第37話

 北町奉行の小田切土佐守直年は面目を潰された。

 与力同心の惰弱さは許し難いモノだった。

 小田切土佐守と幕閣の怒りは激しかった。

 だが坪内格之助直之の御陰で、町奉行所と与力の全体で言えば、最低限の面目だけは保たれた。


 瓦版も北町奉行所と小田切土佐守を叩くと同時に、南町奉行所と坪内一族を賞賛し持ち上げていた。

 幕閣と小田切土佐守はその状況を利用する事にした。

 失態を犯した与力に切腹を命じて家も取り潰し、その代わりの与力に坪内格之助直之を取り立てた。

 百姓に斬り殺される失態を犯した同心二人の家を取り潰し、百姓に一番槍をつけた溝口伝兵衛と、百姓を討ち取った池波寅蔵を同心に取り立てた。


 七右衛門の思い通りになった。 

 坪内格之助は吟味方与力に抜擢されたが、実際に仕事をするのは溝口伝兵衛と池波寅蔵だったし、色々と調べるのは七右衛門の手先だった。

 格之助が処分された与力の代わりに吟味方与力本役に大抜擢されると同時に、三百諸侯と旗本、大商人と町名主が揃って挨拶にやってきた。

 七右衛門と同じように年間五千両の付け届けが約束された。


 だがこれは格之助の手元には残らなかった。

 全ては七右衛門の御陰であり、手先が活躍してくれたからこそだ。

 だから半額の二千五百両は七右衛門に届けられた。

 二千両は若党中間を含めた六百人を超える手先に分け与えられた。

 均等に分ければ一人当たり三両二分程度にしかならなかったが、専業で手先を務める者と、振売と兼業する者で渡される金額が違った。


 格之助の手元には五百両しか残らなかったが、実はそれで十分だった。

 元々与力の俸禄は二百両前後でしかなく、それで家族と家臣が生活していたのだ。

 それが家臣の分は二千両から支給されるようになり、元々の二百両と余禄の五百両で家族が暮らせるようになったのだ。

 与力株を売る程困窮していた坪内家の跡取りだった格之介にとっては、奇跡的なできごとなのだ。


 だが得をしたのは七右衛門と格之助だけではない。

 小田切土佐守と幕閣も十分利を得ていた。

 小田切土佐守から見れば、事件の失態が直ぐに忘れられるくらい、格之助が次々と盗賊を捕縛する活躍をしてくれた。

 幕閣も江戸庶民から抜擢を賞賛された。

 何よりも北町の月番でも安心して眠る事ができるようになった、江戸庶民が一番利益を得たと言えなくもない。


 恨みを抱いているのは、付け届けが南北坪内家に集まり、収入が激減した両町奉行所の与力同心だった。

 彼らの怨念は、後々陰湿な形で両坪内家に影響を及ぼすことになった。

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