翻訳の限界
最近、昭和33年に発売された、サキ短編集(新潮社、中村能三訳)
を、超訳してFBに載せました。
タイトルは 『二十日鼠』。
主人公は、母親に甘やかされて育ったセオドア・ヴォラア。世間の下劣な現状にイラついていた。
普通なら下男が自分の世話をしてくれるのに、厩で出立のための馬の支度をしなければならなくなった。
そこでは二十日鼠の臭いがした。
そのため、自分の衣服の中に二十日鼠がいる、と思い込んだセオドア・ヴォラアは、
汽車に乗り込んでも落ち着かず、まにあわせのカーテンをつくって
服を脱ぎ始める。しかし眠っていた婦人に裸になった自分を見られて、カーテンをたぐり寄せて赤面する。
風邪を引いたかも、マラリアかも、と、カーテンで前を隠しつつ、
言い訳あれこれするセオドア。婦人は眠るどころか、目はパッチリ開いている。いよいよ駅に着く頃に、婦人は、
「人を呼んで荷物を降ろしてもらえませんか。目が見えないのです」
と言ったのだった。
というストーリー展開。オチがサイコー。
詳細をFBに載せました(著作権は、すでに切れていますが、翻訳権はどうなんだろう)。
問題があったら削除してね、こんな作品があるんだよ、というコメント付きで紹介したんです。
しかし、クレームがつきました。
「あなたが超訳したってことは、原文をゆがめてるってことですか。原文の微妙なニュアンスは、
どうなるんでしょうか」
というのが、趣旨でした。
わたしは、
「翻訳することにしても、文章を書くにしても、伝わらないものはぜったいにある」
と書きました。すると、返答として、
「違う言語に変換するんだから、齟齬がでるのは当然だが、ぼくは翻訳のズレを楽しみたい。
すらすら読める文章には、なんの魅力も感じない」
とありました。
で、わたしは思ったんです。こいつ、翻訳のなにがわかるってんだ。
返答として、こう書きました。
「村上春樹のチャンドラー翻訳は、悪文なんですか(読んでないけど)。
ズレがあるのは仕方ないけど、それにあぐらをかくのは、翻訳者のおごりだ。
翻訳というのは、作者と翻訳者の間の格闘だ、翻訳者はどれだけ読者のために
努力したかが大事なんだ。
ほんとにズレを楽しませたかったら、本のタイトルとあらすじと作者と出版社を紹介して、
『自分で翻訳して、ズレを楽しんでね』 と放り出せばいいじゃん」
キツかったかな。
そのクレームを書いた人、村上春樹の大ファンなんです。
チャンドラー翻訳を読んでないはずはないわけです。
わたしが、サキ短編を超訳したのが、気に入らなかったに決まってます。
要するに、嫉妬です。
まあ、いいです。削除はされてないみたいだし、わたしなりに勉強になったし。
1年間、FBの文章講座を受けるつもりでいるので、いまはがまんしますが、
12月になったら辞めるつもりです。
……足の引っ張り合いなんかに、つきあってられますか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます