第106話 日和のことが好きだ
やってきたのは、海に面した小さな公園。
控えめな遊具と、一時的に役目を終えた花壇が冬風に晒されている。
「わーーきれーー!!」
着くやいなや、日和は背の低いフェンスに駆け寄り身を乗り出した。
公園の物寂しさとは対照的に、ここから見える夜景は煌びやかだった。
手前には、先程までいたアクーアシティ周辺、奥にレインボーブリッジや港区を埋め尽くす高層ビル群。
宝石を散りばめたような、なんて安直な表現しか浮かばなくなるくらい、綺麗な光の波が広がっていた。
「この夜景を見せたかったの?」
日和が、こちらを向いて尋ねてくる。
返答をわずかに逡巡し、頷く。
「そっかあー」と、語尾に「♪」がつきそうな声。
しばらくうっとりと、夜景を堪能していた日和がぽつりと言う。
「治くん、意外とロマンチックなことするよね」
ロマンチック、を意識したつもりはないけれれど、
「好きかと思って。高尾山とか、都庁とか、景色を眺めている時の日和は、すごく楽しそうだったから」
言うと、日和は優しく微笑んだ。
「ほんと、治くんって人のことよく見てるよね」
「……人というより、日和のことかな」
「へっ?」
「なんでもない」
その時、太平洋からやってきた一迅の風がびゅうと吹いた。
「うにゃあ、寒いねえ」
空気と戯れる髪を抑え、身を縮こまらせる日和。
「カイロ、いる?」
「わっ、ありがと!」
ぬくぬくだあと、猫のお腹に顔を埋めたような表情でカイロを頬に当てる日和。
「というか、いつもカイロ持ってるね」
「手早く温度を感じられるから、重宝してる」
「ふんふん確かに、でも」
日和が、こちらに両腕を広げてくる。
「もっと温度を感じる方法、あるよ?」
夜景を背景に柔らかい笑顔を浮かべる日和はとても幻想的で、思わず息を呑んだ。
「……ここ、外だよ?」
「でも、誰もいないじゃん」
確かに日和の言う通り、周囲に人気はない。
ネットやSNSを駆使して見つけた、穴場ということもあって。
「あー……」
ぽりぽりと後ろ手で頭を掻きながら、反論する思考が湧き出ていないことに気づく。
あるのは一抹の気恥ずかしさと……日和のことを抱きしめたいという、欲求。
小さく息をついてから、口を開く。
「むこう向いて」
「え?」
「いいから」
僕に言われるがまま背を向ける日和。
その小さな背中を、後ろから抱きすくめる。
「んあっ」
短い驚声。
甘ったるい匂い。
冷えていた身体を包む、じんわりと温かい体温。
「こうすれば、二人で見れる」
あと、緊張で強張った僕の顔を見られなくてすむ。
「……もー、大胆なことするなー」
「……嫌だった?」
日和の頭が横に揺れる。
返答は無かったけど……ふっと、日和の身体から力が抜けた。
日和の楽しそうな声が「くふふ」と響く。
「あったかいねえ」
とろけるような声。
「うん、温かい」
返すと、日和が嬉しそうに身体を揺らす。
しばらくこの体勢のままぼんやりと、夜景を眺めていた。
「今日は、ありがとうね」
不意に、優しい声。
「デート、私のためにたくさん考えてくれたんだなーって、いっぱい伝わってきた」
うずうずと、腕の中で日和の身体が揺れる。
「本当に、最高の1日だった。ありがとう、治くん」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ぎゅっと、日和を抱きしめる腕に力がこもった。
喜んでもらえてよかった。
楽しんでもらえてよかった。
──もっと、楽しんでほしい。
「なんか、これでもう終わりみたいな口振りだけど」
「えっ、この後も何かあるの?」
答えない。
『その』時間まで後、数分もないだろう。
こういうのはサプライズした方が喜びは大きいと、日和と過ごす日々の中で学んだ。
「ま、まさかこれから如何わしい場所に……キャー、オソワレルー!」
「なに言ってんの」
流石にツッコミを入れる。
くすくすと小さな笑い声が返ってきた。
少しだけ、僕も笑った。
その時、どこからともなくひゅるるると、気の抜けた口笛のような音が聞こえてきた。
「始まったっぽい」
「始まった?」
日和が首を傾げたその刹那、
──胸を突き上げるような炸裂音と共に、赤くて大きな花が夜空に膨らんだ。
視界に収まりきらないほど巨大な、菊型の花火だった。
それは夜空を煌びやかに彩った後、儚げに輪郭を失っていく。
しかしその残滓が消えるより早く、次々と花火が打ち上がった。
断続的な爆音と、カラフルな光の渋滞。
手を伸ばせば届きそうな近さで、夜空を覆い尽くすほどの打ち上げ花火が夜闇を埋め尽くすように咲いていく。
「わああああああああーーー!!」
花火の爆音に負けないほどの歓声が、耳元で弾けた。
「すごいすごいすごいーー!! 冬に花火!? どういうこと!?」
「お台場レインボー花火っていう、冬に開催される花火大会だよ」
「へええええ!! そんなのあるんだ!! すごいね!」
完全に語彙を失った日和が、「はわああーー」と気の抜けた声を漏らす。
「本当に見せたかったのは、こっち?」
「うん」
「そっかあー」
日和が、どこか悔しげに言う。
「なかなかにやってくれるじゃないのー」
「こういうのは秘密にしておいた方が、感動は大きくなるかなって」
「うん、正解」
りんと鈴の鳴るような声が鼓膜を揺らす。
端正な顔立ちに浮かんだ笑顔は、花火に負けないくらい綺麗で、胸を打つ魅力を持っていた。
しばらく無言で、お台場の夜を彩る打ち上げ花火を眺めていた。
海風に運ばれてきた火薬の香りが、甘い匂いに混じって鼻をくすり始めた時、改めて実感する。
やっぱり僕は、日和のことが好きだ。
大好きだ。
お人形さんみたいに整った顔立ちが好きだ。
長くてシルクのように繊細な黒髪が好きだ。
じんわりと温かい体温も、甘ったるくて落ち着く匂いも、雀が小躍りするような声も好きだ。
もりもりとご飯を食べる姿が好きだ。
嬉しい時に身体を横に揺らす癖が好きだ。
どこか落ち着きのないそわそわとした動作も、ぴょこんと跳ねる動作も、急に顔を近づけてくる動作も好きだ。
明るくて快活な太陽みたいな笑顔が好きだ。
春の陽だまりみたいに優しい笑顔が好きだ。
悪巧みをしている時に浮かべる小悪魔めいた笑顔も、頭を撫でた時に浮かべるくすぐったそうな笑顔も、僕の頭を撫でる時に浮かべる慈愛に満ちた笑顔も好きだ。
いつも人の気持ちを第一に考えるところが好きだ。
どんな逆境の時でも「大丈夫」と前を向くところが好きだ。
常に明るくて元気なところも、素直で裏表のないところも、意外と寂しがり屋で甘えん坊なところも好きだ。
全部、全部、大好きだ。
理性と合理的思考のもと、どんな状況でも動じず、冷静で、感情を動かされることのなかった僕が、日和と一緒にいると胸がぽかぽかして、ドキッとして、堪らなく愛おしくなって息が詰まりそうになる。
これを恋心と呼ばずになんと言うのだ。
もっと日和といろんなところにお出かけしたいと思う。
もっと日和といろんなものを食べたいと思う。
もっと日和と部屋でぐーたらのんびりしたいと思う。
もっと日和とお互いの好きな本を、漫画を、貸し合って互いに感想を言い合いたいと思う。
もっと日和と手を繋ぎたいと思う。
もっと日和の頭を撫でたいと思う。
もっと日和とハグしたいと思う。
いや、極論を言うと、なにもしなくてもいい。
ただ日和と、もっと一緒にいたいと思う。
だから言いたい。
好きだって。
好きだから、一緒にいたいって、気持ちを伝えたい。
不安は微塵もなかった。
僕が伝えた気持ちに対し、日和がどのように応えるかなんて、今は関係ない。
どうするかは、結果が出てからでいい。
言おう。
気がつくと、花火は終わっていた。
夏と違って、冬の打ち上げ花火は控えめらしい。
終わってから、しばらくお互いに無言の時間が流れた。
僕は最後の覚悟を決めていた。
自分の想いを伝える、最後の覚悟を。
腕の中の日和は……花火に余韻の浸っているのだろうか。
「日和」
静寂を破ったのは、僕の方だった。
胸から自然と漏れ出した声で、言葉を紡ぐ。
「僕は」
不意に日和が、身をぐるりと反転させた。
えっ、と思う間もなかった。
気がつくと、前からぎゅうううっと、日和に抱き締められていた。
微かに漂っていた火薬の匂いが、いつもの甘ったるい匂いに塗り潰される。
突然のことで、思考が止まりそうになる。
ただ驚くほど自然に、僕も腕を日和の背中に回していた。
そうしたほうがいいと、深層心理下の直感が囁いたから。
状況を読み込んで、日和の突然の抱擁に疑問を抱いてから、流れに沿った問いを投げかける。
「どうしたの?」
返事はない。
代わりに、
「……ひっく」
嗚咽。
ばっと、弾かれたように日和の両肩を掴み、ゆっくりと離す。
街灯に照らされた日和の表情を目の前にし、言葉を失う。
日和は……ぽろぽろと大粒の涙を流しながら、泣いていた。
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