第45話 彼女と誕生日プレゼント


 親友さんのおかげで、わかった。

 おそらく僕は、プレゼントの選ぶ際の考え方を間違っていた。


 今までずっと、『世間一般の女性』は何を貰えば嬉しいのか?

 という基準で考えていた。


 違う。


 『彼女』は何を貰えば嬉しいのか?

 この考え方でなくてはならなかったのだ。


 涼介もその前提で話していたはずなのに、その本質に気づけていなかった。

 ただそれだけのことだったのだ。


 金曜日。


 会社帰りに新宿のデパートへ足を運んだ。

 プレゼントは、まるでここ数日の苦悩が嘘だったかのようにすんなり決まった。

 

 帰ってきて、シャワーを浴びて、寝巻きに着替える。

 そのままの流れで本を読もうとして、ふと動作を止めた。


 そういえば彼女、今日は居ないんだった。


 友人と予定があるから来れないと、昨日明かされた。

 予定、と彼女は言っていたが、その内実は仲の良い友人たちとの誕生日パーティである。


 親友さんからのRINEで知った。

 

 というわけで、今日はひとりで夕食である。

 彼女が料理しに来るようになってから、初めてのソロディナーだ。


 ラップに包まれたおかずを冷蔵庫から取り出す。

 昨日のうちに彼女が作り置いてくれた、豚の生姜焼き。

 レンジで温めると、甘みと生姜の香りが漂ってきて食欲を一気に増進させた。


 テレビをつけて夕食をとる。

 自発的にテレビをつける事はほとんどないが、今日はそういう気分だった。


 奇怪なダンスを披露する芸人たちの叫声と観客の笑い声が響くなか、黙々と生姜焼きを頬張る。


 リビングは随分と静かなものだった。


 この部屋こんなに広かったっけ?

 そんな疑問も浮かぶ。

 自分の部屋のはずなのに、どこか違う空間にいるような錯覚を覚えた。


 最近、この錯覚を頻繁に感じているような覚えがあった。


 食べ終えて、食器を洗って、テレビを消す。

 文庫本を開き、物語の世界へ飛び込んでしまえば、あとは自分だけの世界だ。

 

 思い返すと今日は、僕が望んでいた平和な日常を体現できた日であった。

 久しぶりに誰からも干渉されず、自分のペースで動けたことに一種の充実感さえ感じる。


 その反面、妙な違和感があった。

 ざわざわと、胸の中で灰色の影が揺れているような、変な感じ。

 

 ふと、スマホを手に取る。

 通知はない。


 その事に、僕は小さな落胆を覚えた。


 落胆した? 僕が? なぜ?


 スマホを遠くに放り、頭を振って、再度本を開く。

 集中すると過去の感覚を思い出してきたのか、今度はすんなり没頭することができた。


 最後まで読み切って時間を確認する。


 時刻は10時前。

 体力的には、まだ余裕がある。

 明日は休日だから、もう一冊読んでしまおうか。


 そこで僕は、文庫本のストックを切らしたことに気づいた。

 ここ最近、プレゼントのことで頭がいっぱいですっかり失念していた。


 不覚に思いつつも、なにか読み漏らした本は無かっただろうかと、部屋を見渡す。

 

 すると、一冊の本が目に入った。


 彼女が図書館で借りたライトノベル。


 家にあったら読んでしまうからと、彼女が僕の部屋に置いていったのだ。


 なんとなく、その本を手に取る。

 僕がこの本に出会ったのは、ちょうど彼女と同じくらいの歳。

 もう何年も前に購入した代物だが、綺麗なものだった。


 ふと、久しぶりに読んでみたいと思った。

 一度読んだ本は再読しない主義だが、この本には読む理由がある。

 読み終えた彼女からの怒涛の感想ラッシュも控えているので、その防波堤を作っておかねばならないのだ。

 おおまかな内容は覚えているものの、細かい部分は忘れているのでちょうど良い。


 僕はソファに腰を沈め、1ページ目を開いた。



◇◇◇



 ピンポーン。


 無遠慮なインターホンの音で、クライマックスに差しかかろうとしていた物語から現実に引き戻された。

 このピンポンの旋律は、僕の知りうる限り一人しか奏でられない。


 時刻は0時前。

 重くなった腰を上げ、玄関に向かう。


 ドアを開けると、深夜とは思えない眩しい顔をした彼女が立っていた。


「やっ、久しぶり!」

「昨日の夜以来じゃ?」

「確かに!」


 ぬははっと笑う彼女。

 僕と同じく今日1日活動しているはずなのに、この差はなんなんだろう。


「入って良い?」

「いいけど」

「あざ!」

 

 靴を脱ぐ彼女の後ろ手には、長方形の白い箱が握られていた。

 リビングに戻ると、彼女は定位置のソファに腰を下ろし、黒いタイツに包まれた足を投げ出す。

 綺麗に描かれた黒いライン印象的だった、ってどこ見てるんだ。


 ほんの一瞬抱いてしまった邪な感情の詫びとしてお茶くらい出してやろうかと、冷蔵庫を開ける。

 

「今日は来ないものだと思ってた」

「30分くらい前に連絡したんだけど、既読つかなかったからさー」

「え、ほんとに?」


 スマホを見ると、確かに通知が来ていた。

 

「気づかなかった」

「だよね! もう寝てるかなーって思ったんだけど、部屋の明かり点いていたから突撃しちゃった」

「隣の晩御飯?」

「それ懐かしい! そういえば、生姜焼きどうだった?」

「とても美味しかった」

「よかった! 今週は豚縛りだったから、そろそろ飽きちゃったかなーって」

「素材が違うんじゃないかと思うくらい、毎回違う美味しさがあるから飽きない」

「もーー、上手なんだから!」

「痛いんだけど」


 ばしばしと背中を叩かれて、僕は顔をしかめる。

 どこぞの誰かさんよりも貧弱な身体なんだから、労って欲しい。


 コップにお茶を注いで出してやると、彼女はそれをすぐさま飲み干した。


「ぷはっ、生き返る!」

「喉、乾いてたの?」

「うん、ちょっと走って来たから」

「なに、マラソン大会にでも出るつもり?」

「それいいかも! 今度一緒に」

「死んでも出ない」

「チャレンジブルじゃないなー」


 くすくすと、彼女が笑う。

 この話題をこれ以上続けるのは危険な気がして、お茶を冷蔵庫に戻しに行くという名目で退散した。

 流れのついでに、冷蔵庫に保管した”あるモノ”を取り出そうと思う。


「ねえねえねえ!」


 冷蔵庫を開けたら、元気の良い声が飛んで来た。

 首だけ後ろを向かせる。


「この箱、なんだと思う?」


 彼女が白箱を両手で持って、期待に満ちた表情で尋ねてきた。

 空気を読んで間違えてあげようかと思ったが、その次に来るであろう彼女の自慢げな表情が浮かんで真面目に答える事にした。


「あくまで予想だけど……ケーキ?」

「おおおっ?」

 

 彼女は、透き通った瞳をまん丸くした。


「すごい、大当たり!」


 ぱちぱちぱち。

 マジックの成功を目にした子供のように手を叩く彼女。

 親友さんから彼女の今日の予定を聞いていた僕には、これといった驚きも感慨もなかった。

 

「今日友達の家でケーキが貰ってね! すっごく美味しかったから、望月くんもどうかなーっ……て?」


 彼女の言葉の後半が徐々に萎んでいき、疑問形へと変わる。

 つぶらな視線は、僕の手に持たれたホールサイズの白箱へと注がれていた。

 

「なに、それ?」


 こてんと、彼女が小首を横に倒す。


 どちらにせよ、僕に答える余裕は無くなっていた。

 急に胸の辺りがむず痒くなって、僕は箱をテーブルに置いてすぐ、中からブツを引っ張り出した。


「けーき?」


 彼女の目が大きく見開かれる。

 ふわりと、マロンとクリームの甘ったるい匂いが漂ってきた。


 姿を現したのは、大きなマロンがふんだんに添えられたホールサイズのモンブランケーキ。


 今日の帰り道、新宿のデパートで買ってきた代物だ。

 

 ちょうどその時、日付が回ったことを示すアラームがピピッと音を立てた。

 

 それはすなわち、彼女が17歳になった事を示していた。

 

 言おうと思っていた言葉が喉まで来て、一度飲み込まれる。

 引っ込んでしまったセリフを絞り出すようにして、僕は空気に祝福の言葉を乗せた。


「誕生日……おめで、とう」


 自分の口から出た言葉が、思った以上に小さくて焦った。

 

 ちゃんと聞こえただろうか。

 顔を上げる。


 視界に、くるくるとスロットのように変化する彼女の表情が入って来た。

 初めは驚いた顔、次にさらに驚いた顔、最後にハッと何かに気づいたような顔をして尋ねていた。

 

「知ってたの?」


 僕は頷く。

 図書館での一件のことを告げると、彼女は「あー!」と声を上げソファに仰け反った。


「そっかあー、あの時かあぁぁ……うはー、迂闊ぅ」


 こんなはずではなかったと顔を覆い、足をジタバタさせる彼女。

 感情の整理をしている者に言葉をかけると貰い事故を受けるので、僕は彼女が静かになるまで待った。


「ほんとはさ」


 ひとしきり感情を発散させた彼女がぽつりと、零すように切り出す。


「誕生日のこと、言うつもり無かったの」

「……それはまた、どうして?」


 尋ねると、彼女は人差し指を顎に添えて、ちょっぴり困った表情を浮かべたまま理由を口にした。


「気、遣わせちゃうかなって思って」


 彼女にしては珍しく、申し訳なさそうに目を伏せた。


「……ああ」


 胸の奥底で疼いていた蟠(わだかま)りが、憑き物が落ちるように溶け去った。

 誕生日のことを切り出さなかったのは、彼女なりの気遣い。

 そのことに、ほっと胸を撫で下ろす自分がいた。


 もし違う理由……例えば、彼女が僕に誕生日を祝って欲しくなかったとか、そういうのだったら。

 今から僕がとる行動は、双方を不幸にしてしまうから。


 僕は立ち上がる。


「どこいくのー?」


 彼女の問いには答えず、自室へ。

 紙袋を手に戻って来て、ソファに座る彼女の前に立つ。

 僕の唐突な行動に、彼女はきょとんとしていた。

 

「悩んだけど、なんとかなった」


 それだけ言って、紙袋を持ったほうの手を、彼女に差し出す。


 瞬間、全身からぶわりと汗が吹き出した。

 心臓が、受験の合格発表の時みたいに跳ねる。


「……これは?」

「プレゼント、的な?」


 彼女は、目の前の出来事を現実として認識できていない様子だった。

 繊細な指先がゆっくりと、僕の手から紙袋を受け取る。

 彼女は重さを確かめるように紙袋を持ち上げたり、表面に刻まれたブランドロゴを眺めたりして、訊いてきた。


「開けて、いい?」


 僕は無言で二度、頷いた。

 彼女が袋を開ける動作の一つ一つが、やけにゆっくり見て取れた。


 ほどなくして、一抱えほどある毛むくじゃらの物体が姿を表す。


「……ねこ?」


 彼女が呟く。

 細くて白い手には、猫を模したぬいぐるみが抱えられていた。


 色は白くてサイズは子猫くらい。

 いつだったか、彼女が公園で助けた猫と随分と似通っていた。


 じっと、彼女の視線がぬいぐるみに注がれる。


 いつもは脊髄反射のごとく、すぐに反応を示す彼女。

 にも関わらず、一向に次のリアクションを取らない彼女に、ぴんと糸を張ったような緊張感を抱いた。


「その、君にはいろいろとよくしてもらってるから、そのお礼も兼ねてというか」

 

 プレゼントを贈る理由を、弁明するように説明する。


 痒い。

 胃袋?

 違う、もっと上のほう。

 

 胸のあたりが。


「もふもふは愛してるとか、前言ってたから、嫌いではないだろうと思って」


 次に、ぬいぐるみを選んだ根拠を説明した。


 彼女は、動作を止めたままだった。

 まるで、僕の目には見えないメドゥーサに石化の魔法をかけられたかのように。


 ──気に入らなかったのだろうか。


 僕の中の熱が、急速に温度を低下させていく。

 もやもやとした感情が、胸の奥底から湧き出てきた。


 今すぐこの場から消え去りたい心持ちになったところで、ようやく、彼女の口が動いた。


「ありが、とう」

 

 その言葉が呟かれてから、彼女の動作が大きく変わった。


 もし喜びという感情が目で確認できるものだとしたら、彼女の姿は覆い尽くされて見えなくなっていただろう。


 それくらい、彼女は喜びを露わにした。


 人の感情を読むのが苦手な僕でも、一目でわかるくらい。


 ぎゅうぅっと、彼女はぬいぐるみを大事そうに抱きしめた。

 愛おしい我が子を抱え込むように、ぎゅうぅって。

 いつもは年齢の差を感じらせない距離感で接してくれている分、強く感じる年下特有のあどけなさ、幼さ。

 もう離さないと言わんばかりに、慈愛に満ちた表情を浮かべて、頬をぬいぐるみに擦り寄せた彼女は溢れんばかりの笑顔を弾かせた。


 頭の中でピシリと、何かにヒビが入った。

 異性としてあまりにも魅力的なその笑顔は、僕が受け止めきれるキャパを遥かに凌駕した。


 僕は咄嗟に顔を背けた。

 これ以上、彼女を視界に入れてはいけない。

 そう強く確信した。


 顔に手を当てる。

 手のひらにじんわりと、確かな温度を持った熱が伝播してきた。

  

「ありがとう、望月くん」


 ぬいぐるみから顔を覗かせた彼女は、淡く微笑んでいた。

 普段の彼女とは違う、心の底の底から湧き出たとびきりの笑顔で。


 ただでさえ熱い頬が、さらに熱を持つ。


「……喜んでくれたようで、なにより」


 やっとのことで僕が返すと、彼女はもう一度、ぎゅううぅっとぬいぐるみを抱きしめて、


「うん!!」


 おそらく、僕がこの先一生忘れることのできない笑顔を輝かせた。

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