第57話 いつかちゃんと(でもそのいつかはもうすぐ)
箱根を出て1時間くらい経っただろうか。
彼女主導で中身のない会話を生産し続けるのはいつも通りだったが、普段より僕の口数が多めだった。
どうやら僕はアルコールが入ると、少々饒舌になってしまうタイプらしい。
「そういえば」
会話に一区切りついて、ふと頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした。
「どうしてあの時、力を使ったの?」
「んぅ?」
彼女がこてりと首を傾げる。
「君は今日、全く見ず知らずの女の子に力を使ったよね」
「うん、使ったね」
それがなにか? とでも言いたげな表情に、尋ねる。
「僕が風邪を引いた時、怪我をした時はまだわかる。でも今日のは、下手したら、力の存在が周囲に認知される可能性もあった。それなのに君は……」
そこまで言葉を並べると彼女は「ああっ」と頷き、表情筋を楽しませた。
「心配してくれてありがと。でも大丈夫だよ、バレないよう望月くんに隠してもらったし、まだ物心ついてなさそうな子だったから……」
「でも、100%安全とは言えないよね。母親の到着がもう少し早かったら、見られていたかもしれない」
「むー……それはそうだけど、結果的にどうにかなったじゃん」
「というか、元を辿れば僕にはバレちゃってるよね」
「うげっ」
そこを突かれると痛いとばかりに、彼女は大仰に身を引いた。
「でもあれは、ちゃんとした事情があってと言うか!」
「事情?」
聞くと、彼女は押し黙った。
むむむと、あまり突っ込まれたく無さげだった。
僕はため息をつく。
「君はさ」
ここ最近、いや、ずっと前から浮かんでいた疑念を、酔いの力も借りて訊いた。
「どうしてそこまで、人のために動けるの?」
記憶を辿れば、彼女はいつもそうだった。
力を使用するとそれなりに消耗するにも関わらず、僕が風邪を引いた時も、怪我をした時も、彼女はなんの躊躇もなく力を使った。
この力がバレると面倒だと、彼女は言っていた。
自覚しているはずなのに、彼女は今日、誰よりも早く女の子の元へ駆けつけた。
そこまでして他人のために動く彼女の行動に対し、僕は理解不能としか言いようがない印象を抱いていた。
彼女の行動理由が、知りたかった。
僕の問いに、彼女はその多彩なバリエーションを持つ表情をコロコロと様変わりさせた。
最初は、そんなこと考えたこともなかった、と言わんばかりの驚き顔、次に「むうー」と深く考え込むような思案顔、最後に口元をふっと柔らかく崩し、簡潔な言葉を口にした。
「なにも」
「え?」
「特に深い理由はないよ。私、昔からこんな感じでさ。他人が困ってたり、助けを求めてたりすると、なんかこう……胸がぶわってなるんだよね」
オノマトペと手振りを使い、彼女は説明する。
「それで、気づいたら身体が先に動いちゃうんだ。助けなきゃー、って」
彼女が頭を掻いて、最後にこう付け足す。
「やりすぎは良くないって、わかってるんだけどね」
彼女の言葉に、僕は軽い驚きを覚えていた。
彼女の利他的な行動はてっきり、なにか過去の出来事や生まれ育った環境が要因だと思っていた。
先の言葉をそのまま解釈するなら、彼女は先天的に自己を顧みず他者を重んじる性質だったということ。
ということはつまり……僕が彼女のようになるのは、転生するくらいしか道はないということか。
って、なんでこんなことを考えているんだろう。
「あっ、でも」
胸の中で眠っていた記憶が呼び起こされたような声を上げて、彼女は僕の予想だにしない言葉を紡いだ。
「……お父さんの事があってからかな、こんな風になっちゃったのは」
小さな呟きに、僕は反射的に返していた。
「君の親って」
そこまで言って、口を噤む。
今、僕はなんて言った?
思い起こし、反芻し、ふわふわしていた思考が一気に冷め渡る。
自分がアルコールに敏感な体質だった事を失念していた。
一日中歩き回った疲れも合わさって、正常な判断力を失わせるくらいには酔いが回っていたらしい。
やってしまったと後悔に苛まれるも、口にした言葉はもう取り戻せない。
彼女は、その表情をぴたりと静止させていた。
「や、あの……」
取り繕うとした。
でもやめた。
彼女の答えを待った。
僕は気づいたのだ。
アルコールで理性が弱まった程度で尋ねてしまうくらいには、関心を抱いていたのだと。
自分の意思を、尊重することにした。
「知りたい?」
聞かれて、鼓動が速まる。
レールの継ぎ目と車輪が擦れる音が、やけにうるさく聞こえた。
僕は、壊れたピアノみたいにぎこちなく頷いた。
彼女は、笑っていた。
悪戯っぽい、子供みたいな、でもほんの僅かに焦燥を含んでいるような笑顔で。
少しだけ期待していた。
彼女とその親御さんとの間にこれといったしがらみは無く、単なる僕の思い過ごしである事を。
もしくは、いたずら好きな彼女が仕掛けた壮大な釣りであることを。
それはそれで非常にタチが悪いが、そう言ってくれた方がまだ良かった。
「もう気づいてると思うけど……私は、親とちょっと問題を抱えてます」
なんということか。
彼女は僕の淡い期待を、一瞬で霧散させた。
とはいえ、驚きは少なかった。
その説濃厚だと思っていたから。
身構える。
普段浮かべる笑顔の裏に、一体どんな影が潜んでいるのだと。
そんな覚悟を、彼女はまた裏切った。
「理由は……もうちょっとだけ、待ってもらっていいかな? この話は誰にも……ゆーみんにだって話してないの」
困り笑い。静かな声。ちらちらと伺うような視線。
今は言えない、という判断を明かした彼女にさらなる追求をかける気概が僕にあろうはずもない。
「……うん。……なんか、ごめん」
「謝んないでよー。望月君はなにも悪くない。むしろ、感謝してるくらい」
「え」
気の抜けた声を落とすと、彼女は日向ぼっこする猫のような笑顔をたたえて言葉を続けた。
「私のこと、気遣ってくれてたでしょ。親の話になった時、そのまま流してくれたり、別の話題に移してくれたり」
「そんなんじゃ」
無い、と思う。
気遣いでもなんでもない。
さっき、彼女の言葉を待っている時に気づいた。
おそらく僕は、怖かったのだろう。
彼女の暗い部分に触れてしまうのが。
僕のキャパが、受け入れられるかどうかを。
人との交わりを疎かにしてきた分、自分の中でデータがないから余計に。
「ありがとうね」
感謝に満ちた声。
喜びが溢れんばかりの笑顔。
後ろの窓に映る夜景が、彼女の端正な顔立ちを映画のワンシーンのように際立たせる。
「……別に」
素っ気ない返答に反して、僕の心臓は音が聞こえてきそうなくらい高鳴っていた。
誕生日の時くらいから、なにかがおかしい。
彼女が浮かべる柔らかい方向の笑顔に、息が詰まるような感覚を覚えるようになった。
もっと遡ると、高尾山で怪我を治してもらったあたりから、僕の理性は彼女の容姿に対応して脆くなったような気がする。
これではいけない。
僕は彼女に見えないよう自身の右頬をつねって、気を持ち直した。
「でも、なんか嬉しいな」
僕の内情など露知らず、彼女はたいそう気を良くした顔で両手の人差し指をつんつんと合わせた。
「なにが」
「いやあ、望月くんもちゃんと、私に興味を持ってくれてるんだなーって」
「まあなにせ、魔法を使える女子高生だから」
「じゃなくて、私という人間に対して。でないと、聞かないでしょあんなこと」
「それは」
酔いもあって、と言おうとして口を噤む。
アルコールのせいにするのは僕の信条に反するし、少なからず関心を持っていたのは事実だったから。
「でも、ごめんね」
ぽつりと、彼女が言葉をこぼす。
その表情には珍しく、自責の念が浮かんでいた。
「私も、どっかのタイミングで話すべきだった。君にはこんなにもよくしてもらっているのに、ずっと言わないっていうのも、よくないよね」
ドリームカーの静音性が優秀だからだろうか。
彼女の言葉は、普段より頭に響いた。
彼女は笑いながらも、申し訳なさげだった。
その表情は、目を離したらどこかへ消えてしまいそうな儚さがあった。
胸の奥に、擦れるような痛みが走った。
「別に、嫌なら話さないでいい」
無意識に、そう口にしていた。
彼女は目をぱちくりさせている。
柄じゃない、と思いつつも勢いのまま言葉を繋げる。
「人間、言いたくないことの一つや二つ、あると思う。いくら仲がいいからって、共有しなきゃいけないって事はない」
一旦言葉を区切って、結論を述べた。
「だから、君が話したいと思ったら、話してくれればいい」
言い終えてから、喉に渇きを覚えて缶を手に取る。
やけに軽い缶を口につけると一滴だけ、味を認識する間も無く喉奥に落ちていった。
ようするに、空っぽだった。
何をしているんだ、僕は。
「……ありがとう」
振り向く。
穏やかで柔らかい、愛くるしい笑顔が、すぐそこにあった。
年相応のあどけなさが浮かびあった、可愛らしい笑顔。
ほんのりと頬を朱に染めた彼女は、何か大事なものを抱えるかのように、胸の前で手をぎゅっと握った。
その仕草さえも、愛おしさを感じてしまう。
──それは、反則だろ。
思わず力が抜けて、手から缶を滑り落としてしまった。
「あははっ、おっちょこちょいさんだ」
一転、鈴を転がしたような彼女の笑声を背中に浴びる。
誰のせいだ、誰の。
言うわけにもいかず、八つ当たり先として缶に思い切り力を込めた。
期待に反して缶は潰れず、己の握力の非力さを思い知らされる。
本当に、さっきからなにしてるんだろう。
「いつかきっと、ちゃんと言うから」
静かだけど、鼓膜を震わすような、決意を帯びた声。
「…………うん」
短く返し、席に背を預け直すと、彼女の機嫌良さげな鼻唄が聞こえてきた。
僕は正面を向いたままスマホを取りだし、特に調べ物があるわけでもなくニュースアプリを起動した。
上昇しきった体温を、下げるたびに。
彼女の方はしばらく、見ないようにした。
軽く今日のニュースをサーチするくらいの気持ちだったが、結果的にいろんなサイトに飛んで随分と時間を費やしてしまった。
一区切りして、ぐぐっと肩を伸ばす。
背中から腰にかけて血液が行き渡る感覚を覚えながらふと、疑問を抱いた。
彼女にしては珍しく、長いこと話を振ってこなかったものだと。
気になって横を向こうとした矢先、左肩に柔らかい衝撃を覚えた。
「……え」
嗅ぎ覚えのある甘ったるい香りが、ふわりと鼻腔をつく。
肩口が、繊維を隔ててじんわりと熱を帯びてきた。
ゆっくりと、目だけ左に流す。
光沢を放つ艶やかな黒髪が目と鼻の先にあった。
視界から得られた情報を整理するとつまり、彼女が僕の左肩に寄りかかってきた、ということだろうか。
……なんだ、それ。
ばくばくと心臓が高鳴る。
手から、足から、背中から汗が吹き出し、僕は言語を発するという手段を失ってしまった。
これまで彼女と身体を接触させたのは、高尾山帰りのケーブルカーでの一件くらい。
あれも、偶発的な事故のようなものだ。
快適なドリームカーの座席で、事故が起こる外的要因は一つもない。
つまりこれは、彼女自身が引き起こしたシチュエーションなのだろう。
「なんの、つもり」
かろうじて絞り出す。
きっと、いつもの冗談だ。
そう思っていた。
しかし、いつまで経っても返事が無い。
もしやと思い、耳をすませる。
……すうすうと、一定のリズムで刻まれる可愛らしい寝息を聴覚が捉えた。
「またか……」
強張っていた身体から力が一気に抜けかける。
抜けてしまうと彼女の頭がずれて落ちかねないので、慌てて体勢を持ち直した。
魔法を使った後の、恒例の寝落ち。
ドリームカーが快適すぎたのもあってか、彼女のHPはすっからかんになったらしい。
さっさと起こしてしまおうと思った。
この状況は、僕の精神衛生的には非常によろしくない。
とりあえず、彼女の頭を定位置に戻すため、手を伸ばそうとする。
しかし、それは叶わなかった。
彼女の細い指先が、僕の腕をぎゅっと握ってきたから。
幼い子供が母親に、行かないで、とでも訴えているかのように。
不安で仕方がない心境の中、やっと見つけた拠り所に縋るかのように。
「……」
到着するまでは現状を維持、という選択をとることにした。
一度深呼吸をし、動かそうとした手から力を抜く。
身体の左側に意識がいかないようにし、首を正面に固定した。
同情の念を抱いたとか、そういうのではない。
無理やり振りほどいて彼女を不機嫌にさせる方が面倒臭いと、総合的に判断した結果だ。
アルコールを摂取した後にやってくる特有の倦怠感も、その選択を後押しした。
幸い、目的地まであと30分ほど。
心音はうるさく鳴りっぱなしでさっきから冷や汗が止まらないが、なんとか持ち堪えられるだろう。
駅に到着するまでずっと、彼女は僕の肩に寄りかかり続けた。
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