第10話 彼女と猫と、名前と……。

 

 結論を言おう。


 平穏な日常は2日で崩壊した。


 水曜日の19時過ぎ。

 コンビニ袋を提げて公園のそばを歩いていると、見覚えのある人物が視界に入った。

 いや、入ってきたという方が正しいか。

 電灯に照らされキラキラと光沢を放つ長い黒髪で、すぐに気づいた。


 彼女はベンチに座って足をぷらぷらさせていた。

 これまた何処かで見た、毛むくじゃらの物体を両手で持ち上げて。


「にー」

「おー、そっかそっか! そんなに私のことが好きかー」

「にー?」


 猫だった。

 あの日彼女に抱きかかえられていた、例の白猫。

 彼女は楽しそうに子猫と会話をしていた。


 今日は雨も降っていない。

 以前であれば何も見なかったことにして足早に立ち去っていただろう。

 しかし今の僕は、彼女に対し一体何してるんだと思うくらいの関心を抱くことができた。


「あっ」


 彼女が僕に気づいたらしく、おもちゃを見つけた子供のような表情になった。

 僕の中の関心が後悔へと変わる。


「おーいっ、望月くーん!」


 後悔は先に立たなかった。

 聞こえていないふりをするには無理がある声量だったので、僕は大きなため息をついて彼女の元に行くことにした。


「やっ、奇遇だねぇ! 今帰り?」

「そうだけど」


 素直に答えると、彼女は「そっかそっかー」と嬉しそうに笑い、子猫を地面に降ろした。

 子猫が彼女の足に頭を擦り付ける。

 白い生足に猫毛が付着する様子を、彼女は微笑ましげに眺めていた。


「猫、好きなんだ」

「もふもふは愛してやまない主義だよ私」

「飼ったりは?」

「うちのマンション、ペット禁止じゃん」

「ああ、そういえばそんな項目あったね」

「でもいいの! もう名前も付けたし、この子とは友達っ」


 彼女の繊細な指先が、子猫の顎下を優しくなぞる。

 子猫はくすぐったそうに目を細めてごろごろと喉を鳴らしていた。


「一応聞くけど、名前は?」

「マヨネーズ!」

「なに考えてんの?」

「だって白いじゃん」

「白いってだけで調味料の名前にされちゃ堪ったもんじゃないね」

「そんなことないよねー? マヨー?」

「にー?」

「名前変わってるし」

「マヨは愛称! ほら、私が友達にひよりんって呼ばれるのと同じ!」

「いや、そもそも君の名前を知らないんだけど」


 僕の発言に彼女はきょとんとした。

 そして「あっ」と呆けた声を上げてぺしっと綺麗な額を叩いた。


「あちゃー……そういえば言ってなかったね。私としたことがすっかり!」


 個人的には言おうが言うまいがどっちでも良かったが、彼女はそうではないらしい。

 満面の笑顔を浮かべて、彼女は自分の名を口にした。


「私の名前は、日和ひより!」

「小春の?」

「そうそれ! 改めてよろしくね、望月くん!」


 日和。

 なるほど、太陽のように活発な彼女にピッタリな名前だと思った。

 僕は何度か、彼女の名前を英単語を覚えるかのように胸の中で復唱した。

 こうしておけば、多分忘れない。


 僕が彼女の名をインプットしてから5秒経ち、10秒が経った。

 依然としてわくわくと期待に満ちた目線を向けてくる彼女。


「ああ、僕も名前を言う流れ?」

「ええっ、教えてくれないの!?」


 私は言ったのにーっと頬を膨らませる彼女。


「いや、そんなことはないけど」


 自分の名前も明かすことになるとは思っていなかっただけだ。

 最近、下の名前で呼ばれる機会がめっきり減ったものだから、自分の中で埃を被りつつあったその名を掘り起こし、口にする。


おさむ


 彼女がおおっと声をあげた。


「良い名前! 確か昔、同じ名前の小説家いたよね?」

「漢字も同じだよ。父親がその作家のファンで、そこから取ったらしい」

「本好きも名前の影響?」

「間接的には影響受けてるかも」

「なるほど! それにしても、君らしい名前だね!」

「僕が人間失格だから?」

「変な自虐しないのー! うまいけど」


 彼女はまた笑った。


 その時、今まで彼女の足に身を擦り寄せていた子猫が何かに気づいたように草むらへ頭を向けた。

 ひと声鳴いた後、てちてちと草むらの方へ向かう子猫。


 すると、がさがさと草が揺れ中からひょっこりと白い毛並みの猫が顔を出した。

 白猫は子猫の何倍ものサイズ感があった。


「親猫?」

「みたい! お迎えかな?」


 白猫と鼻をつつき合わせたり、くんくんと匂いを嗅ぎあったりする子猫。

 スキンシップを一通り終えた後、子猫は僕らの方に振り向いて一声鳴いた後、親猫とともに草むらに消えていった。


「遊んでくれてありがとうだって!」

「動物の心も読めるの?」

「読めないよ?」

「じゃあ」

「でも、マヨはありがとうって言ったと思うんだー」

「まず日本語を理解していないと思うんだけど」

「冷めたこと言わないのっ。そう思う方が嬉しいし、楽しいでしょー?」

「……ああ、なるほど」


 これが彼女の言うフィーリングというやつだろうか。

 だとしたら僕にはハードルが高過ぎだ。

 人間の考えていることすらわからない僕が、言語を持たない毛むくじゃらの気持ちを想像するのは至難の技である。


「よっ、と」


 彼女が軽くジャンプするようにベンチから立ち上がる。

 脹脛に付いた猫毛を払う彼女に、僕は尋ねた。


「どうしてここに?」

「買い物帰りっ。何処かの誰かさんと違って、私はちゃんと自炊をするのだ」


 彼女は食材の入ったスーパーの袋を掲げて得意げに胸を張った。


「それ、キッチンを埃まみれにしている僕に対する嫌味?」

「あんなインスタントの残骸を見せられちゃねぇー。この三日、ちゃんとバランスよく食べてた?」

「……それなりに」


 カップ麺の入ったコンビニ袋をさっと隠したが遅かった。


「あーっ!! またそんな身体に悪いモノ買って!」

 

 悪事を発見した先生のようなテンションで声を張り上げる彼女。

 僕はバツの悪そうに目を逸らす。


「いや、今日買ったのはモヤシが入ってるやつだから、野菜も多少は」

「その言い訳ホント不健康真っしぐら! このままだと成人病一直線!」

「大げさな。というか、僕がなにを食べようと、君には関係ないでしょ」

「そうだっ」


 僕の意見なんて聞いちゃいない彼女がぱんっと手を叩く。

 何か良からぬ事を思いついた、例の笑顔で。

 嫌な予感がした時にはもう、手遅れだった。


「今晩、私がご飯を作ってあげる!」

「は?」


 あまりにも予想外な彼女の発言に、思わず素っ頓狂な声をあげる。

 彼女が夕食を作るという部分は理解できた。

 誰に対して? という部分に理解が追いついていない、いや、追いつきたくない。

 しっかりと聞こえてしまったが、まだ脳が事実を否定しようとしている。


「誰にご飯を作るって」


 どうか聞き間違いであってくれと願う僕を嘲笑うかのように、彼女はふふーんと気分良く笑って僕を指差した。


「なんでそんな流れになるの」 

「この前ご飯行った時の事、思えてる?」

「鉄板焼きのお代のお返し? でもあれは看病してくれた借りで」

「ちーがーうー! 私が望月くんにご飯を作ってあげて、望月くんが私に美味しい店を教えてくれたらウィンウィンだねって言ったやつ!」


 こめかみを押さえて記憶を掘り返す。

 ああ、確かに彼女はそんなことを言った。


「言ってたけど、それを受け入れたつもりはない」

「じゃあ、改めて考えてみて、どう?」

「どうって……」


 言われた通りに考えてみる。

 彼女の料理の腕は先日の一件でかなりのものだと証明された。

 そして僕も、上京してきてから巡ってきたお店にそれなりの自信があり、実際に連れて行った鉄板焼き屋は彼女に大好評だった。


 幸福度の最大化を目的とする功利主義的な観点で考えると、僕は美味しい手料理を食べられるし、彼女の方も都内の美味しい飲食店の味を堪能できる……って、なに納得しかけてるんだ。


「ダメでしょ、普通に考えて」

「どうして?」

「いや、だって、まだ知り合って間もない男女が部屋に二人きりってのは」

「今更じゃない? 私、ほぼ初対面で望月くんの家に上がったし」

「いや、あれは僕が実質ダウンしてたから」

「ほほぅ……じゃあ、今だと変な気を起こしちゃうとか?」

「ない」


 にやにやと笑う彼女の意地の悪い質問に対し、僕は無表情で即答した。

 彼女は手を叩いて笑った。


「うん! 私も無いと思う!」

「なんで君も同調するのさ」


 んー、と人差し指を顎に添え、彼女は難問を解いた小学生のようにパッと表情を明るくした。


「だって望月くん、感情よりも理性が強いタイプでしょ? しかも合理的ですごく冷静。そんな人が、私なんかに欲情して人生を棒に振るとは思えないの」


 彼女は時たま核心をつくような事を言う。

 その推測はおおよそ当たっている。


 僕は基本的に理性ベースで行動していて、感情で身体が動くことは滅多にない。

 彼女の言うように、一時の気の迷いで異性に手を出すようなことは万が一にもありえないだろう。


 だが一点だけ、彼女は誤解をしている。

 「私なんかに」と彼女は言ったが、それは大きな誤りだ。


 何度も繰り返し言うが、彼女の容姿レベルは一般基準のラインを遥かに凌駕している。

 それも、学年で一番可愛いとかそういう次元ではなく、そこらのアイドルが普通に顔負けするレベルだ。


 彼女に対する恋愛的な感情は皆無だけど、僕の中にも本能というものが僅かにあるわけで。

 部屋に2人きりとなると、どうしても彼女を異性として認識してしまい、本能を抑えるため精神をすり減らす事になるだろう。

 結果として、僕は多大なる心労を被る事になるのだ。


 そんな未来は想像できている。

 ただそれを彼女に説明する事は、僕にとってあまりにも高いハードルだった。


「で、どうするっ?」


 沈黙を肯定と受け取った彼女が後ろに手を組んで、覗き込むように僕を見上げてくる。


 ここで彼女に徹底抗戦を臨み、何としてでも断る方向へ持って行く体力は……ない。


 半ば考える事を放棄した僕は、全面的に提案を受け入れたわけではないという小さな反抗も含んだ答えを口にした。

 

「……今晩だけなら」


 彼女の整った顔立ちが、綺麗な服に着替えていくように晴れ渡っていく。

 いつもの笑顔に比べて心の底から湧き上がったそれは、僕の心臓を大きく跳ねさせるには十分な破壊力を持っていた。


 少しだけ、彼女の提案を了承した事を後悔した。


「そうこなくっちゃ! 今日は張り切るぞー!」


 意気揚々と拳を天に伸ばした後、彼女がるんるんと歩き出す。


 一緒に魂も漏れてしまいそうなほどの大きなため息をついて、僕は彼女の後を足取り重く付いていった。

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