7,雲間を抜けて

「ううう、寒っ」


 芯まで冷えきったこのわれを、抱きしめるヤツはまだいない。彼氏欲しい。


 紅白を見て冷たい年越しそばをすすり、いつの間にか寝落ちして迎えた新年一発目の朝6時。まだ陽が昇っていない空は星たちのカーニバルがクライマックス。


 さて、初日の出でも見に行きますか。


 家から海まで徒歩10分。ノーメイクで白いもふもふのダウンコートを羽織り、ふわ~ぁと大あくびをしながら家を出た。家を出た時間は会社に行くときと変わらない。


 海の近くに住んでいるからか、元旦は本能的に初日の出を見に行く。幼いころは両親もいっしょに見に行ったけど、いまやそんなことはない。数年に一度、母が気まぐれで付いてくるくらい。父は金沢から戻ってこない。


 同じく海へ向かう人々が路肩からはみ出るラチエン通り。車線がなく、道幅は一方通行の道路とほぼ同じだけど対面通行。初日の出目当てに訪れた他県ナンバーの路上駐車が多く、迷惑千万。


 しかしまぁ、周りはリア充だらけですなぁ。路駐の車ごと爆発させたい。


 あ、自販機だ。


 シャッターの降りた軒先にぽつり佇む自販機で、わたしはペットボトルの温かいロイヤルミルクティーを買った。


 ふぅ、あったまるわぁ、このやさしくて、茶葉の旨味を閉じ込めた奥深い味。これが140円で楽しめるなんて、世の中進歩しましたな。


 ちびちび飲みながら路肩を歩き国道134号線に突き当たると、その向こうの松林の間から烏帽子岩が見える。ここ菱沼海岸ひしぬまかいがん交差点は、海の広い視界を松林が切り取る効果で烏帽子岩が大きく見えるスポットとして、市民や観光客、ボーカルが茅ヶ崎出身でわたしの中学の先輩であるサザンオールスターズのファンから親しまれている。ここはビュースポットと同時に、彼らの楽曲によく登場するリゾートホテルの跡地だったりする。


 わたしの右斜め後ろにあるオレンジレンガ屋根のリゾートマンションがその場所だけど、これができる前は廃業したホテルの建物があった。いろんな思念が込められているような、まだ誰かがいるような気がして、近寄りがたかった。まだわたしが子どもだったころの話。


 ロイヤルミルクティーやホテルの跡地に気を取られている間、瑠璃色だった空が白んで日の出間近を感じている、気付かぬうちに三十路になって周りの同級生たちが結婚し何も成し得ていない自分に砂漠のような孤独感と虚しさを感じ日々途方に暮れているわたし、森崎夢叶。


 こうして国道の長い信号待ちをしている間にも地球は回り、時間は過ぎてゆく。日の出は6時51分ころ。現在6時49分00ころころ秒。さて間に合うか、嫁入りは既に行き遅れの森崎夢叶。しかし世間では晩婚化が進み、まだ望みはあるぞ。


 ちなみに『0』を『ころ』と読むのは鉄道の業界用語。まるくてころころした数字だからそう読む。


 浜辺に降りたのは6時52分だった。


 おやおや、今年は雲が厚くて日の出の瞬間は見えないみたい。例年は三浦半島からひょっこりピカッと顔を出す太陽だけど、今年は残念。太陽を隠している雲はやけに黒々として、暗黒の向こうには眩しい世界が待っているこの世のことわりを目で見て感じられる。


 わたしにもいつか、報われる日が来るのかな。


 雲から日が出たのは6時55分だった。


 日の出を確認し、浜辺にいるパッと見千人くらいのうち約半数が、ぞろぞろと引き返してゆく。


 あぁ、もったいない、本番はこれからなのに。


 わたしは毎年、日の出から10分後に見える、とろとろした穏やかな波に光る幻想的な世界を楽しみにしているから、今年も居残る。ちなみにそれは、日の入り前にも見られる。この前、門沢さんといっしょに見たやつ。でも、早起きして寒さに耐えてから見るそれは、なんだか格別なんだ。不思議だね。


 10分後。


 うーん、今年は水面と波打ち際のキラキラも見えなかったな。


 我らに見えぬよう陽光を隠し、暗黒に染まりし雲は忌々しくも気高く伸びて、とても太陽が顔を出しそうにない。だが、風で流れるやもしれぬ。高さはあるが範囲は狭い。周辺の空は晴れている。大した景色は期待できぬが、暫し待つ価値はさもありなん。


 風、弱いな。


 こりゃもうだめかな。あと何時間かかるやら。寒いしそろそろ帰ろうか。


 と、あきらめかけたときだった。


「おおっ」


 まだ太陽は、雲に隠れている。けれどその隙間から、いくつもの光の筋が海に向かって一直線に降りている。『天使のはしご』だ。現在7時10分。日の出から約20分経過し、浜辺に人はまばらになっている。


 どんより黒い海に差す光は、そこだけ直視できないほどにきらめいて、それでもやさしく、この湘南を照らしている。


 眩しいのにやさしくて、黒ずんだ世界のきらめきに、心が吸い寄せられる。


 粘りに粘った人だけが味わえる境地にいま、わたしは立っている。


 あ、わたしにも、あったじゃん、成し遂げたこと。


 幼稚園から大人になるまで何度もいじめられて、元日に父が戻らないくらいには家庭環境もずっと良くなくて、夫婦喧嘩が絶えなくて、両親から八つ当たりされて、どこにいても罵声を浴びて心休まるときなんかなくて、何度も何度も、百や二百じゃ足りないくらい死にたいと思って、それでもいま、生きてるじゃない。


 それは間違いなく、わたしの成果だ。


 しばらくすると太陽はまた、雲間に姿を隠した。


 やっと光が見えたと思って開いた扉の向こうは、ほんの刹那に晴れてもまた闇で、いつになったらずっと晴れる日が来るだろうと、何日も何日も先の見通せない雲の中にいて、それでもいつか、晴れる日が来る。地球の天気も、人生の旅路も。


 そういうことをわたしはいま、目で見て感じて、会得えとくしているんだ。


 ということは、この先きっとわたしには、大きな困難が待ち受けている。


 それこそ小説家デビューして知名度が上がれば、支持してくれる人もいれば、バッシングを浴びせてくる人もいる。


 そういうことに耐える免疫力を、わたしは物心ついたころから培ってきたんだ。


 他方で、いじめてきた人たちはどこかで必ず地獄を見る。そこからどう這い上がるかは彼ら次第で、目先の快楽にとらわれた愚者は、長い目で見て損な役回りだ。


 いやぁ、でもアレだなぁ。ここのところ何年も普通に日の出が見れていたのに、今年はこうなった。年の前半は大きな困難が待ち受けていそうな気がするなぁ。


 そして少しばかりのきらめきの後に、また雲に覆われる。


 この雲は取り払わにゃならんですな。


 あ、そもそもわたし、ずっと雲の中じゃん。幼稚園から現在に至るまでイヤなことがあり過ぎて、頭がボーッとしっぱなしじゃん。最近自分が健康だと感じたのっていつ? 7年前のたった1日だけだ。いまも割と体調悪い。これがわたしの普通だけど、世の大半の人にとってはたぶん異常。


 いやはや闇が深いですなぁ、森崎夢叶、30歳。


 忘れ得ない記憶をすべて身に纏って、重たい荷物を背負って、生きてかなきゃね。自分と、自分を支えてくれるすべての幸せのために。

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