被食願望

成上

第1話 羨望

 ──蝉の音。


 耳をつんざくほど五月蝿いそれは、こちらを焼き尽くさんとする太陽との相性が、最高にして最悪だ。

 あ゛ー、と唸りをあげながら歩く少年の歩みは、ひどく遅い。その背中にある重そうなリュックが、余計にそれを助長させる。どうやら、この見るからに「いい子」な彼は、これから塾へ向かうところのようだ。夏休み初日から、誰と遊ぶのでもなく塾へ。この事実は少年の感じる抑圧の象徴だが、まあここでは深く追求しないでおこう。

 ふと、少年が歩みを止めた。視線の先にあるのは、たった一つの蝉の死骸。なんの変哲も無いそれに足を止める彼を、訝しむ人もいるだろう。「なぜ、立ち止まるのか。ただの死骸ではないか」と。だが彼にとってそれは、「塾に遅れたら親に怒られるかも」という無意識の警告を、容易く無視させるものであった。そして付け加えるならば、重要なのは死骸なのではなく、それに寄ってくるものだ。

 ──いつからだろうか。地面で生き絶える小さな虫に、羨望の念を抱くようになったのは。

 先ほどまでの五月蝿い蝉の音は遠くなり、代わりに聞こえるのは、「黒い軍隊」の幻聴あしおと

 少年がその「羨望の念」を正しく理解したのは、青年になってからであった。

 黒い軍隊──アリは蝉の死骸を覆い尽くし、腕を、脚を、翅を喰い千切る。

 それをされているのは、蝉の死骸のはずであった。だが少年は自らの腕を、脚を、身体を這いまわられ、食い千切られたような思いを抱いた。

 少年の──浅く浅ましい息が音を立てる。憧れているのだ。ひっくり返って腹を見せている蝉に。羨んでいるのだ。食べられるということを。

 アリは少年の視線を捕らえて離さない。少年はゴクリと唾を飲んだ。それが、喉が渇いてのことなのか、はたまたそれ以外のことなのか。少年は分からなかった。彼が抱いた憧憬や羨望の正体も、それらを抱いているということすら、知らないのだ。

 ──ポタリ、と顎を伝って汗が落ちた。それと同時に少年はハッと意識を引き戻される。やばい、と咄嗟に、ませて乱暴な口調になりだした同級生と同じ言葉が出る。急いで時計を確認すれば、一時間ほどに感じられたこの時は、十分も経っていないようであった。もう充分に楽しんだ、と自分に言い聞かせ、少年は引かれる後ろ髪を振り払って歩き出した。

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