第2話  -当たり前ではない事-

 このままいつまでも歩道に居ては通行の妨げになってしまう。

 二人は落ち着いて話をする為に近くのバス停の前にあるベンチへと移動する事にした。


「そう言えばまだキミに謝ってなかったよね……ごめん」

『あ・な・た・わ・る・く・な・い』

「いや、足音で曲がり角に人が走って近づいて来てるのは分かってたんだ、だから僕が歩く速度を緩めるとかその場で立ち止まるとか、そう言った配慮をするべきだったんだよ、それよりも、さっき聞きそびれちゃったけどどこか痛い所はない? 本当に怪我はしてないの?」


 落ち着きを取り戻した後も他人の事ばかりを気遣う言葉からは優しさと温かさが伝わってくる。

 だからこそ青年の心にこれ以上負担を掛けたくはない。

 自分が負った擦り傷は我慢出来ないような痛みがある訳ではないし、このまま黙って伝えない方がいいのでは、そう思った心音ここねは別の話をして話題を逸らそうとした。


『な・ま・え・ま・だ・い・っ・て・な・か・っ・た』

「あ! そう言えばそうだ、焦って忘れてたよ……僕の名前は松尾一輝まつおかずき

『わ・た・し・は・あ・い・は・ら・こ・こ・ね』

「ここねさんか、可愛い名前だね」


 音の響きと言う物を知らない心音ここねは可愛いと言う言葉に戸惑った。

 文字が記号の羅列にしか感じられない心音ここねにとって"ここね"と言う記号と"○△□"と言う記号の両方を見比べてもどこが可愛くてどこが可愛くないのか、その違いが全く分からなかったが褒められると悪い気分はしない。


『あ・り・が・と・う』


 一文字一文字伝えるゆっくりとした会話。

 それはお互いが普段行っている手話や音声言語を使った会話とは比べ物にならないくらい時間が掛かったが、一輝には不思議と煩わしいと言った思いは無く、むしろ一言一言がより深く伝わってくるような、そんな感じさえしていた。

 その後、一輝が大学三年生である事。

 学校では福祉の勉強をしている事。

 そして心音ここねは聴覚支援学校の高等部に通う学生である事。

 そんな事を伝えあっている時、ふと近くを通った年配女性の声が一輝の耳に飛び込んできた。


「どうしたのあなた! 膝から血が出てるじゃない! 転んじゃったの?」


 その言葉に一輝は驚きの声をあげた。


「え? 血? やっぱり怪我をしてたんだね! どうして言ってくれなかったの?!」


 一輝の問いかけに心音ここねはゆっくりと答えた。


『ご・め・ん・な・さ・い・い・え・ば・し・ん・ぱ・い・す・る・と・お・も・っ・て』


 自分に余計な負担を掛けないようにずっと痛みに耐えてたのであろう、そう考えると一輝に申し訳ない気持ちが込み上げてきた。


「近くにいつも立ち寄ってる施設があるからそこに行こう! そこなら薬も全部揃ってる筈だから」


 少し戸惑いはしたが真剣な表情での申し出に断る事が出来ず、心音ここねは一緒に着いて行く事にした。


「それで少し頼みたい事があるんだけど」

『な・ん・で・す・か・?』

「まずここの周りの状況を詳しく教えてもらえないかな? その後で駅の西口にある自動改札機が触れる場所まで連れて行って欲しいんだ」


 ぶつかる前まで自分で歩いていた筈なのに周りの状況を知りたいとはどう言う事なのか? まさか自分の居る場所も分からずに歩いていたとでも言うのだろうか? 心音ここねは疑問に感じた事を素直に聞いてみた。


「僕は生まれつき目が見えないから心音ここねさんや他の人が普段使ってる地図と言う物を見た記憶がないんだよ、だから空間なんかを思い描く事ができなくて場所を把握するのが苦手でね」

『じ・ゃ・あ・み・ち・じ・ゅ・ん・は・ど・う・や・っ・て・お・ぼ・え・る・ん・で・す・?』

「それは目的地の場所やそこまでの道順を基点になる場所からの歩数で覚えてるんだよ」

『も・く・て・き・ち・ま・で・ぜ・ん・ぶ・?』

「うん、ずっと数えながら何歩目で右に曲がる、何歩目で左に曲がるって感じでね、だから途中で何かがあると自分の居る場所や向いている方向なんかが分からなくなってその場から動けなくなっちゃうんだ」


 隣近所までの短い道のりならまだしも、電車やバスを使うような長い道のりの歩数と曲がる方向の全てを覚えているなんて……

 心音ここねは信じられない事実に驚いた。


『そ・れ・つ・か・れ・ま・せ・ん・か・?』

「うん、確かに集中力が居るから大変だけど他に道順を覚える方法が無いからね、それよりもこの方法で歩いてるといくつか問題点があったりするんだよ」

『も・ん・だ・い・?』


 その問題とは白い杖を持っている人に対して行き先を聞いたり心配して声を掛けたり、そう言った誰でも親切心でついやってしまいがちな事だった。

 歩数を数えてる途中で誰かから声を掛けられたり、その人の質問に答えたりすると今が何歩目なのかが分からなくなってしまう事がある。

 だから仕方なく無視をしてそのまま歩くか、もしくはキリのいい歩数まで行ってから答えようと思っていても、相手にはそれが理解できず怒らせてしまうらしい。


 逆に歩いている途中で転んでしまうなど歩数が分からなくなった時のように声を掛けてもらいたい時には、白い杖を両手で持ち、胸の前まで持ち上げて持つ「SOS」のサインを示しても、誰もその意味が分からず気が付いてもらえない事の方が多いらしい。


 見えないと一口に言っても人によって症状はさまざまである。

 見えにくい人も居れば完全に見えない人も居る。

 また完全に見えないと言っても光その物を感じない真っ暗な闇の人も居れば、光の存在だけをかろうじて感じられる真っ白な闇の人も居る。

 生まれつきなのか途中で視力を失ったのか、それによっても状況は全く違ってくる。


 それらの事を見える事が当たり前、地図を見て道を覚え、目標物を確認しながら歩くのが当たり前、そう考えている人に説明して理解を得るのは難しい。


「怒らせちゃう度に相手に悪いと思うし、いっその事"超能力で金脈を探しています、集中しているから声を掛けないで下さい"とか書かれた看板でも持とうかなって考えたりしてね、あははははっ」


 普通なら嫌な経験を話す時は表情が暗くなったり愚痴が混ざったりするものだが、そう言った負の感情を一切感じさせず冗談交じりに話を続ける一輝の明るさに心音ここねの顔にも自然と笑みがこぼれた。


 自己紹介を終えた二人は駅の改札口まで行き、そこからは一輝の誘導に従い歩いて行った。


(凄い! 歩き方に全然迷いが無い……本当に歩数を全部覚えて数えながら歩いてるんだ……もし私が目を瞑ったとしたら怖くて一歩も歩けないと思うのに)


 改めて一輝が歩く姿に驚きを感じつつ着いて行くと、そこには"視覚支援施設キボウノヒカリ"と書かれた建物があった。

 中に入ると小学五~六年生くらいの男の子と女の子、あとは自分の母親と同じくらいの年代の女性の三人が居た。

 一輝は女性のもとへと行き何かを話し始める。

 その唇の動きから彼女は話の内容を知る事が出来た。

 自分と一緒に来た女性は耳が聞こえない事、こちらの話は唇を読めるのでちゃんと伝わる事……そして自分が怪我を負わせてしまい手当ての為にここへ連れて来た事……

 そんな内容の話をしていた。

 一通り説明を聞いた女性が戸棚から薬箱を持って心音ここねの所へと歩いて来た。

 擦り傷をおった肘と膝を消毒し、そのあとに絆創膏を貼ってくれた、どうやらこの女性は少しだけだが目が見えているようだ。

 そこで心音ここねは筆談で彼女に質問する事にした。


『ここって何をする所なんですか?』

「ここはね、目が見えない子供達に点字を教えてあげたり歌を教えてあげたりしてる施設なの、それで一輝くんには歌詞や童話を点訳して本にするお手伝いをしてもらってるのよ」


 知らない人の気配を感じたのか二人の子供が心音ここねのもとへと近づいてきた。

 一輝に対して行った方法でこの子達にも意思を伝えられる筈、そう考えた心音ここねは女の子の手の平に挨拶の文字を書いた。


『こ・ん・に・ち・は・は・じ・め・ま・し・て』


 しかし女の子は首を傾げたまま固まってしまい難しい表情になった。

 

(あれ? どうしたのかしら? 文字を書くスピードが早かったとか?)


 心音ここねは不思議に思った。


「ねぇ一輝お兄ちゃん、この人は何をしてるの?」


 女の子の問いかけに一輝は心音ここねのもとへと近づき話しを始めた。


「ごめんね、説明するのを忘れてたけど、目が見えない人の全員が墨字を知っていて、手の平に書かれた文字が読み取れる訳ではないんだよ」


 その言葉に心音ここねは衝撃を覚えた。

 生まれつき目の見えない人は図形や文字と言った直接触る事の出来ない物を頭の中に思い描き認識するのが難しく、点字以外の文字が分からない人は少なくないようだ。

 心音ここねも聞こえない生活をしている中で健常者から、聞こえない人はみんな出来て当たり前だと勘違いされている事が多々あり困った事があるのに。

 人に理解されない事を悲しみ、世の中には自分には分からない事が、当たり前ではない事がいっぱいあると分かっていたはずなのに、見えない事に対して思い込みだけで行動してしまった事を心音ここねは深く反省した。


『ご・め・ん・な・さ・い・き・が・つ・か・な・か・っ・た』

「別に謝るような事じゃないでしょ? 経験した事がなかったら分からないのは仕方ないんだから、僕だって心音ここねさんに出会うまで耳が聞こえない人が唇の動きで言葉が分かるなんて知らなかったし」

『そ・れ・ち・が・い・ま・す』


 彼女は聞こえない人の全員が手話や口話法を使える訳ではない事を伝えた。


「でも手話って僕達にとっての点字と同じように授業を受ける為には絶対に必要な物だよね? だから小学校で一番最初に教えてもらってみんなが出来るようになるんじゃないの?」


 耳が聞こえない人は手話を使って会話するのが当たり前……

 唇を読めるのが当たり前……

 聴覚支援学校では手話を教え、手話で授業をしているのが当たり前……

 一輝に限らず多くの人が思い違いをしているこの事柄に対し、それは当たり前の事ではないんだと心音ここねは少しずつ話し始めた。

 その内容は一輝にとって予想を遥かに超える衝撃的なものだった。

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