10,いつもの街の知らない景色
「うぅ、ううぇっ、ううう気持ち悪い吐きそう……」
うぅ、もう一生お酒は飲まない……。
瑠璃色に晴れ渡る空、明けの明星瞬く静寂の街に、無駄に響き渡る独り言。それを聞く者はいない。
二次会の後、駅前の小さな居酒屋で1時過ぎまで三次会。その後、やんちゃな人たちとカラオケオールナイトして別れた。あいつらと物怖じせず『紅』を思いっきり歌う日が来るなどと、中学生のわたしが聞いたら信じるだろうか。
5時40分、乾いた空気に頬を刺されながら、駅舎の北側にあるコンビニで買ったイチゴサンドをバッグに忍ばせ、茅ヶ崎駅南口の2番乗り場に立ってバスを待っている。脇にベンチがあるけれど尻が冷えるので座らない。始発のバスは5時55分。あと15分後。5分もあればタクシーで帰れるが、バスなら定期券を持っているから出費ゼロ、タクシーは8百円くらいかかる。家がバス停に近いから、どうにもタクシーに乗る気が起きない。ただでさえさっきまでの宴で
5時45分、早朝の静けさを裂くように上り電車の滑り込んでくる音が聞こえた。背後には駅舎があって電車の姿は見えないけれど、雑音の少ないこの時間は音がよく響く。『希望の轍』のイントロがワンコーラス流れてドアを閉めると、快速ラビット号は遥か彼方の
5時50分、バスが到着した。音が籠ったアナウンスも、この時間は
乗車して、わたしはドアの前にある折り畳み式座席に座った。続いて小汚ないおじいさんが優先席に(最近のバスは優先席も他の座席と同様に前を向いている)、その右斜め前にケバいお姉さんが、わたしの3つ前の折り畳み式座席に座った。
この時間帯は、こういう客層なのかな。さっきは駅のコンコースに割れた一升瓶が散乱して酒臭かったし、住み慣れた街でも知らないことがたくさんあるな。
自宅最寄りのバス停から夜明け前の少し潤った空気を吸いながら歩くこと2分、ポチもまだ眠っている真っ暗な我が家に半日ぶりに帰った。手洗いうがいをしてバッグに忍ばせていたイチゴサンドを食べ、朦朧とした意識でシャワーを浴びた。気が付くとベッドの上にいて、部屋に冬の低い陽光が射し込んでいた。
いつの間に眠ってた。しかもスマホに充電器が差し込んでバッテリー百パーセント。なんて有能なんだ森崎夢叶、やればできるじゃないか。
コンセントから充電器を、充電器からスマホを引き抜き、ベッドから這い出てキッチンで水道水をがぶ飲みした後、酔い醒ましに海へ向かって歩き出した。生命は海へ還る。
13時、道幅が狭く車線のないラチエン通り。住宅地の切り取られた空は、雲はまばらに青く澄み、深く吸った空気が全身に染みわたる。
きょうは風が弱く、顔面や首、スカートから脚に入り込む冷感が少しばかりやさしい。そういう日の心持ちは、特段良いことがなくても穏やかになる。
南に砂浜と海、烏帽子岩、伊豆大島。西に伊豆半島、東に江ノ島、三浦半島などを見渡す雛壇状の展望デッキに腰かけた。虚ろな眼で水平線を眺め、ラチエン通りの自販機で買った炭酸水を流し込みながら、ただただぼーっとする。
眼下を見ると、人通りまばらな東西に伸びる砂浜、波打つ海は冬の低い陽光が反射してきらめいている。世界の絶景カレンダーに載りそうな景色が徒歩圏にある幸せを、アルコールに
のっそり右を向くと、すっかり雪化粧した富士山がくっきり。
いい街だなぁ。
海があって、街があって、商店街が元気で、駅周辺はそこそこ栄えてて、ちょっとした森や山もある。江ノ島と鎌倉、横浜も近い。
そして何より、人がそんなに多くない。
人混みが苦手なわたしにとってそれは、かなり重要ポイント。こうやって一人でのんびりできるし、そこそこの人通りはあるからなんとなく安心感がある。
「あ、やっぱり森崎さん」
我が名を呼ばれたので虚ろな目で右下を見ると、茶色いダウンコートに黒い毛糸のマフラーを巻いて防寒対策バッチリの猫島くんがいた。
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