第21話 気まぐれ
彼女が夕食を作りに来るようになってかれこれ一週間ほどが経つ。
遠慮がなくなってきたのかここ数日、彼女は僕が退社するくらいの時間帯にRINEを寄越すようになっていた。
今晩は自信作だの望月くんもびっくりするような料理が出来ただの、メニュー名は明かさないが夕飯の献立に期待を膨らませるような文面が大半である。
『お疲れー!!(ピース)ごめん!!(土下座) 帰りにプレーンヨーグルト買ってきてくれない!?(泣き顔) 切らしちゃってたの忘れてて!! 今日はすっごい神作だから!(お辞儀)』
神作て。
今日も今日とて仕事終わりにスマホを見ると相変わらず感情が爆発気味なRINEが届いていた。
今回のようにおつかいを頼まれるパターンは初だったけど、美味しい夕食にありつくためならそのくらいの労力は厭わない。
今日はいつもより早く仕事を終えたし、むしろちょうど良かった。
プレーンヨーグルトを何に使うのか気になるところではあるが一言『了解』と返し、帰りにスーパーに寄った。
彼女から与えられた任務を忠実にこなしてスーパーを出たところで、そういえば自分もストックしておいた文庫本が切れていたことを思い出す。
読書家にとって次に読む本がないというのは、シュークリーム工場にクリームのストックがないくらいの死活問題だ。
僕はそのままの足で行きつけの書店を訪れることにする。
ヨーグルトの到着は少しばかり送れるが、このくらいは大目に見てもらえるだろう。
その書店は、スーパーを出て家の方向に少し進んだ場所にあって位置的にはちょうど良い。
僕にしては久しぶりに書店の自動ドアをくぐり抜ける。
書店に足を踏み入れた途端に香る紙とインクの匂い。
僕はこの匂いが好きだった。
自分だけの空間に帰ってきたかのような安心を覚えるから。
平日の夕方ということもあって店内の人の姿はまばらだった。
僕は軽い足取りで店内を散策しながら、さて何を読もうかと思案に耽る。
最近はまとまった読書の時間を取るのが困難になっているから、内容が軽めな小説にしようと思った。
行きつけのコーナーにやってくる。
ミステリーやサスペンス系を中心に手に取り、あらすじや冒頭を吟味し5冊ほど厳選して購入を決めた。
レジに向かおうとして、不意に足が止まる。
対面の本棚に『最近恋してる? 号泣必須の名作恋愛特集』と手書きのポップが掲げられた特設コーナーを発見した。
「ふむ」
折り曲げた親指と人差し指を顎に添え、文面を視線でなぞる。
この手の作品は過去に何作か読んだことはあったが、いまいちハマらなかった記憶がある。
ストーリーはともかく、登場人物たちに感情移入ができなかったのだ。
僕は小学校の頃から国語の問題で一番誰も選ばなさそうな解答を迷いなく選択するタイプだった。
Aくんの気持ちを答えなさい的な問題で正解した記憶はほとんどない。
僕にとって、恋愛小説というのは他のどれよりも難解なジャンルなのだ。
……とはいえ、今読むとまた違った感覚を覚えるかもしれない。
ちょっと気にはなったが、今日はもう購入する本を決めてしまった。
そしてなにより、今読む気分かと聞かれるとそうではない。
興味はすぐに手に取った5冊に戻った。
これならば1週間は持つだろうと心を浮つかせながらレジに向かっていると、
「……ん?」
視線を感じる、というのはこういう感覚なのかもしれない。
まるで濡れた雑巾を背中に触れるか触れないかの距離で絶妙に揺らされているような。
思わず振り向く。
しかし、誰も自分に視線を向ける者はいない。
人々の関心は総じて本棚へと向いていた。
この地域で知り合いと言えば騒がしいお隣さんしかいない。
そして件の彼女は今頃家で夕食の仕込み中であるため、必然的に僕を認知している人間はゼロ。
僕でも気づくくらいの視線を浴びせてくる人間なんているはずもないのだ。
気のせいかと、脳に生じた一時のバグとして処理する。
会計を済ませた後マンションに帰り、他の部屋と見分けのつかない自室のドアをくぐり抜ける。
帰宅した旨をRINEで報告してシャワーを浴び、着替えを済ませたところで無遠慮なインターホンが鳴った。
「ただいま!」
「僕の家なんだけど」
「もうセカンドハウスってことでいいんじゃない?」
「たかが一週間訪問した程度で居住権を主張しないで欲しい」
彼女が肩を揺らして笑う。
無言で背を向けさっさと奥に引っ込む僕の後ろから、トトトンと聞き慣れた足音がついてくる。
どうせ満面の笑みを浮かべているんだろうと、視認せずともわかった。
彼女が部屋に入ると、普段はどことなく薄暗いリビングの空気がたちまち澄み渡った。
僕はこれを、空気も人を選ぶ現象と呼ぶことにしている。
「これ」
抑揚のない声でレジ袋を差し出すと、彼女はより一層笑顔を深めた。
「わー、ありがとう!! これが無いとコクがでないんだよねー……って、んんっ?」
彼女が顔を突っ込みそうな勢いで袋を覗き込む。
指定されたブツとは違うものだったのだろうか。
僕の憂慮を吹き飛ばすように、彼女が声を上げる。
「これなあに?」
「見てわからないの」
「シュークリーム?」
「うん、だね」
一個150円のダブルホイップのシュークリームを右手に掲げ、首を傾げる彼女。
「誰の?」
「君の」
言うと、彼女は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
なんだ、その顔。
「うえええええっ!?」
なんだ、その声。
「気まぐれだって」
なぜか羞恥心を司るあたりが妙にむず痒くなって、僕は首の後ろあたりを掻きながら早口で言った。
本当にほんの気まぐれだった。
ヨーグルトコーナーのすぐ隣にデザートが陳列してあったのを見て、手に取っただけ。
普段料理を振舞ってくれている彼女に、時々ご飯に連れて行く以外にも何かしらの対価を支払った方が良いのではないかと、そんなことを思ったような気がする。
僕が心の中で存在するはずのない誰かに言い訳じみた弁解をしていると、彼女がコップから水をこぼすように尋ねてきた。
「私、シュークリームが大好物って、言たっけ?」
「言ってないけど」
「じゃあ」
「この前のビュッフェから取って来たデザートの中で一番最初に食べてたから、好きなのかなって」
1足す1は? と聞かれたので、2と答えた、と同じくらいの気持ちで返答すると、彼女はきょとんとした。
だから、なんだその顔、と思うも束の間だった。
「……ありがとう」
ぽつり。
彼女にしては珍しく、静かな音量で、感謝の言葉が呟かれる。
「ありがとう! すっごく嬉しい!」
今度はいつもの溌剌とした声で。
彼女は、僕だったら100年かかっても足りないような笑顔を浮かべて、シュークリームを大事そうに胸に抱えた。
僕は息を飲んだ。
そして、彼女から目を逸らさねばならなかった。
これ以上、彼女の眩い笑顔を見続けていたら、心臓に供給される血液量がおかしくなりそうだったから。
「……じゃあ僕、本読むから」
危ない。
本当に危ない。
彼女の美貌は、僕の鋼の理性さえも揺らがせる威力がある。
文庫本を手にソファに腰掛け、僕は逃げるように物語の世界へ旅立った。
そんな僕を見届けたあと、彼女はくるりとダンスするみたいに回って、いつもより一層上機嫌な鼻唄を披露しながらキッチンへ消えて行った。
全身を回る血流は、まだ速いままだった。
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