かもめの手紙

文文文士

かもめの手紙

 手紙が届いた、ことにした。

 私はそろそろ頃合いだろうとおもった。

 寒空からは、結晶になれずこぼれ落ちた弱い雨が降っていたから、私はその手紙をわざと屋根の下から出して濡らした。

 毎朝、郵便受けへ新聞を取りにゆくのは私の役割である。そしてこれが私の一日の中で最初の仕事であり、最も重要なのであった。


 まずは私の境遇についてご説明するが、私はとある家に居候する天涯孤独の青年である。戦時中、亡き父に獣医の道を歩むよう言いつけられた私は最前線に送られることのない腰抜けだったが、幸か不幸か、そういうわけでまだ生きており、これは少なからず日々の生活に役立っている。

 やがて大東亜戦争は終結したが、その傷跡は深く、身寄りのなくなった私はこのように他所様の家へ厄介になる他なかったのだ。

 さきに断っておくけれど、私の奉公するこの家は取り立てて特別なところは何もない。未亡人と、そのお嬢さんとがいるだけだ。

 もとより男手がなくなった女二人の家だったから私を迎え入れるのは満更でもなかったらしい、二人は私によくしてくれている。もっとも、とあるわけがあってお嬢さんは滅多と私に口を利いてくれず、名さえ呼ぶことはない。さえずる声で「もし」とか「ちょっと」とか、そういう具合だった。


 さて。

 私は茶封筒と新聞とを持って、まずは居間へ向かった。朝飯はまだもう少しできないと見える。取り敢えず奥さんに新聞の一面から読み取った世間話を二、三すると、封筒だけを片手に携え、あまり大きな声では言えぬことだが、お嬢さんの自室へ足を向けた。


 私は厄介になるとき、奥さんからこの大仕事を密かにおおせつかった。余計なことは一切言わぬ約束であった。それがいつしか私の胸の中で炎を生み、激しく心を焼こうとも、徹して仕事をやっつけるしかなかった。

 お嬢さんは、世間的に見ればとりわけ別嬪ではないかもしれない。だが「別嬪ではない」と断言することができない私の心を、みなさんはきっと察してくださることと思う。


 私は跳ね回る胸の内を抑え、家の奥まったところにあるお嬢さんの部屋の前に立った。

「お嬢さん、お手紙ですよ」

努めて平静に呼びかける。

「こちらへください」

寒さにやられた小鳥のようなお嬢さんの声が、ふすまの向こうからかえってきた。

 私はもう何も言わなかった。やけに優しい筆致で書かれた宛名のとおりに、ふすまの隙間から手紙を届けたのである。

 差出人は、私の知らない男だった。

「ありがとうございます」

「いいえ」

私は逃げた。

 喉をしきりに言葉がせっついていたのはよくよく自覚していたから、余計なことを言う前に立ち去る判断をしたのである。それから私は奥さんと、遅れてきたお嬢さんと顔を付き合わせながら、なんとも言えない鉛のような飯を食った。手紙を届ける日は、さいきんいつも味がこうなのだった。


 夕刻になっても雨は続いていた。

 ずいぶん日が落ちるのが早くなって、縁側のカーテンを引くという私の仕事も忙しい。ちょっとばかり油断をしていたら、夜の帳がさきに降りていたなどということもしばしばだ。だがすこしは私も学習しているらしく、ここ数日、ヘマをやらかすことはなかった。私は余裕を持った足取りで縁側へ向かった。

 すると、どうしたものだろうか、私は立ち止まり、それより先へは進めなくなった。


 お嬢さんが縁側に座っていた。

 かすかに、声を発しておられる。

 私は全神経を聴覚に集中させた。

「うみゆかば、みづくかばね

 やまゆかば、くさむすかばね

 おおきみの、へにこそしなめ

 かえりみはせじ」

軍歌を、お嬢さんが歌っていた。本来は勇ましい曲調で高らかに歌い上げられる曲なのだが、お嬢さんの声はしっとりとして、ここちよく耳を揉む。悲しげで儚いものであった。かたわらには今朝方に私がこの手で届けた手紙が、封も切らずに投げ捨てられている。

 ひとしきり歌い終えると、お嬢さんはそのまま身じろぎひとつせずに沈黙した。私とてそれは同じことだった。しと、しと、雨の音だけが空白を埋める。しばらくすると、お嬢さんは同じ歌を、同じ調子で歌い始めた。


 美しいと感じたのはこれが初めてでした。

 愛しいと感じたのはこれが初めてでした。


「お嬢さん」

とうとう、私は声をかけてしまいました。

 しばらく、返事はありませんでした。

 お嬢さんはやがて、動転した様子もなく、また私を振り向くこともなく、人差し指で自分のとなりの床を、とん、とん、と、二回叩きました。そして私はお嬢さんに示されたとおり横までやってきて、それがお嬢さんの精一杯だったのだと知ったのです。

 お嬢さんは泣いていました。

 私は何も言わないままで、ただとなりに座っていることしかできませんでした。お嬢さんは、泣いて、泣いて、泣いて、ずっとずっと、ただ泣いていました。


 どれだけ経ったかわかりません。

 夜の色がだいぶ濃くなってからでした。ようやくお嬢さんが言葉をくれました。

「かもめさん」

「かもめ?」

お嬢さんは手紙を膝の上まで持ってきて、涙を拭かずに私を向きました。

「フィリピン沖か、

 そのあたりまで、お手紙を

 届けてくださっているのでしょう?」

それで私はようやくお嬢さんの言っていることを了解したのです。初めて明確に呼んでもらえた喜びの中、どう答えるべきか考えて、考えて、考え抜いたすえに、胸が貫かれるように痛むけれど私はうなずきました。

「ええ、そうです」

私がそう答えると、お嬢さんは両手で顔をおおってワッと泣き出しました。

「わたしはずるい女です」

お嬢さんは涙声で、ひどく自身を責めていました。しなやかな指の隙間から伝い落ちたお嬢さんのしずくが、手紙に跡を作りました。

 代わりに拭ってあげられたらどれだけ良いだろうと、私は自分に爪が食い込むほど手を握り締めました。お嬢さんの涙をぬぐうことができる人は、いまやこの世にいないのです。歌のとおり海底に沈んで、もはや帰ることはありません。文字でいくら幻想を作り上げても、お嬢さんのやわらかな頰に触れられない私は自身の創り出したそれにも劣る、道端の小石同然だったのです。


 雨雲に隠れた、きれいな月。

 きっと私を笑うことでしょう。


「ニャア」

私は思い切りおかしな声を出してやりました。唐突な私の奇行にお嬢さんは泣くのを一瞬わすれたようで、濡れた目をぱちくりとさせて私を見やります。私はお嬢さんに顔を合わせて、もう一度「ニャア」と、ひょうきんにやりました。

「………うふ、なんですか、それ」

お嬢さんは頰に涙を伝せながらも、薄く笑んでくれました。相反する感情の調和した花のかんばせ、薄く朱を引いたくちびる。

「かもめです」

「うみねこではありませんか?」

「むう」

私は、はにかんで見せました。普段から人一倍勉学に励んでいるという自負がある私は、ことに知識や学問において同輩に遅れをとることを病的に嫌っていました。笑われたり茶化されたりなどしようものなら、すぐさまより高尚な領域へ話をもちこみ、黙らせてやるという意地の悪いことをよくやるのです。

 そんな私ですが、このときばかりは花の笑みを浮かべるお嬢さんにやられることを望んだのでした。

「お嬢さん、ここは冷えますし、

 しばらくすれば夕飯です。

 もう居間へ引き上げませんか?」

すっくと立ち上がった私を見上げて、お嬢さんは一言、了承の返事をしました。そしておもむろに、封筒ごと中の手紙を真っ二つに裂いてしまったのです。これには私も大いに驚き、その場に立ち尽くすだけのカカシと化してしまいました。

「あの、かもめさん」

呼びかけにようやく我を取り戻して、見れば嬢さんは座ったままで私をじっと見上げております。まだ眼差しはしっとりと湿っていて、どこか色がありました。

「脚が痺れてしまいました、お手を…」

こちらへ差し出される、白く、しなやかなお嬢さんの手。果たして触れてよいものか、私が修めてきたどんな学問にも、直面した問題に対する有益な情報はありませんでした。

 私はおそるおそる、手を取りました。

 こんなに滑らかでやさしい温度をしたものがあるのかと私はすっかり心を乱してしまい、もはやまともにお嬢さんの顔を見られなくなってしまいました。


 その日の夕飯は、うまいのに喉をうまく通らない始末でした。一日を終えて布団に潜り込んでも、まぶたの内側にお嬢さんの濡れた笑顔が絶えず浮かんでしまって、眠りにつくのにさえひどく苦労をしました。


 翌朝。

 雨はあがっておりました。

 しかしそれでも、きのうより寒い日でした。この温度の中にあると、対照的なあの感触とぬくもりをゆびさきが勝手に思い出しまってどうにもいけません。

 私は白い息を吐いて、それが眼前を漂い、やがて消えていくのを眺めるという拙い遊びをやりながら、いつものように新聞を取りに表へのこのこと出てきました。郵便受けから文字の束を引っ掴んで、しかし私は紛れ込んでいた物を認めるやいなや、それっきりその場を動けなくなったのでした。

 冒頭でもお話ししたとおり、私は肉親をすべて戦争で亡くしました。友人もみな空や海や山や、どこかしらへと還ってしまいました。ですから、この白い封筒に記されている宛名へ便りを出す者はいないはずなのです。


 ふちに手描きで、青いあじさい。


 宛名は、私のものでした。

 書いてあるのはそれだけで、差出人の名も、郵便番号も、住所も明記してありません。私と、私の居場所を知る誰かが、直接ここへ届けに来たのは明らかでした。

 私は辛抱できず、その場で封を切りました。手が震えていたのは、きっと寒さにかじかんだからではないのでしょう。


 便箋が一枚。

 中央に、やはり手描きの青いあじさい。

「拝啓、かもめさん。

 あなたにぴったりの花を贈ります。

 ありがとう。かしこ」

やわらかな筆致で、簡潔に一文だけ。

 私には、差出人の詳しい心うちまでは推察できませんでしたが、しかしこれを境にしてぐるりと航路が変わったのを感じました。はしるはしる心に突き動かされて、いただいた花について真剣に勉強し始めたのでした。


 やがて。

 ようやく理解した私は、私の心を代弁してくれる声を持つ花を必死になって探しました。それにはだいぶ時間がかかってしまった上に、気取られないようにこっそりとやったものですから不審がられたかもしれません。また、せっかく目当てを探し当てても絵を描くすべをひとつも知りませんでしたから、これもかなりの数を失敗してしまいました。


「お嬢さん、お手紙ですよ」

私は差出人の記されていない封筒を、ふすまの隙間から滑り込ませたのでした。


 へたくそな、風船葛ふうせんかずらの描かれた茶封筒。

 無愛想で、あいさつのない乱暴な手紙。


落葉らくようの街、落陽らくようが朱を引く地平線、

 温度をなくしゆく暗闇の常世で、ぼくは」





 ーーー幕ーーー

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かもめの手紙 文文文士 @sanmonbunshi

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