君に頼られる喜び

 楽しい時間はあっという間。よくそう言う言葉を聞く。反対に、退屈な時間は過ぎるのが遅いと。


 そこで葵はふと思う。楽しいの対義語とは退屈、なのだろうか。

 楽しいの対義語にはつまらないなどがある。つまらないと退屈、確かに遠からずと言ったところだろう。

 ほかにも、楽しいの対義語には苦しいというものがある。楽しいという言葉の意味としては生き生きとした、といった意味が含まれている。苦しいやつまらないには不快感などが入っていて、確かに生き生きとは反対かもしれない。


 楽しくて生き生きとしていると過ぎる時間が早いと仮定すると、苦しく不快感を覚えている時間は過ぎるのが遅いのだろうか。


 身近な例を出してみよう。例えば足がつった場合。足がつった痛みとはそれなりにあり、ふくらはぎがつったときなどはかなりのものだろう。足がつることはよくあることなので、人は何度も経験していくうちに自分流の対処法と言ったものを編み出していく。


 ただ、初めてにつったときにはそれがない。突如として足がつり、対処法もわからぬままに痛みが去るのを待つ。時間にしては一分もたってなかったとしても、精神的には何分もたったように感じることはあるかもしれない。


 ただそれはおかしいと葵は思う。

 楽しくなく、苦しくて、不快感さえ覚えているのにもかかわらず時間が過ぎるのが嫌に早い。


 それが今だった。

 なぜ、締め切りが近いというだけでこんなにも時間が過ぎるのが早いのだろうか。

 葵は生徒会室でただ淡々と、自身に振り分けられた仕事をこなしていく。それはなかなかに楽しいものだった。朝愛莉に生徒会の仕事について詳しく聴いていたということもあり、葵の作業効率は初めて生徒会の仕事をした人間のそれではなかった。


 それが一時間ほど過ぎた頃だろうか。

 葵は、確かに苦しさを覚えていた。

 葵は凄まじい速度で生徒会の仕事を片付けていった。愛莉は今まで一人で生徒会を回してきた生徒会長の貫録を見せ、いくつもの仕事を同時進行で片づけていた。

 にもかかわらず、生徒会の仕事は終わる気配がみじんもなかった。ふたりともすさまじい速度で仕事をしているものの、手を付けている仕事は明日が提出期限の仕事のみ。

 それすら半分も終わっていない。


 愛莉が言うには今週の金曜日までに片付けなければいけない生徒会の仕事を十とした場合、水曜日、つまり明日までが提出期限のものは、わずか一らしい。

 その一すら半分も終わっていないのだ。

 いくらすらすらと目の前の仕事を片付けるのが一時的に快感になるとしても、それがずっと続くとしたらそれはただ単に地獄だろう。


 葵が仕事を始めて二時間ほど経った頃には、葵は確かに苦しさを感じていた。にもかかわらず、時計の針が進む速度はやけに早い。

 葵は今すぐ目の前の書類の山を崩したい気持ちに駆られる。今も葵の目をブルーライトで疲れさせているパソコンを閉じて、ゆっくり睡眠でもとりたくなる。


 自分でもなぜこんなに頑張っているのか分からなかった。普通に考えたら、投げ出してもおかしくない仕事量だ。

 提出期限はまじかで、凄まじい仕事量。人手は不足している。

 ただそんな状況下でも、葵の視界の端に入る幼馴染は必死に仕事をこなしていた。

 その姿を見ると、幼なじみとして、そして男として投げ出すことは出来なかった。

 それに葵には、もう何があっても仕事を投げ出すことが出来ない絶対的な理由があった。


 (もう、報酬もらちゃったしな)


 葵は昨日愛莉に作ってもらったオムライスを思い出す。美味しかった。久しぶりの愛莉の手作りご飯ということもあってか、いつもよりもおいしく感じた。そんな報酬を前払いで貰ってしまっているのだ、葵は。


 そのため葵にはもう、頑張る以外の道はなかった。

 道はなかったはずなのだが――


「葵くん、もう帰ろっか」


 愛莉がそう提案してくれる。


 時間とは無情なもので、葵の気持ちがどんなに頑張りたいと思っていても、あっという間に過ぎてしまう。窓から見える外は十一月で日の入り時刻が早くなったということを鑑みても暗く、帰るべき時間であることを示していた。

 学園内からもう既に人の気配はほとんど感じられず、生徒はほぼ全員帰宅を済ませているようだ。


 仕事の進み具合としては、明日が提出期限のものがギリギリ終わったと言ったところだろうか。

 葵は今日生徒会に来たばかりの新参者なので詳しいことは何も言えない。ただそんな葵ですら、このままいくと終わらないということだけは分かった。


「なあ愛莉、正直に答えてほしいんだが……このペースで終わるのか?」


 葵はそう問わずにはいられなかった。

 愛莉の表情は葵の思っていたものよりも明るく、葵は僅かに期待を寄せる。

 ただ、現実がそう甘いわけもなく。


「終わらない……かな」


 愛莉は小さく、ただはっきりとその事実を葵に教えてくれた。

 もしかしたら愛莉は薄々間に合わないのではないかと思っていたのではないだろうか。いや、きっとそうだろう。

 幼馴染だから葵には分るが、愛莉は優秀だ。仕事量をみてどれぐらいで終わるかの把握が出来ないほどの人間じゃない。恐らく、終わらないだろうと分かっていたのだろう。

 それでもあきらめることはせずに最後のあがきで葵に助けを求めたが、葵一人が加わったところでどうにかなる問題ではなかった。


 ならばもっとたくさんの人を集め、大人数でかかればなんとかなるのではと思うのだが、そうもいかないのだろう。

 急遽集めたメンバーだと統率が取れない。例え仕事を皆に教えるとしても、一人ひとり懇切丁寧に教えているような時間はないため、全員同時に授業形式で教えることになるだろう。そうするとどうしても個人個人の能力にばらつきが出てしまう。能力のばらつきに対し、対策を打たなかったら仕事の出来にばらつきが出る。となると皆がやった仕事が本当に正しくできているかチェックする人間が必要になってくる。正しくできているのかのチェック作業は、恐らく愛莉にしかできないだろう。ただ、愛莉が全部チェックしているような時間はない。

 さらに根本的な問題になるが、そもそも生徒会で扱う仕事は重要なものだ。文化祭の出し物の判断などもある。それゆえに外部の者は本来仕事にかかわらせるわけにはいかない。

 葵がこうして生徒会入りを果たしているのは、生徒会の人手不足と現生徒会長であり先生からの信頼も厚い愛莉からの推薦、さらには葵が入試で一位を取り生徒代表挨拶を務めたような秀才であるという三つの要素が重なった結果の例外だ。普通はあり得ないのである。


 葵がどうにかならないかと必死に頭を巡らせているのが分かったのだろう、愛莉は少し困ったような表情を浮かべている。


「別にいいんだよ?終わらないだろうなーっていうのは分かってたし。先生たちにも終わらないかもしれませんって言ってるし」


 愛莉は小さく、いつも終わらないかもしれませんって言いつつちゃんと終わらせてるからか、先生たちは終わるって思ってるらしいけどね。と言って苦笑いを浮かべる。


「もしも、もしもだけど、終わらなかったらどうなるんだ?」


「運がよかったら、私がちょっと怒られただけで終わる」


「……じゃあ、運が悪かったら?」


「これは本当に、ほんとーーーにどうしようもなく運が悪かった場合だけど、文化祭のほうに影響が出ちゃうかも。提出期限迫ってるののほとんどは文化祭関連だし」


 それは葵が確かに感じていたことだった。

 葵が今日やった仕事のほとんどは文化祭関連のことで、もしも提出期限を守れなかった場合、愛莉が言っていたようなことになるのではとどこかで思っていた。ただそれを実際に愛莉の口から聞くと、驚いてしまう。


「あ、もしそうなっても葵くんは責任とか感じなくていいからね?終わらないだろうってわかっていながらも、すぐに葵くんに頼ることが出来なかった私の責任だから」


 正直なことを言うと、葵からしたら文化祭なんて興味がなかった。文化祭が愛莉を忙しくさせているならばなくてもいいとすら思う。

 ただみんなはそうはいかないだろう。もし仮に文化祭に影響が出るようなことがあれば、愛莉に非難が集中する可能性があった。可能性としては恐ろしく低いと思うが。


 先ほど愛莉は言っていた。なんでこんなに提出期限ぎりぎりのものが多いかって言うと、終わらないことを想定して提出期限の早いものから片付けていくのではなく、優先順位が高いものから片付けた結果だと。


 だから恐らく提出期限を守れないことがあったとしても、何とかなるだろう。もしどうしようもなくて文化祭に影響が出るようなことがあったとしても、愛莉に影響が出るような結果にはならないだろう。


 ただ、限りなく低くても、愛莉が傷つく可能性があるならば葵はどうにかしなければならなかった。自分の努力で何とかなるならばなおさらだ。

 わが身可愛さで愛莉を傷つけるなど、もう二度とあってはいけないのだから。


「ま、俺がいる限り提出期限超えるようなことはないだろうけどな」


 葵は極めて明るく言うと、先ほどは出来なかった、愛莉の頭を優しくなでる。安心させるように。

 自信過剰な葵の発言に、愛莉は少し笑ってくれる。


 ただ、葵も無策なわけではない。終わらせられる可能性があるから言っているのだ。

 今足りないものは何か。人手は勿論、時間がない。ただ人手は増やせない。しかし、時間は何とでもなる。

 時間が足りないのならば、増やせばいいのだ。


「愛莉、ここにあるパソコンって家に持って帰ってもいいのか?」


 葵がそう言って指さす先には、先ほどまで葵が使っていたノートパソコンが置いてあった。どちらかと言えば持ち運び面よりも、能力面を重視したでかくて重いノートパソコンだ。だが、デスクトップパソコンと言うわけでもないので、持ち運びは比較的簡単だ。

 それだけで葵の考えていることを察したのか、愛莉は困惑しつつも答えてくれる。


「持って帰れるけど……そこまでしてくれなくてもいいんだよ?」


 どうやら愛莉は最近毎日のようにパソコンを持って帰り、家でも作業していたようだ。その際に先生に確認を取ったらしく、私的利用をしないという条件の下許可が出たらしい。


「や、俺もそうしたい気はやまやまなんだ……残念なことにもう報酬を貰っちゃってて」


 そう言って葵はぽんぽんと自身のお腹を叩く。


「でも、あれは手伝ってくれることに対する報酬だから」


「じゃあ、追加報酬。愛莉が何でも一つ俺の言うこと聞いてくれる代わりに、俺は仕事を終わらせる。どう?」


「…………べつにそんなことしなくても、葵くんの言うことなら聞いてあげるよ?」


「そう?じゃあ……俺に頼れ。安心しろよ、俺はこう見えて結構天才だから」


 向かい合い、葵と愛莉の目が合う。どれほど見つめ合っていただろうか、ついに愛莉が折れる。


「頼っちゃって……いいのかなぁ?」


「ああ、頼ってくれると嬉しいよ」


「迷惑にならない?」


「迷惑って思うかもしれないけど、愛莉がいない退屈よりもずっと好きだ」


「葵くんを困らせたりしない?」


「愛莉、もしかして……昔のこと気にしてるのか?」


「………しないわけないじゃん」


 葵は愛莉の頭の上に置いていた手を、ゆっくりと離す。愛莉はそのことに気づいたのか、少し寂しそうな表情を浮かべる。


 ただ、代わりに葵は離した手を愛莉の背中に回し、ぐっと引き寄せる。

 愛莉は突然の葵の行動に目を回していた。

 強く抱きしめ過ぎると折れてしまいそうな気がして、葵は抱き締めるというよりは愛莉を包み込むように両手をしっかりと愛莉の背中に回す。そうすると葵よりも小さい愛莉は、すっぽりと収まってしまう。

 葵は自身の顔を愛莉の耳元まで近づけると、そっと語り掛ける。


「ハグするとストレス減るらしいぞ」


 葵がそう言うと、愛莉は葵の胸に軽く頭突きをしてきた。もちろん可愛らしい頭突きで、大した痛みもない。

 愛莉は恥ずかしそうに顔を赤く染めつつ、葵のことを上目使いで睨んでくる。


「どうせなら慰めてほしかった!」


「あー、言葉のチョイス間違えてたか?」


「もちろんだよ!なんでこのタイミングでどうでもいい雑学披露したの⁉」


「でも、さ。昔よりはでっかい背中になっただろ?」


「……今は抱き締められてるから背中は分かんない」


 愛莉はそう言うと両手を葵の背中に回してくる。

 そしてちょっぴり拗ねたような声で、葵の自慢の幼なじみは頼るぅと言ってくれたのだった。

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