第3話

「ごめんくださいまし、ごめんくださいまし!」


 司祭館の裏口を叩く音と軽やかな若い声に起こされ、ジャン=クロード神父は微睡みから飛び起きた。こんな夜分に何者か。つい先の日曜ミサが脳裏を過ぎり、念の為ベルトに腰カバンを通してから、神父は裏口の小窓を開けた。

 扉にすがって泣いていたのは、月の美しい夜の魔法で動き出してしまった陶器人形のごとき美少女だった。少し乱れた衣服に青褪めた泣き顔さえ、退廃的な誘惑を誘う魅力がある。しかしながら神父はその淡いストライプのドレスが暗闇でもわかるほどか黒く汚れていることに気づいて俄かに心を引き締めた。


「どうされた。君ひとりかい?」

「どうか助けて神父様! 父様が、父様が吸血鬼に食べられてしまったの!」

「なんだって!?」


 さあ入りなさい、と促すと、少女は力が抜けたように腰に抱きついてくる。無理もないだろう、村から丘の上の教会まで逃げて来たのだ──

 いや待て、こんな目立つ少女をミサで見かけたことがあっただろうか?


「君は……どこの子かな? ミサでは見かけないね」

「あたし、父様と一緒に薬と塩を売りに来たのよ。積み荷が全部売れたら、父様がパリで新しい靴を買ってくれるの。なのに、なのにああ、父様っ……!」

「そうか、それで君の父上は吸血鬼に襲われて……君はどうやって逃げて来たんだ?」

「父様が塩を投げて、逃してくれたわ。神父様を呼ぶようにって、村の人は誰も扉を開けてくれなくて、あたし、たくさん走ったのよ!」

「うむ、勇敢だったね」


 あの騒動の後だ、村人たちが門扉を開かぬのは無理もない。神父は納得して、脚にしっかとつかまる少女を抱き上げた。残り火の燻る暖炉の前に座らせて、美しい金色の髪越しに背中を撫でて落ち着かせる。動転しているせいか泣いているのか笑っているのかわからぬ声で、少女は啜り泣いた。水色と白のドレスは、染みたばかりの血でべったり濡れていた。

 

「ね、神父さま。あたしを助けて下さるでしょ。ここに居れば安全よね?」

「わからない。あの吸血鬼は日曜のミサにも現れて、子羊の顔をして獲物を物色していた。聖書も十字架も効かぬとは、よほど強力な吸血鬼に違いない」

「…………まぁ、こわぁい……」

「しかし安心なさい。こちらには純銀の銃弾と硝酸銀の瓶がある。銀は効くとわかっていれば、私が今こそあれを滅そう」

「神父さまっ!」


 少女ががばっと抱きついて、尻に腕を回し腰に顔を押し付けてくる。椅子の高さと体格ゆえに致し方なし、父親が目の前で襲われた今の彼女をあらぬ言葉で突き放すのはあまりに酷だ。

 

 しかし彼女が泣き止むまで待たずして、礼拝堂の方から派手にガラスの割れるけたたましい音が響いた。少女がびくりと身体を強張らせる。


「いけない、君はここにいなさい。私が出たらこの鍵を掛けて、朝になるまでここを出てはいけない」

「イヤッ! 神父様、あたしの傍にいて。神父様まで殺されてしまうわ!」

「このままでは村人と餌食になってしまう。血を吸って手に負えぬ相手になる前に、私が君の父上に代わって滅しなければ」


 カソックを握り込んだまま恐怖でがっちり固まった華奢な指を開かせ、ジャン=クロードは枕元の鞄を掴んで部屋を飛び出した。

 オルガンの音がする。『深き困窮より、われ汝に呼ばわる』。よりにもよって異端者の曲を神の家に響かせるなど言語道断、侮辱も甚だしい。

 ジャン=クロードは胸の前で十字架と硝酸銀の瓶を握り締めて祈る。主よ、悪を打ち滅ぼす力を私に与え給え。

 聖堂に飛び出したジャン=クロードは、首から赤い液体を流して倒れる男の傍でオルガンに座った吸血鬼を見るなり怒りで頭が真っ白になった。砕け散った色ガラスが説教台の前に煌めき、薔薇窓のあった穴から薄笑いする月がよく見える。薄明かりの下、礼拝堂の床は血塗れだった。

 吸血鬼は演奏を止めて悠然と立ち上がると、優雅に手を閃かせて一礼した。


「ごきげんよう、ジャン=クロード神父」

「神聖なる神の家を異端者の調べで侮辱したな」

「頭が硬いな、宗教戦争から何年だったと思ってる。たしかに愚直な男だが、ぼ──わたしのような逸脱者にとって『信仰こそあれ』という在り方はひとつ救いでね。万人祭司性というとやり過ぎだがね」

「主よ、私の不幸を喜ぶ者、私に逆らい誇った者に辱めと不名誉を下したまえ。私の正義に歓喜を与えたまえ」

「ハッハッハ! わたしに聖書は効かないよ。さあさあ、他にどんなおもてなしをしてくれるのかな?」

「黙れ!」


 怒鳴りながら、ジャン=クロードは強い不安に駆られた。ルター派の教義を口にしたこの吸血鬼は、まさか本当に神の言葉を学んだことがあるのだろうか。神を知り、神の言葉を聞く吸血鬼に、神の畏れをどう知らしめればよいのだろうか。


「さて、ぼ──わたしは美少女の血が大好物だ。ここにいるはずだ、連れて来なさい。あの子の血を吸うまでは棺桶に戻る気にならないね」

「主よ、どうか彼らの上に恐怖を投げ、彼らが人間に過ぎぬことを思い知らせたまえ。私の敵、私を責める者をことごとく打ち砕く、その真実と忠誠の名において、私はお前に報復する!」


 一直線に走りながら、神父は吸血鬼の足元めがけて矢継ぎ早に硝酸銀の瓶を放った。外れても彼の足を鈍らせれば十分だ。

 吸血鬼は慌てて外套をバサバサ振りながら飛んでくる瓶を払い落とし、オルガンの椅子に飛び乗った。


「あっチィなもぉ!──まあ待て待て、わたしがこうしてご挨拶を承知でお尋ね申し上げたのは話をするためさ。見たところここは財政難だろう?」

「お前には関係ない!」

「大アリだ。前任の神父は話のわかる老人だったよ。君は神の御前で欲望と叡智の天秤に均衡を保てるかな?」

「何だと?」


 嬉しそうな吸血鬼の含み笑いが心底癪に触る。しかし、存外理性的な吸血鬼はこちらとの会話を楽しんでいる様子で、足元にぐったりと横たわる男に顔を近づけながら調子づいて続けた。


「この男はまだ助かる。だから代わりに少女を差し出せ。ほんのひと口だよ、殺しはしない。眠っている間に口づけさせてくれれば十分だ。乙女の甘い血は私たちに通常の何倍も力を与えてくれるのさ。頷けばわたしは人間の財と秘薬を与えよう」

「……何のことだ」

「人間の財は額にしてそう、新しい薔薇窓を嵌めて、余った金でボロ屋根を修理できるくらいかな。そして秘薬とは、フフフ、わたしの唾液のことさ。これを塗ればこの男は助かるし、軟膏に混ぜて日に当てないよう保管すれば怪我だって胸患いだってすぐ治る。もちろん転化なんてしないよ、血じゃないからね」

「冗談じゃないわ!」


 背後から飛び出した声に虚を突かれ、次いで尻に埋まる何かを振り払おうとして神父は慌てた。なんと先程の少女が腿にしがみついていたからだ。


「き、君! あそこにいなさいと言っただろう!」

「神父様ッ! こいつはあたしの父様を殺したのよ! 早く殺して、父様の仇を討ってよ!」

「こらこら早合点だよ、お嬢さん。前菜は腹いっぱい食べるもんじゃない。そこの神父が潔く決断すれば助かる命さ。なんて言ったって、薬を用意してやるんだからね。ただし……猶予はないよ」


 悪魔と交渉など許されることではない。

 しかし救われる命を見殺しにする罪とて、二者択一と即断できる選択ではない。卑劣な板挟みに息が詰まる。立ち竦むジャン=クロードを前に吸血鬼はのんびりとオルガンを弾き、少女は責め立てるような目でこちらを睨む。猶予はない。

 神よ、何ゆえ今この時私に試練を下し給うか。


「……吸血鬼、私の血ではどうかね」

「わたしは吸血鬼と呼ばれるのが嫌いなんだよ。さあ、もう一度問うぞ。その少女を渡せ」

「ならば、断る──食らうがいい!」


 絡みつく少女の腕を振り解き、鞄から純銀の弾を込めた聖銃を抜き払ったジャン=クロードは地を蹴った。

 悪魔と交渉してはならない。神を試してはいけない。ならば迷いを捨て祈るのみ。

 銃口を向けられた吸血鬼は、しかし間の抜けた声でひとつ嘆息した。その瞬間、膝がカクンと抜けて腕が下がり、神父はガラスの破片の中に倒れ伏していた。


「…………だってさ、ステラ」

「身体は好みだが中身が青臭いねぇ」

「なん……!?」

「安心おし、弛緩剤さ。今からここ暫くの記憶がブッ飛ぶクスリで、あたしとイイコト──」

「ステラ、殴るって言ったぞ」


 やれやれと肩を竦め、吸血鬼は袖で口元の血を拭いながらこちらへやって来た。身構えたつもりでもジャン=クロードの身体はまるで言うことを聞かず、その背中にドカッと座った少女の重さで余計に自由が効かない。

 先程までの甲高い声とは別人のように冷ややかな少女の声に動揺しつつ、しかしその名に脳裏を刺激され、神父は呂律の回らぬ舌を動かした。


「き、聞いたことが、ある……六百年より前から生き続ける金色の魔女ステラ。滅んでいなかったのか……!」

「さあ坊や。あんたはこれから不思議な夢を見る。前任のジジイの霊が律儀に貯めた金が暖炉に隠してあると教えてくれるよ。あんたはそれで窓と屋根を修理して日々の祈りに励むだけさ。朝にはあたしたちのことはなァんにも覚えちゃいない」

「お前の……父親は……?」

「道中拐った浮浪者を睡眠薬で眠らせて血糊をぶっかけただけさ。村には何の危害も加えちゃいない。言っておくが、このバカは本当に祈りに来ていただけさ」

「フン。大方石頭が過ぎてこんな辺鄙な村に左遷されたんだろ。癪だけどレオナール神父に受けた恩に免じてここを去るよ。君とは分かり合えないみたいだからね」

「馬鹿な──神の摂理から脱落した、お前たちが……我らが父に何を祈るというのだ……!?」


 作り物の吸血鬼の仮面を呆気なく脱いだ逸脱者の青年は、きょとんとしてこちらを見つめた。喋れば気になる程度の白い牙を覗かせて、やがて彼は困った様子で苦笑した。


「日常だよ」



「帰りは汽車で帰ろうよ。新しく通う教会の場所を探さなくちゃ」

「近所にデカくて白いのがあるじゃないか」

「ご近所はよせって前に君が言ったんじゃないか。それにあそこは観光地みたいなものだから、静かに集中できないの」

「そうかい。あたしはバラバラにされて人目に触れる場所に晒されるなんてごめんだね。空の見えない場所に骨を埋めたかないよ」

「何度も言ってるけど礼拝堂にあるのは聖遺物で墓場は別なの!」

「知ったことかね。あたしのことは魔女らしく灰も残さず焼き尽くしておくれよ、死後掘り返されてバカに弄り回されるなんてたまったもんじゃない」

「ステラが聖人に数えられることは絶対ないから安心しなよ……」


 だだっ広い丘を下り、明け方の冴えた黄色い光の中寂れた田舎道を歩きながら、僕はハアッと息を吐いた。もう温度はよくわからないし、春目前の空気に息が白むこともない。


「吸血鬼は太陽の光で灰になるって言うけど、僕ってどうなったら死ぬのかな。あの神父様に銃口を向けられた時、僕ってばのんきにそんなこと考えちゃったんだ。できれば世紀の美青年ここに眠るって墓標を立てて欲しいんだけど」

「………………」

「……ステラ?」


 耳が遠くなったのか、返事が返ってこない。振り返って顔を覗き込むと、ステラは思い切り不機嫌そうな顔をして僕を睨んでいた。殴る蹴るか暴言が飛んでくるかと思いきや、そうではなかった。


「いいかい……あたしが神に祈るのは、あんたの灰を教会に撒くその一度きりと決めてるんだ。それまではあたしのために働きな。早々くたばったら承知しないよ」


 唇を尖らせて、まるで寝起きの女の子みたいにステラはそっぽを向いた。

 不覚にもジンと来てしまって、出もしない涙が間違って滲んでいないか、僕は思わず目頭に指をやった。茶化して怒らせて流してあげようかとも思ったが、あまりに嬉しくて僕はへらへら笑ってしまった。


「安心して、寂しがりやの魔女さん。どうせ暇だし、君に見捨てられるまで傍にいるつもりだよ」

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