第109話 ドライで
見られた。
見られてしまった。
私とお母さんとのやりとりを、望月君に見られてしまった。
望月くんと鉢合わせたその瞬間、私は深くて暗い谷底に真っ逆さまになった。
この時の私の精神状態は最悪だった。
私のお父さんは、小学校5年生の時に通り魔から私を庇って死んでしまった。
その死を受け入れられなかったお母さんは、今も空想上のお父さんと一緒に暮らしている。
この日のお母さんも、お父さんと一緒に公園を散歩した、美味しい夕食を食べた、ショッピングをしたって、ずっと笑顔でお話ししていた。
大丈夫、いつものことだと、お母さんに合わせて私も笑った。
でも言葉を交わすたびに、笑うたびに、確信が深まっていく。
やっぱり、私の家は普通じゃない。
お母さんも、私も、異常だ。
こんなの知られたら、絶対……。
──ちょっとそれは……重過ぎるというか。
──うわー、引くわー……。
──ごめん、ちょっと無理かも。
──もう関わらないでくれない?
フラッシュバック。
鉛のように重たく刃物のように鋭い言葉。
嘲笑う声。
黒い感情。
思わず、逃げてしまった。
逃げてどうにかなるようなものでもないのに、走った。
空から突き刺してくる無数の雨粒を弾き飛ばして足を動かした。
でも、精神と繋がった身体はすぐに音を上げてしまって、膝がガクガク震えて、動けなくなって。
雨降る公園にひとり、佇んでいると、
「……風邪ひくよ」
ああ、なんで。
なんで、追いかけてきちゃうかなあ。
「行くよ」
腕を掴まれた。
反射的にその手を振り払ってしまった。
……ごめんなさい。
心の中が申し訳なさでいっぱいになる。
でもこうすれば、きっと引き下がってくれる。
これ以上、みっともない姿を見られないで済む。
頭を冷やして落ち着いて、いつもの私に戻ってまた……。
しかし、そうはならなかった。
望月くんは、再び私の腕を掴んだ。
さっきよりも強く。
そして今まで感じたことのない、強い意思を持って訊いてきた。
家族のことを教えて欲しい。
首を振った。
後ずさった。
震える声で嫌だって言った。
それでも望月くんは、引き下がらなかった。
一人で抱え込むなんて許さない、そんな気概を感じた。
そのうち、反論する気力すらなくなって。
私の中のネガティブな部分が、最後の抵抗を口にする。
「話したらきっと……望月くんまでいなくなっちゃう……」
口にすると、どうしようもなく泣きたくなるような、悲しい気持ちになった。
瞳の奥がじゅっと熱を帯びる。
いつもの無表情をほんの少しだけ伏せて、私に背中を向けて暗闇に消えていく望月くんの姿が頭に浮かぶ。
──行かないで。
手を伸ばす。
五本の指は何も掴むこともなく虚空を描く。
訪れる静寂。
自分以外の存在すべてが黒に塗り潰された空間。
そこで私は……顔を両手で覆って崩れ落ちた。
──そんな私の妄想を、粉々に打ち砕く言葉が響く。
「僕は絶対に、いなくならない」
黒い空間に、光が差した。
◇◇◇
全部、話した。
死んじゃったお父さんのこと、壊れてしまったお母さんのこと。
全部、全部話した。
話してる途中、望月くんは何も言わず、じっと私の言葉に耳を傾けてくれた。
真面目に、真剣に聞いてくれた。
でもその表情には緊張と困惑の色が浮かんでいた。
無理も、ない。
話し終えてから、心が幾ばくか身軽になっていることに気づく。
しかしすぐ、新たな重りがじわじわとのし掛かってきた。
「これで話はおしまい。なかなかにヘビーだったでしょ?」
私は無理くり笑顔を作って、そう言ってみせた。
内心は、ぐっちゃぐちゃだった。
内臓を裏返し滅茶苦茶に繋げたような感覚。
嫌だ、聞きたくない。
望月君の次の言葉を聞くのが怖い。
今すぐ両耳を塞ぎ込んで、両膝の間に顔を埋めたい。
でも、そうはしなかった。
『おさむ』をぎゅっと抱きしめて、まっすぐ、望月くんの瞳を見つめた。
私を信じて歩み寄ってきてくれた望月くんを、私も信じる。
そう、決めていたから。
望月くんの口が、ゆっくりと開かれる。
いつもの、でも、ほんの少しだけ憂いを帯びた声色で、
言葉を、紡いだ。
「大丈夫」
「君と距離を取ろうとか、関わらないようにしようとかは、微塵も思ってない」
「だから……安心してほしい」
「ずっと、誰にも言えなくて、一人で抱え込んで、しんどかったと思う」
「無理に笑わなくて良い」
「辛い時は辛いって、正直に言って欲しい」
「僕も、話くらいは聞けるから」
………………ああ、なんで。
なんで君はそうやって、いつもいつも。
私が、一番言って欲しかった言葉を、言っちゃうかなあ。
とても長い時間、無理やり見えないふりをして抑え込んでいた。
気持ちが暗がりに侵されそうになったら、積極的に明るく振舞って覆い隠していた。
心が摩耗していく感覚も、気付かないふりをしていた。
全部私が抱え込んで、私だけが知ってる世界でいれば良い。
そしたら必要以上に辛い思いをしなくて済むし、誰にも迷惑がかからない。
私だけが知ってる世界良かった?
必要以上に辛くない?
そんなわけない。
本当は苦しくて辛くてしんどくて泣きたくなっても誰にも相談できなくて何度も一人で毛布を被って泣いていた。
だから望月くんが、
僕も一緒に背負うって、
一人にはさせないって、
そばにいるって、
そう言ってくれて本当に本当に、
嬉しくて、
嬉しくて、
嬉しくて、
私の頭を望月くんが優しく撫でた瞬間、全てが決壊した。
抑えるのはもう、無理だった。
瞳の奥に熱が灯る。
瞬間、ガソリンが引火したみたいに熱い雫が溢れ出した。
望月くんの目の前で、私は声を出して泣いた。
とめどなく溢れる涙。
窒息しそうなほどの嗚咽。
きっと今の私はすごく、すごくみっともない事になっている。
そんな私を、望月くんはぎゅっと抱きしめてくれた。
驚く。
でもそれ以上に、
落ち着く匂い、ぬくもり、包まれているような安心感を感じるとまた涙が押し出されてしまって、
しばらくの間、感情に任せてむせび泣いた。
◇◇◇
水分が無くなってしまうんじゃないかってくらい泣いて、ようやく涙が引いてきた。
心は、羽根が生えたみたいに身軽になっていた。
新たな重りも、生まれなかった。
抱擁が解かれた後に、改めて尋ねる。
「さっきの言葉、本当?」
本当だよと、望月くんは言った。
加えて、もっと頼って欲しい、とも。
嬉しくて舞い上がっていた私は、後から思い出すと赤面必須な質問も投げかけてしまう。
「それは、望月くんに甘えてもいい、ってこと?」
望月くんは、いいよって、即答してくれた。
抑えるのは、無理だった。
何千キロも飛びっぱなしだった渡り鳥が、ようやく止まり木を見つけたらたぶん、こんな気持ちなんだろう。
望月くんに、甘えたい。
熱を伴って噴出した強い欲求は気がつくと、私にこんな言葉を口にさせていた。
「……もう少しだけ、撫でて、欲しい」
望月くんは優しく、まるで壊れ物でも扱うように撫でてくれた。
恥ずかしみ嬉しみで、身体がわーっと熱くなる。
勢いに任せて、ぎゅーもおかわりしてしまった。
再び、落ち着く匂い、体温、包まれているような安心感、そして、多幸感。
温かいなあ、嬉しいなあ……。
また涙が溢れ出そうになる。
私に初めてできた、寄り掛かれる場所。
その存在を確かめるように、私の方からもぎゅーっと、望月くんを抱き締めた。
……だんだん冷静さが戻ってきて、今の自分は側から見ると、とんでもなく恥ずかしいことをしている事を自覚する。
変だ、こんなの、私じゃないと、顔が熱くなって、
「明日には、いつも通りに戻るから」
弁明するように言うと、望月くんはこう返した。
「君は君の素でいればいい」
……もー、ほんとにきみはもー。
「わかった。そうする」
もういいや、好きにしちゃえ。
またぎゅっと、望月くんを抱き締めた。
ばくばくと速いテンポで刻まれる心音が聞かれていないか、心配しながら。
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