限りなく零に近い自然数
teardrop.
第1話
私には幼馴染がいる。いつも明るく人付き合いが良く、誰からも好かれるような、そんなやつだ。そんな彼女が倒れたという知らせを受け取ったのは3日前の夜だった。
「澪、お前死ぬんだってな」
私は仏頂面で彼女の病室に入った。友人の多い奴だったはずだが、見舞いの客は一人もいなかった。休日の昼間だというのに、この真っ白い部屋は静まり返っており、昔から賑やかだったこの女は、病気で死ぬ前に退屈で死んでしまうのでは無いかと思うくらいだった。
「ああ、はじめちゃん。ひさしぶりね、元気にしていたかしら?」
澪は不自然なまでに白い手で私の手を握った。酷く冷たい手に、私は亡者を想起させられた。ああ、彼女は本当に死ぬのだ。胸が苦しくなり、彼女の手を強く握ってしまった。
「ああ、少なくともお前よりはな」
私は普段のように憎まれ口を叩くしかなかった。労りの言葉など出てこなかったのだ。
「まあ、ふふ。そうでしょうね。私より不健康だったら、もう死んでしまっているに違いないわ」
彼女は本当におかしそうに笑った。そしてすぐに嫌な音のする咳をした。
「ごめんなさいね。どうもこの咳は苦しそうな音が出るものだから。変に心配させたくないのに」
彼女は申し訳なさそうな顔で私に謝った。彼女にこんな顔をさせるために来たわけではないのに。何も出来ない不甲斐なさに押しつぶされそうだった。
「私がお前のことを心配するわけ無いだろう。変に気を使うんじゃない。お前はいつまでたってもバカなままだな」
私はニヤリと口を歪めると彼女の額に手をおいた。そしてペチペチと指で叩くと彼女の手を握った。
「あれだけ頼んでも自分からは手を繋いでくれなかったというのに。ふふ。今日はいい日だわ」
彼女はふわりと笑った。この笑みを見たのはすごく久々であった。
「全く、いつの話をしているんだ。中学生の頃か?」
「ええ、多分そうだったんじゃないかしら」
彼女は楽しげだが、繋がれた機械は異常な音を発していた。彼女はもう限界であった。だというのに家族も知人も、誰もこの部屋には居なかった。私と彼女だけ。
ふたりきり。こんな状況を何度夢想しただろうか。彼女の周りには友人が沢山いて、私も所詮はその中の一人であった。彼女の特別は、幼馴染というただ一点でしか勝ち取れなかった。いや、それは勝ち取ったものではない。産まれついて与えられていただけだ。
「昔のことなど忘れてしまったよ」
なんて嘯いたが、彼女との記憶は色褪せても擦り切れてはいない。彼女への気持ちは忘れてはいない。
「1度しか言わないから、よく聞いてから冥土へ行けよ」
「ええ、何かしら」
うふふ、なんて笑う彼女は、何故か昔と同じように見えた。医師や看護師が部屋に近付いてくる音が聞こえる。バタバタと足音が響く。ピーと高い音を立てる機械を押しやり、私は彼女の目を見て囁いた。
「初めて遊んだあの日から。君を愛している、澪」
澪は一滴だけ涙を流すと、静かに笑って言った。
「そんなの知ってたわ。私の方が先に好きになったんだもの」
部屋の中になだれこんだ医師らは横ばいの心電図を見て蘇生を試みていたが、それが実ることはなかった。澪は死んだ。
「遠藤さん?!なんでこんなところに!」
ある看護師が私の顔を見て悲鳴のような声で叱りつけた。私は張り詰めていた糸が切れたかのように、その場にぐしゃりと崩れ落ちた。私も末期ガンであった。
「ああ、澪。お前を一人になどしてやらないぞ。私もお前のところへ行くよ」
口が動いたかは分からないが、声にならなかったのならそれでもいい。人生最後の言葉が彼女への愛であることに変わりは無いのだから。
限りなく零に近い自然数 teardrop. @tearseyes13
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