第16話 夫の逃亡
気が付けば、結婚してから三十年近くが過ぎ去っていた。
結局三人目の王子を産むことはできなかったけれど、レジェスと一緒に懸命に育てた子供たちは無事に成人し、立派に公務を行っている。
第二王妃は一人の息子と娘を産んだ後、レアンドロから与えられた屋敷に移って、最低限の公務にしか出てこない。未来の国母となるにも関わらず権力を求めることもなく、控えめ過ぎると思いつつも、忠実な侍女に支えられ幸せそうに微笑む姿は羨ましいとさえ思える。
第一王子のマウリシオと第二王子はそれぞれ公爵家の娘と婚姻し、第一王女のエルミニアは代替わりした辺境伯へ嫁いだ。辺境伯と婚姻関係を結び、その軍事力を取り込む為だ。政略結婚ではあったけれど二人は仲睦まじく過ごしている。
第二王女は公爵家の一つへ嫁いだ。幼い頃に結婚の約束まで交わしていたと明かされたのは、結婚式の当日だ。四人が幸せな結婚生活を送っていると聞く度に私は安堵する。
一方の私はといえば相変わらず、日中の公務はレアンドロと、夜はレジェスと過ごしている。異常なことなのに違和感は無くなってしまった。
レアンドロが王になって、この国は本当に栄えた。三十年で農地の実りは倍になり、疫病も飢饉も起きず人口も増えた。
王自身が身を粉にして働き、人々の不満や意見を吸い上げ、その改善案を貴族や役人だけでなく現場で働く者たちに求めてきた。手本である王を見習い、国民も貴族も一丸となって豊かになろうとしてきた結果だ。
王は立派で素晴らしい人だと誰もが口にする。後に残される歴史書にもレアンドロの名は燦然と輝くものになるだろう。
子を産み、次代を育ててきた王妃である私の名は、おそらく残らない。それは仕方のないことだとは思う。王妃というものは王を支える立場だ。
一つの公務が終わり、次の公務までの時間を控室で過ごしていた。レアンドロの為に疲労に効く花茶を淹れ、遠くヴァランデールから取り寄せた菓子を出す。
常に冷たい態度ではあっても、このお茶が疲労に良く効くとわかってからは、飲んでくれるようになった。
扉が叩かれるとレアンドロが笑顔を作る。入ってきたのは従僕で、至急と赤く書かれた手紙をレアンドロに手渡して退出していった。
「何だ?」
笑顔から一転して眉を寄せ、不機嫌さを隠そうともしない表情で手紙の差出人を確認していたレアンドロの緑柱石の目が期待に満ちる。
びりびりと音を立てて封筒を破き、中身を広げて目を通す。その瞳が歓喜に染まるのはすぐだった。
「やっと死んだか!」
喜びに興奮して立ち上がる姿に戸惑う。人が死んで喜ぶとはどういうことなのか。
「どなたが亡くなったのですか?」
「イネスの夫を名乗っていた魔性ケイラだ! 私の呪いがやっと効いた!」
魔性とは悪魔とも呼ばれる存在。高位の精霊すら敵わない怖ろしい魔力を持つという記憶がすぐに思い出された。
結婚した後、魔女を迎えに行ったレアンドロが戻って来た理由がやっと理解できた。魔女の夫になったのが魔性なら人が敵うはずがない。
正妃の指輪に掛けられた〝黒猫の呪い〟は解いたのに、私が気が付かなかっただけで他の呪いも掛けていたのだろうか。
狂ったように笑いながら部屋から出て行くレアンドロを、私は黙って見ていることしかできなかった。
◆
その日からレアンドロは執務室へと籠るようになった。食事も睡眠も執務室の中。何日も顔を見ない日が続いた。執務室へ宰相や大臣達が頻繁に出入りしていても、私の入室は許されない。
王の公務も第一王子のマウリシオやレジェスが代理として執り行われる。視察旅行に出掛ける訳でもなく執務室に籠る王。何が起きたのかと貴族の間に不安と噂が広がり、私は貴婦人たちを通じて貴族の動揺を抑えた。
「お話というのは、何かしら」
久しぶりに私の部屋に訪れたレアンドロに花茶を淹れる。美しい青い色が白い陶器のカップに広がっていく。
「どうぞ」
疲労に効く花茶を勧めてもレアンドロは上の空だ。私も椅子に座って、レアンドロの口が開くのを待つ。
「……今更取り繕ってもしかたないな。正直に話そう。私は譲位してイネスと暮らす」
「え?」
唐突な言葉が頭に入ってこなかった。というよりも頭が理解することを拒んだ。
「王位の譲渡の準備は終わった。来月、マウリシオの戴冠式を行う」
「戴冠……式?」
譲位は通常、王が健康を害した時や老齢で政務に支障がでると判断された時だけだ。レアンドロは健康だし、まだ老齢という年ではない。
「幸いにもマウリシオは十分王の資質を持っている」
当たり前だ。マウリシオには幼い頃から王になる為の教育を施してきた。レアンドロが何を言っているのか、理解したくない。認めたくない。
「まだわからないのか? 私は王城から出て〝黒い森〟でイネスと暮らす。止めても無駄だ」
そう言ってレアンドロは出て行ってしまった。残されたカップのお茶がゆっくりと冷めていく。
最初から最後まで身勝手な人だ。すべてが自分を中心に動いていると思い込んでいるのだろう。確かにレアンドロは王だった。
三十年分の静かな怒りと悲しみが心に渦巻いた。私は王妃という立場を捨てられないのに、レアンドロは王の立場を捨てようとしている。
「……逃げるなんて、許さない」
私は〝白猫の呪い〟をレアンドロに掛けると心に決めた。
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