瓦解

それはいつも通りの土曜日で、育休中の南はスーパーに買い物に行っていた。


「じゃあ、ごめん、詩織よろしくね。」

「はーい、じゃあ詩織、ママに行ってらっしゃーい」と詩織に手を振らせた。詩織は笑っている。

「はーい、しおちゃーん。またねー」と南は手を振った。


1時間半しても南は戻ってこなかった。


近所から徒歩5分のスーパーなのでいつも1時間すれば戻ってくるので心配になってLINEした。


しかし、返事がなかった。


不安になったので詩織を抱えてスーパーに向かった。南はいなかった。


すると、119番から着信があった。


真っ暗になった。


「もしもし?」

「あ、佐藤孝宏さんのお電話ですか?」

「はい」

「佐藤南さんは貴方の奥さまですか?」

「そうです」

「南さんが踏切でうずくまっている男性を救助し、南さんは電車にはねられて○○病院で亡くなりました」


 僕が病院に着いた時は「病院に着く肢体はちぎれなかったものの、遺族に見せる状態ではない」と医者に言われた。


 踏切の中で、60代くらいの男性がうずくまっているのに気づいたが、南は男性を助け出そうとしたが、走ってきた電車にはねられた。

 非常ボタンを押した人は「わたしが見たのは、女性の方が助けようとしている時に見まして、『ひかれちゃう』というようなことを言われながら。わたしが線路の方を見ると、ご老人の方が倒れていて、その女性の方は、助けようとして線路の中に入って。わたしは、非常ボタンを押したんですけど、結局...電車は止まらなかったです。」と話した。


 男性は、頭や背中を打っていたものの、命に別条はなく、病院に搬送され、手当てを受けている。目撃者は「逆側の遮断機が閉まる寸前に男性が踏切に進入し、線路上に首を置くように、うつぶせに横たわっていた。」と言っていた。


僕は、これが南が決めて行動した事だから彼女を恨まないし、僕はその男性を恨まない。


結果、男性は助かったんだから。


彼女が助けたいと思う人が助かったんだから。


どうかしてるかな、僕は。詩織はこの先僕を恨むかもしれない。


でも、人の決心に対して人がとやかく言う権利はない。


これが南の「行動」した結果なんだから。


南は高校受験の時志望校を受けなかった事、人生の岐路で何も出来なかった自分に対して都度都度自分を責めていた。


でも、「それは違うよ、」と僕は言った。


「君は十分行動してるよ。僕は結局クラスのマドンナに告白も出来なかったし、勉強して環境を変えようとしなかった。挑戦するだけで100点なんだ、成功したらプラス5点位だよ」って言ったら南に「将来詩織にもそうやってなだめるんだよ」って笑われた。


僕は南のご両親に何度も、何度も謝った。「南を守れなくてごめんなさい」と。彼女のご両親に殺されても良い。そう思った。しかし、お父さんはこう言った。


「頭を上げてください。君といる南は本当に楽しそうだった。小さい頃は本当に明るい子だったけど中学に入ってからいじめがきっかけで、自分の好きな事や欲しい物を親の私達にでさえ言わない内気な子になってしまい、その抑圧が彼女を苦しめているんだっていつも不安だった。

でも、君と結婚する事を決め、一人の男性を助ける事を決めた。それって本当に凄い事だと思うんだ。だから僕からの最後のお願いは詩織ちゃんを良い子に育ててほしい事と、自分を絶対責めたりしないで欲しい。」


こんな時でさえ、人の優しさに救われている。

僕は最後まで南に救われてしまった。


僕の母親も告別式に来て僕以上にえんえんと泣いていた。

「でも、アンタ絶対死んだらダメだよ。南ちゃんと詩織ちゃんの為に」と繰り返し、繰り返し、言った。


彼女のお友達も沢山来てくださり、沢山僕を励ましてくれた。僕はまだ詩織が1歳で良かった、と思った。


福岡のご両親の家の近くのお墓に納骨した。その日は雨がぽつぽつ降っていた。

僕は一つだけ彼女のご両親にお願いをした。

「彼女宛に手紙を書いたので一緒に手紙を入れても良いですか」


ご両親は了承してくれた。


僕はそっと、「南へ」と書いた白い封筒を入れた。


南関連のニュースは絶対見ないようにした。

他人に南の事をとやかく言う権利はないからだ。


3か月会社を休み、会社の人は皆僕を励まし、「ご迷惑おかけしました」と頭を下げた。

僕の頭はぐしゃぐしゃだが詩織を育てないといけない。

僕の杞憂とは別に、会社の人は暖かく迎えてくれた。

首にならなくて心底ほっとした。


先に進まないといけない。


どんなに苦しくても、この先何があろうとも、生きていかなくてはいけない。


僕は「何故僕が生きていかなきゃいけないのか」と人生で何度も疑問に思った事がある。


愛する人を守る為?でもそうじゃない人は沢山いる。


一つだけ分かった事は「生きる理由は自分で作り上げるものであり、勝手に生まれる物ではない」という事だ。「○○のDVD出るまで死ねない!」とか「イタリア行けるまで死ねない!」とか、僕達の人生には必ず期限があるから、それに勝手にゴールや使命を作っているだけだ。


ちょっとクサいけど自分で自分の「物語」を作る為、と言い換えても良いだろう。


「命の重み」、ってそりゃ皆平等にあるし、命は大切だ。ただそれと同時に僕達はいつも死と隣り合わせにいる。

だから一度きりの人生、転がるように生きていくしかないし、何が起こるか誰にも分からないから今を生きるだけしかないんだ。


「人間のプライドの窮極の立脚点は、あれにも、これにも死ぬほど苦しんだ事があります、と言い切れる自覚ではないか。」


太宰治の「東京八景」からの言葉だ。僕はこの言葉にたまたま書店でぽんと出会い、とても救われた。

普通、苦しい事は人は避けがちだが苦しむ事にこそ実は価値があるんだ、と思った。

苦しい人生の方が、たとえ一瞬だとしても、誰よりも重みのある幸福を感受出来ると信じている。


だから僕は前を向く。

死んだ方が楽でも生きる。僕の使命は詩織を守る事だ。


母が同居するようになり、育児は全面的にサポートしてくれて、福岡から2か月に1度来る南のご両親も、詩織を見るとたちまち笑顔になる。

その姿を見ると僕も笑顔になる。まるで今迄南がそうしてくれたように。


僕は一人じゃない。だから生きる。

詩織が20歳になり、成人式を一緒に迎える時まで僕はがむしゃらに、生きた。

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