第97話 奥村さんが上司で


「来週の金曜日に、有給をいただきたいのですが」


 涼介とのランチを終えてオフィスに戻ってすぐ、ちょうど出先から戻ってきた奥村さんに進言する。

 僕の口から「有給」というワードが出たのが珍しかったのか、奥村さんは表情をきょとんとした。


「奥村さん?」

「あっ、有給、有給ね! えっと、来週の金曜日は……」

「14日です」

「んっ、ありがとう。全然構わないわよー、むしろ今まで全く取る気配が無かったから、そろそろどこかで取って貰わなきゃって思ってたところなの」


 言いながら奥村さんは、自身のゴーグルカレンダーに手際よく予定を入力した。


 『2月14日 望月くん 有給』


「どこか、旅行でもいくの?」


 ニコニコと微笑ましい笑顔を向けてくる奥村さん。


「ちょっと、実家の方に」

「ええっ、実家っ?」


 別に変なことは言ってないはずなのに、奥村さんはぎょっと身を引いた。


「は、早すぎない?」

「……? なにがです?」


 訊くと、奥村さんはなぜか朱に染めた両頬に手を当て、微かに上ずった声をあげた。


「だ、だって、まだ付き合ってもないんでしょう? それなのに、その……ご両親への挨拶だなんて」

「違います、全然違います。大学に手続きをしにいくだけで」


 あらぬ方向に想像を膨らませ始めた奥村さんに慌ててツッコミを入れる。


 「はっ」と動きを止め、コホンと咳払いをした奥村さんは、先程の出来事は幻でしたと言わんばかりにキリッと表情を引き締めた。


「なるほど、大学ね。理解したわ」


 もちろん、話をぶり返すような事はしない。


「手続きをしてくれる学務課が、平日しか空いてないので」

「あー、確かに、学務はそうだったわね」


 懐かしいわねーと、奥村さんは肩頬に手を当てて頷いた。


「単独で行くの?」

「はい、一人で行くつもりです」

「ふうん、そっか……」


 どこか微妙な表情を浮かべたあと、ゴーグルカレンダーをちらりと見やってから、小さく息をつく奥村さん。


「……なにか、懸念点でも?」

「ううん、大丈夫。でも、ついにか」


 今度は物寂しげに目を伏せる奥村さん。


「時間が経つのは速いわね。流石はベンチャー」

「確かに、この会社のスピード感は半端ないです」

「同感。ほんと、望月くんが入社してきたのがついこの間のような気がするわ」

「それだけ充実してたって事ですね」

「ふふっ、それは良かった」


 心底嬉しそうな笑顔を浮かべ、奥村さんが言葉を紡ぐ。


「この1年が、望月くんにとって少しでも意味のある時間になってくれたなら、私は嬉しいわ」

「少しどころじゃ、ないですよ」


 優しくて、聡明で、気遣いも抜群にできて、決して全ての答えを言わず、自発的に成長するよう促してくれた人。

 

 向き直って、口を開く。


「奥村さんには、感謝してもしきれません。仕事面でも、人間的な面でも、奥村さんには……たくさん成長させて頂きました」


 それこそ普段の僕は言わないもんだから、奥村さんはわかりやすく目を丸めた。


 言いながら、自分も驚く。


 でも、浮かんだ言葉を塞き止める理性の気配は無く、そのまま空気を震わせた。

 

「奥村さんが上司で良かったです。本当に、ありがとうございました」


 ──言い終えると、胸のあたりから自発的な願望が湧き出ている事に気づいた。


 この人と、もっと一緒に働きたい。


 この人の下(もと)で、もっといろいろなことを学びたい。


 そして欲を言うなら、成長して、何かしらの成果で恩返しをしたい。


 そんな願望が胸を満たして溢れ出していたもんだから……奥村さんの瞳が、微かに潤んでいる事に気づくのに、ワンテンポ遅れてしまう。


「え、ちょ……すみません、なにかまずい事言いましたかね……?」


 

 オロオロする僕を見た奥村さんがくすりと笑って、頭を横に振る。


「ううん、違う、むしろ逆。とても、とっても嬉しい」


 目尻にそっと指を這わす。


「こちらこそ、ありがとう」


 今まで目にしたことのない、慈愛に溢れた笑顔を浮かべた奥村さんが、そのまま言葉を繋げる。


「私も、望月くんが来てくれたおかげで、楽しく有意義な1年を過ごさせてもらったわ」


 言われて、嬉しくなった僕は自然と表情を綻ばせた。

 「ありがとうございます」と、小さく一礼を贈る。


「でーも」


 先ほどとは一転、ちょっぴり唇を尖らせた奥村さんが、ジト目を向けてきた。


「望月くん、急な不意打ちはずるいと思うんだー」


 既視感。

 

「それ、日和にも言われました」


 それがなぜだか可笑しかった。

 そっと口角をあげると、奥村さんは無邪気な笑顔を拵(こしら)えて「やっぱりぃー」と指差してきた。

 美人な上司の見せる子供っぽい仕草に、ついほっこりする。


「これは日和ちゃんもコロッといってしまうわけか」

「と、いうと?」

「なんでもー。よし、望月くん!」

「は、はいっ?」


 急に名前を呼ばれビクッとするも束の間、ずびしっと人差し指を向けられる。


「就活が始まったら、ウチに面接に来なさい」

「へ?」

「望月くんの働きっぷりと成長速度の速さは、社員みんなが高く評価してくれている。今うちの会社は、基本的に中途しか採用してないけど、望月くんなら歓迎されると思うわ」


 なにやらずんずん話が進み始めて焦る。


「1年経ったら採用基準がもっと上がってるだろうけど、大丈夫! その時は私が全力で人事に掛け合って、必ずや内定をもぎ取って……」


 そんなフルーツ感覚で取れて良いものなのだろうか、内定。


「あ、あの」


 もう1年先の話をする奥村さんに、おずおずと口を開く。


「その申し出はとても嬉しいですし、ありがたいのですけど……」

「あっ、ごめん! つい興奮して……望月くんの意思を無視しちゃってたわね」


 いけないいけないと、額に手を当て首を振る奥村さん。


「そうよね、望月くんレベルなら、下手したら五大商社も狙えるだろうし、選択肢をうちに絞るのも勿体な……」

「いや、むしろそれに関しては僕としても願ったり叶ったりなのですけど」


 僕が真面目な声色で言うと、奥村さんは「んん?」と首を傾げた。


 言うか言うまいか、迷いはなかった。

 

 すうっと息を吸ってから僕は、先ほど涼介に明かした『とある選択』についての第一言を口にした。


「実は……」

 

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