうで、うめき声が聞こえた。

 雨水で濡れそぼった髪をかき上げ、アーデリは眼をこらした。いくつかの影が畑の上でもつれ合っていた。

 アーデリは息を呑んだ。このまま母屋に戻ることもできる。母の胸に抱かれて朝を待てばいい。

 物置の奥に手を伸ばした。手斧を摑んだ。それは長い間使われておらず、すっかり埃にまみれていた――一昨年死んだ父の手斧。

 しっかりと両手で握りしめた。

 畑へ向かって駆け出す。濡れた土に足が沈み、何度も転びそうになる。顔に雨の飛沫が吹き付けてきて、前が見えない。

「おじさん!」

 叫んだ。

 闇の中、二つの影がからみあっていた。そのうちの一つは、人影だった。が、もう一つは――

「来るな、坊主!」

 男がうなった。

 そして、男は剣を一閃いっせんした。もう一つの太い棒のような影が、真っ二つになって畑の上にくずおれた。斬られてなお、二つの塊はぐずぐずと音を漏らしながら、うごめいていた――オオクチイボミミズだ。みるみるうちにぶよぶよとした肉色の塊はしなびて、すぐに動かなくなった。

「坊主、大丈夫か?」

 男は肩で息をしながら、アーデリを振り向いた。

「おじさんは大丈夫? 怪我ない?」

 男に駆け寄ろうとした瞬間だった。男は「来るなっ!」と怒鳴った。

「え――」

 同時に、足元の土が陥没した。体勢を崩し、のめった。

 足元のすぐ脇から、土が噴き出てきた。ぶしゅうううっ、という気味の悪い音とともに、何かが地面から跳び出した。それはアーデリの胴に激突した。

 息が詰まった。眼の前に一瞬、朱色の火花が散った。畑の上に仰向けに倒れる。アーデリの細い体のすぐ脇、土の中から巨大な丸太のようなものが二本、むくむくと空に向かって伸びるのが見えた。イボだらけのその側面が、不規則に脈動していた。

 天をく一本の柱が、くねった。やや太くなっている頭部を男のほうへもたげるのが見えた。と、次の瞬間に、土をまき散らしながら、生きている柱は跳躍した。

 男の怒声が聞こえた。が、アーデリに聞こえたのはそこまでだった。もう一本の肉の柱が身を震わせた。そして、その胴体をぐいとねじ曲げた。アーデリの体へと、その太くなった先端を向けた。ぽっかりと空いた穴――アーデリをにらんでいる。穴の周囲の無数の棘がぎしぎしと音を立てていた。

「うわあああああっ!」

 アーデリは必死で手斧を振るった――手応え。両腕に雨ではない生ぬるい液体が降りかかった。泥の匂い。もう一度振るう。さらに手応え。顔に何かが噴きかかる。

 衝撃――吹っ飛ばされた。畑の上を転がった。口の中に土が入る。叫びながら、めくら滅法めっぽうがむしゃらに両手両脚をばたつかせた。脇腹に堅いものが激突した。激痛――悲鳴を上げた。泣き叫びながら、激しい怒りに震えた。雨なのか、粘液なのか、自分の血なのか、よだれなのか、顔はびしょ濡れで、もはや眼を開いても何も見えなかった。

「消えろおおおおおっ!」

 絶叫した。手斧を振った。確かにめり込んだ。が、次の瞬間、肉の柱がぐらりと揺れた。そして、アーデリの上に落ちてきた。

「母さん!」

 頭に強い衝撃があった。暗黒に包まれた。


 眼を開くと、雨はやんでいた。

 視界の隅に動くものがあった。はっとして、手を握った。両のどちらの手にも、手斧は握られていなかった。

「おう、よくやったな」

 近づいてきたのは、小人族オゼットの男だった。男の頬の傷は開き、黒い血が流れていた。男は手を差し伸べた。アーデリはおそるおそる、右手を伸ばした。男はアーデリの小さな手をぐいと摑んだ。男の手は、アーデリの手と同じくらいの大きさだったが、ごつごつとしていて、ひんやりとしていた。

 男は雨と血で濡れた髭の下で、にやりと笑いながら顎で地面の一角を指した。

 ねじ曲がった肉塊が土にまみれて倒れていた。ぴくりとも動かない。あらためて、その巨大さにおののいた。大人の背丈の二倍はあり、太さも一抱えほどあるだろう。おそろしく巨大なオオクチイボミミズだった。やや離れたところに、もう一匹、同じくらいのイボミミズの死骸が横たわっていた。

「その小さな体で、よく退治できたな。おっと、体の小ささといえば、俺も負けちゃいねえけどな」

 男の言葉の意味がわからなかった。男はイボミミズの死骸を片足で押さえ、その胴体から何かを引き抜いた。

「お手柄だ」

 男が差し出したのは、手斧だった。

「このイボミミズって……」

「そうだ、おまえが仕留めたんだよ。おい坊主、そっちを持ってくれ」

 男と一緒に、アーデリは三匹のイボミミズの死骸を一匹ずつ抱え、くさむらの奥へと捨てた。

「今の時期、今夜みたいに肌寒い雨の夜には、イボミミズのやつらがよく出やがる。もしかして、と思って畑を見回ったら、案の定だ。しかし、こんな大物は俺も久しぶりだぜ」

 男は寒さなのか、気味の悪さを思い出したのか、一瞬胴震いをした。しかしアーデリは、逆に体が火照っているのを感じていた。

 イボミミズを仕留めることができた? この手で?

 手斧を見下ろした。たくましかった父さんが、軽々と薪を切っていた手斧だ。もしかしたら父さんも、これでイボミミズと闘ったことがあったかもしれない。

 胸の奥がきゅっと熱くなり、心の臓が跳ねるのを感じた。

 この畑を守れた。母さんを、守ることができたんだ。

「やったんだ……!」

 ようやく実感がふつふつと湧いてきた。胸の奥の熱が、徐々に頭へ、そして四肢へと伝わってくのを感じた。

 アーデリは、男と並んで母屋の前まで戻った。男はそのまま物置へ向かうと、背嚢を片手に戻ってきた。

「母さんに、おじさんのこと紹介……」

「いいや、おっ母に心配かけることはねえ」

 男は背嚢を背負うと、剣の鞘で靴の泥を叩いて落とし、再び剣を帯びた。

「行っちゃうの?」

 アーデリは男に向かって一歩近づいた。

「雨がやんだからな。陽が昇ると暑くなる。その前に発ったほうがよさそうだ」

「え、でも……」

「坊主、酒、ありがとうな。おっ母を大事にしな」

 男はそう言うと、街道に向かって小径こみちを歩き始めた。少し足を引きずってはいたが、速い足取りだった。

「坊主じゃないよ!」

 アーデリはその背中に向かって言った。男は歩を止め、振り返った。

「坊主じゃない。あたしは、女の子だよ!」

 男は、肩をすくめてにやりと笑った。

「俺の名前は、ザンピロ。どっかでまた会いてえな。そのときは、コルメ酒を倍にして返すぜ」

 男はそう言って歩き出した。

 いつの間にか、夜空には下弦の緑月が昇り始めていた。うっすらとした月明かりの下、ザンピロと名乗った男の姿は街道へ出て、みるみるうちに小さくなって行った。

 アーデリは、ずっと見送った。ザンピロの後ろ姿が、東の緑月の下の三つの隆起〈ミツコブヒツジの丘〉の向こうに消えるまで。

「アーデリ! どうしたの、アーデリ!」

 母の声が聞こえた。不自由な脚で起き出し、母屋の入り口まで来ていたのだ。

「母さん! あたし、イボミミズをやっつけたんだよ!」

 アーデリは母のもとへ駆け出した。


「流人、砂上をはしる」完

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流人、砂上を奔る/〈灰色の右手〉剣風抄・外伝 美尾籠ロウ @meiteido

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