ありがとう

有希が次の会議のために会議室でパソコンの設定やホワイトボードのセッティングをしていると、分厚い資料を抱えた和泉が入ってきた。


「すみません、すぐ準備します。」


焦って謝る有希に、和泉は手で制止ながら、


「俺が早く来ただけだから、気にしなくていい。」


そう言って椅子に座ると、分厚い資料に目を通し始めた。

二人っきりの空間が、妙に落ち着かない。

有希はホワイトボードのセッティングをしながら、横目で和泉を見た。


真剣に資料を追う目がかっこよくて見とれてしまう。

眼鏡でわからなかったが、案外睫毛が長い。

綺麗な顔だなぁ。

皆が言う「怖い」の意味がいまいちわからない。

だってあんなに優しい目をしているのに。

そんなことを思っていたら、いつの間にか手が止まっていたらしい。


「何か用か?」


目が合って問われ、有希は慌てて否定した。


「いえっ、すみませんっ。」


突然話し掛けられ、こっそり見ていたことがバレたのではないかと動揺してしまう。

あわあわしていると、和泉は小さくため息をついて言った。


「そんなに怯えるなよ。」


「いや、そういうわけでは…。」


「俺はよく怖いと言われるからな。気を付けよう。」


ふ、と表情が緩んだ気がして、有希は思わず否定した。


「和泉課長は怖くなんかないです。優しいこと、私は知ってます。私は和泉課長が好きですよ。」


言って、はっとなる。


今、私は何を…。

勢いで好きとか言ってしまった!


「ああっあのっ。上司と部下と言う意味ですっ。」


慌てて取り繕う。

テンパって何を言っているのかわからないが、かあっと頬が熱くなるのだけはわかった。


和泉は驚いた様子で何か言おうと口を開きかけたが、その前に会議室の扉が開いた。

いつの間にか会議が始まる時間になっていて、出席する社員がぞろぞろと入ってくる。

有希は邪魔にならないよう、そっと会議室を出た。

すれ違い様に和泉が、「岡崎、ありがとう」と言ったのを聞き逃さなかった。


自席に戻ると先程のことを思い出してしまう。

和泉課長が「ありがとう」って。

それだけのことなのに、嬉しくて頬が熱くなってしまう。


上司と部下という意味の好きは間違っていないけど、やっぱり私は和泉課長が好き…かも。

有希は早くなる鼓動を抑えつつ、待ったをかける。


和泉課長は確か30歳だから、結婚しててもおかしくない。

指輪はしていなかったけど、独身?

でもあんなに素敵だから彼女がいるかも?

聞きたいけど聞けないっ。


有希は仕事中だということも忘れて、ひとりまた、あわあわした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る