随筆・生きる
https://www.tsurezure-essay.jp/
上記にて、随筆を募集していました。以下をアレンジして、投稿したいと思ってます。(テーマが違うので、それに合わせるつもりです)
お時間があったら、読んでね。
「生きる」
わたしは、長い二週間を経験した。
一九八八年六月二十三日、母がくも膜下出血で倒れたのだ。仕事先の松阪でのことだった。たまたま母と同席していた人が、すぐに病院へ救急車で連れて行ってくれた。大阪に勤めていたわたしに連絡が来たのは、夕方五時頃のはずである。
取るものも取りあえず、夫とともに母が運ばれた松阪の病院に向かった。松阪は実家から電車で二十分程度、大阪からは一時間四〇分程度である。当時の医学は技術的に劣っていたので、ドクターは頭蓋骨のまんなかが血で「黒く」染まったCT写真(当時はMRIはなかった)を示した。ドクターは病状の説明をした。
「処置が早かったので、左半分にマヒが残りますが、生存率は八割ですね」
ドクターの言葉に、わたしたちは安堵した。身体が不自由になっても、生きていてくれるならそれでいい。
母は、わたしに暴言を吐いたけれど、愛してくれていることは実感できた。わたしも母を、愛していた。大好きだったのだ。
ICU待合室には、家族とみられるさまざまな人々が、治療の結果を待っていた。黒地の薄着を着た老人、子ども連れの主婦、頼りなさそうな若者。わたしたちも、待合室で寝泊まりして治療の結果を待つ。きっとよくなる。そう信じて。ICU待合室は、そのとき希望で輝いているように思えた。
しかし三日後、病状は悪化した。生存率は五割になった。父も妹も打ちひしがれ、いっしょにいたわたしと夫だけが、ドクターから病状の説明を聞いていたので、ドクターは夫を「長男さん」と呼ぶ始末だった。
母は夫との結婚を大反対したが、結婚三ヶ月しか経っていないのに、夫はわたしを支え、つねにリードしていた。
病気で倒れた一週間目、母は昏睡状態に陥った。生存率は三割を切り、植物人間になる、と宣言された。このままチューブにつながれて生きていくのか、看病はどうする。いろいろな思いがわたしの中を駆け抜けていった。母の姉である大阪の伯母は、「わたしはアテにしないでね」と言って、それっきり見舞いにも来なくなった。
それからまた、約一週間経った。くも膜下出血でこんなにも長く闘病するのは、珍しいとドクターに言われた。
ある夜、病棟でわたしは看護師に呼ばれた。母の浴衣を洗え、というのだ。それにはべったりと、大便がついていた。「思い出になるよ」看護師は言った。わたしは洗い場でそれを洗ってふと天井を見あげた。
細長い蛍光灯に、小さな蛾がとまっている。蛾は茶色い羽根を持っていた。どこから紛れ込んできたのだろうか、大きさは、親指ぐらいだろう。暗闇に輝く電灯に貼り付いて、動きそうにもなかったが、いつしか蛾は鱗粉をまき散らして飛び始めた。浴衣を持つ手が震えてきた。赤ん坊のころには、母もわたしの不始末を洗っていたのだ。熱いものがこみ上げてくる。
その翌日、ICU待合室で待機していたわたしたちの所に、連絡が入った。
ぜったい意識は回復しない、と言われていた母が、意識を取り戻したというのだ。この奇跡に一条の光を感じ、わたしたちは母の病室に駆けていった。
健康自慢だった母は、電極につながれた肉の塊だった。わたしが母に近づくと、母はわたしをじっと見つめ、
「ごめんね、ごめんね」
と謝った。
石にかじりついても、とか、根性、とかふた言目には口にしていた母の、初めての謝罪に、わたしはショックを受けた。母は夫にも、なにごとか言っていたようだったが、わたしは思わずその場を逃げ出してしまった。
わたしは今でも後悔している。なぜ、あのとき
「そんなのどうでもいいわよ。石にかじりついても、でしょ?」
って言ってやらなかったのか。そしたら、負けん気の強い母のことだ、もしかしたら、今も生きていたのではなかったのか。
モニターが、ピーッと鳴った。母は目を閉じた。ドクターは、汗だくになって心臓マッサージをした。「もう、いいです」わたしはドクターに言った。解放してあげよう。母をこれ以上、苦しませたくはなかった。
ドクターは、その後、母の左目が角膜移植に向いていると告げた。わたしはドクターに、臓器提供を申し出た。しかしドクターは、母の臓器は薬のためにダメになっていると告げた。わたしは角膜提供を申し出た。
一九八八年の七夕に母は死んだ。梅雨空が切れて、銀河が見える夜だった。享年五二歳だった。
母は八日の昼には教会の人々の歌う美しい賛美歌とともに、天国へと旅立っていった。だが母の思い出は、わたしの中で生きている。
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